血の祝杯
「こんな時に……!」
思わず黎琳の右手を握っていた手に力を込めた衿泉。ここで離せば間違いなく連れて行かれる、そう直感していた。
案の定、溜謎の狙いは黎琳に向けられていた。
「波動使いの小娘、その力を使って応龍を呼び寄せる餌にしてやろうじゃないの」
言うなり、七つの尾が次々に衿泉と黎琳を襲った。
「くっ……!」
左手だけで剣を使うのは初めてなので慣れない。黎琳を抱えるのに回された右手も思わず動かしそうになる。
六撃までは何とかしのいだものの、最後の一撃が黎琳の脇腹へと突き刺さった。
「あうっ……!」
その痛みに黎琳は正気を取り戻した。
いつの間にやら周りの風景が移動しており、しかも溜謎に対峙し、脇腹を貫かれただなんて、瞬時に把握出来るはずもなかった。呆然とする彼女から容赦なく尾は引き抜かれた。
「っ……!」
鮮血が勢いよく噴き出た。
自分の名を呼ぶ仲間の声が遠く聞こえた。
――私は、ここで死ぬのか?
先程見ていた自分の過去を思い起こす。そして黎冥が呼ぶ声が再び黎琳を苛む。
とても闇に溢れかえった禍々しい声。耳を塞ぎたくなる。けど、塞いでも無駄である事は分かっていた。これは耳から聞こえてくるものではない。脳内に直接力を行使して語りかけてきているのだ。
けれど、それから逃げてはいけないように感じた。
禍々しいものであるけれど、その奥には――
――私は、死ねない。黎冥をこのままにして死ぬ事は許されない!そして……私を支える仲間達に応えるためにも!
内側から予想外の生命力が溢れかえってくるのを感じた。治療に専念する必要もなく、溢れ出る気が傷口をすぐさま塞いでいく。
「黎、琳!?」
黎琳は気に包まれていた。神聖なるその光が邪悪な妖弧の尾を焼く。
『な、何を……っ!人間ごときがこんな気を扱えるはずが……』
「ここまで見ておいて、まだ私の正体に気付かないとは、何ともお間抜けな狐なもんだ」
いつも通りの強気な態度が戻っていたので、一同は内心少しほっとした。しかし、彼女が纏う人智を超えた気が鎮まる気配はない。
気は確かに人間にとって治療などに使える良きものだ。しかし過ぎる力は身体に負担をかける。並外れた力を一気にその身に受ければ死に至る事も十分に有り得る。
気を鎮めようと春零が歌を紡ごうとした。しかしそれは先に溜謎の高笑いに遮られた。
『あっははははは!成程、そういう訳だったの!』
「何が可笑しいんだよ、いかれてるぜあの妖狐」
『ふふふ……道理でこの一行に応龍の加護が付き纏うわけだ』
何故応龍が今ここで関係がある、とでも言いたげな顔をした銀蒐。後の二人も首を傾げるのを見て、溜謎は楽しそうに謎解きの回答をした。
『応龍は旅の一行の中に最初から居た。……黎琳、と言ったこの波動使い自身が、お前達の希望の光そのもの!応龍だったんだよ!』
辺りをしばらく静寂が包んだ。
「ま、さか」
ようやく言葉を紡ぎ出したのは春零だった。
「確かに春蘭を助けたあの力は凄まじきものを感じましたが、それは力ある波動使いだからで……!」
「我らが帝王を救ったのも黎琳殿だが、それも波動使いの力あってこそではなかったのか?」
「毒にやけに耐性があるとは思ったけど……それ以外は単なる波動使いと同じだったよ?」
続いて銀蒐、陳鎌がそれぞれ口を開いた。
そして最後に衿泉が述べた。
「滅ぼされた村で俺を救ったあの力も、春蘭を救ったあの力も、帝王を目覚めさせたあの力も、毒に強かったのも、波動使いだからって……そう思いたかった。けれど、俺の中にはお前に対する不信感がずっとあったんだ。一番怪しいと思ったのは、いつまで経っても、自分の経緯を話そうとしない事。だから何か事情があると目を瞑っていた。まさかその裏に本当に応龍の正体を隠しているとは思いたくなかった……!」
吐き出すように出された衿泉の本音に一行は固唾を呑んだ。
黎琳自身も、その正体を隠す事に苦しんだ。でもそれ以上にこの双剣士は思い悩んでいた事を初めて知った。気付いていても気付かぬ振りをする。どうして話してくれないのか、不安になる。でもそんな素振りを彼は一度も表に見せる事はなかった。
「……すまない」
ただただ謝罪の言葉しか出てこなかった。
「いつかはばれる事になるだろうと思っていた。話そう、と何回
も思った。けれど、やっぱり怖かった。信用していても、怖かったんだ。受け入れられない不安はなかったけど、それを知った事で私に対する態度が変わってしまう事がずっと不安の種だった。こうした距離感が、関係性が刷新されてしまう事を恐れたんだ」
両脇の髪を上げ、人間でない証である長い耳を曝け出して見せた。皆声も出ずにただただ驚き慄いた。
そして黎琳は彼らの目の前で変化をして見せた。度々彼らの前に見せた銀髪碧眼の少女へと変わって見せたのだ。
積もる話はある。が、今一番に対処しなければならない事がある。目の前で繰り広げられる茶番を退屈そうに眺めていた溜謎へと黎琳は再び向き直った。
『座談会は済んだ?』
「私はもう加減をする理由がなくなった。今まで通りに逃がすと思うな」
言うなり、地を蹴る。
溜謎はすぐさま飛び上がり、回避しようとする。黎琳はすかさず垂れ下がった尾を掴み、引っ張り下ろした。
『!』
背中から地面へ大きく叩きつけられた溜謎。
「前にもいったはずだ。私にお前は敵わないと」
『別に勝とうだなんて思ってないわよ!』
負け犬の遠吠えか、と思われた。
ところが、残った尾で黎琳の自由を瞬時に奪った隙を逃さず溜謎はその首筋に噛み付いた。素早い反応に黎琳は反応しきれなかった。
「はっ……!?」
『わたくしは応龍、お前を殺すつもりは最初からなかった。ただ単に血を分けて欲しかっただけなのさ!』
口にべっとりと赤黒い跡を残したまま、溜謎はすぐさま逃げ出す。
「待て……!」
『わたくしを追ってこの山の麓にある洞窟へとおいで。最大の絶望を一番に味わわせてあげるよ!今宵は血の祝杯だ!あーはっはっは!』
傷こそ浅かったものの、貧血のために黎琳はその場に蹲る事しか出来なかった。彼女の消えていった黒の森を睨みつける。
――私の血を使って、一体何をしようと言うんだ……!?
彼女の計画が最終段階に入っている事を一行は感じていた。