曲げられなかった運命
幻は数年後の二人の様子を映し出す。
――どうしよう、本当に身ごもってしまった
人間と龍の間に子供など出来ないだろうと思ったのが甘かった。日に日に大きくなってくる腹を隠すのも限界に近かった。
今の今まで稔寧本人にはこの事を喋っていない。何せそんな例は聞いた事がないし、難産なのかも知れないし、期待しない方がいいのかも知れないからだ。
とは言え、折角授かった子供を簡単に捨てる訳も無く、密かに成長させる事しか出来なかった。
山に行ったきり、戻ってこない稔寧の身を案じて藍樺は動き出した。
『稔寧~?何処なの~?』
身ごもった身でここまで動くのは結構体力を使う。
気を使いたい所だが、赤子に支障が出ないか不安なのでやめておく。
見守る一行の間には嫌な予感しかよぎらなかった。
月明かりの元で、藍樺は彼を探し当てた。
『……どうして?』
『藍樺、か……』
酷い傷を負って木にもたれかかる夫の見るも辛い姿。慌てて治療をしようとした藍樺に稔寧は手を強く握り、頭を振った。
『お前だけは……逃げろ……子供を、守れ……』
『気付いてたの!?』
堰を切ったようにとめどなく溢れ出る涙。
風に乗せられてきた焦げ臭いにおい。赤の光がぼんやりと灯り、何かが燃えている。あれは、共に幸せな日々を送った家屋だ。
『奴が来る!』
無理に立ち上がり、藍樺の背中を押す稔寧。傷口から血が再び滲み、滴となって地面を赤く染める。
草むらを歩く音が近づいていた。気配で藍樺はそれが誰であるか把握していた。
『藍樺……』
天界で唯一友と呼べる存在だった風を司る七神の一人、香耀。
『我々の元へと帰ってきて欲しい』
『香耀まで……香耀まで私を追い詰めるの!?』
もう何も信じれない。
『逃げろ!』
『邪魔だ、人間風情が』
次の瞬間、藍樺の目の前で血飛沫が上がった。
血を口から吐き出し、倒れる夫に更に親友は追い討ちをかけんと背中を踏み躙ろうとする。
親友だから、手荒な真似はしないだろうと甘い事を考えていた自分が愚かしい。
神は人を代えの利く存在だと軽んじている。実際、死後魂は再び肉体を変えて新たな生命となって戻ってくる。そのせいか、死に特別な慈悲を持つ事をしない。
そんな奴等に、意のまま動かされるだけの自分はもうとっくに捨てた。
今更彼女を友だと思うことそのものが間違っていたのだ。
『人間に何を唆されたか知らないが、藍樺が居なければ――』
『都合のいい事言わないで!』
ぶわっと風が唸った。風の神である彼女すらそれを止めることは出来なかった。
これが引き起こされている原因は気の乱れ――天龍の怒りのせいだ。
『私は知ってるのよ!貴方達七神が欲しているのは私の力だけなのよね!長い年月をかけてその力だけを私から取り出す秘術を編み出した事も知ってるわよ!』
『それは全部藍樺の身を案じての事で――』
『聞きたくない!私の自由の羽だった彼を殺した神の言葉なんて!』
この状態では何を言っても無駄だと判断した香耀は退いた。
彼女の気配が離れていった事を確認して、地面に倒れた彼を抱き抱える。虫の息だが、まだ生きていてくれた。
うっすらと目を開けて、彼は掠れ掠れに言った。
『気を、付けろ……混沌の、渦が、近づいている……子供を、渦に……呑ませる、な……――』
『!知っていたの!?混沌の渦って何?渦に呑み込まれたら、どうなるの?』
もう返事が返ってこないと分かっていても、問わずには居られなかった。
冷たくなっていくその身体を藍樺はずっと抱きしめ、泣いていた。
暫しの時が流れ、藍樺は涙を拭いて立ち上がった。彼の身体を自然へと還してやる。
急速に土へと変化していくその身体を見つめ、再び溢れ出しそうになった涙をぐっと堪えた。永遠の別れだけど、心は側にきっと――。
共に逝きたいとも思った。けれど、まだ自分には残された羽がある。
後に生まれる、新たな命がこの中で芽吹いているのだから。
――私は、守ってみせる。私達と同じような運命には合わせない
後ろを振り向く事なく彼女は歩いていく。
「……あれが、私の父親」
衿泉達が試練として過去の幻影を見せられていた同じ時、黎琳も同じく幻影を見ていた。
場所はまだ先にある洞窟の最奥地。傍らに座り、同じく幻影を見つめる女は酷く辛そうだった。
自分の父親がどんな人だったのかがよく分かった。人間の呪術師で、正義感があって、誰よりも純粋に母を愛していた人。
が、赤の他人のようにしか扱えず、その人の死を酷く悲しむ事は到底出来そうになかった。
けど、一つだけ言える事は、母にとって子である自分の存在はまさに希望であっただろう事だ。
下手したら捨てられたのかも知れないと思っていた黎琳にはかなりの救いだった。
……にしても、まどろっこしいと言うか、何と言うか。
「おい、藍樺。これは一体いつまで続くんだ」
『やっと半分、と言った所です。まだ先に貴方達の知るべき事があるのです』
「まだ半分?」
『貴方は薄々気付いているはずです。辛いかも知れませんが、貴方もその仲間達も知るべき事です』
人魚による幻影を思い出し、黎琳は思わず眉を顰めた。
確かにあの記憶の謎は解き明かしたい所だ。けど、怖い。しかも、仲間達にすらその謎が開示されるのだ。
仲間達の事は信じてる。でも、「黎琳」と「応龍」は彼らにとって別物として認識されているのだ。例え「黎琳」は受け入れて貰えても、「応龍」が受け入れて貰えなかったら。それは本当の自分を拒絶されているのと相違ない。
拒絶と言えば、母親の事もまだ謎が残っている。
何故自分は親の元を離れなければならなかったのか。
『それも全て今に分かりますよ』
「っ!!」
どうやら心を読まれていたらしい。親だからと言って、していい事と悪い事があると思うのだが。
『運命とは、そうも変えられないものなのでしょうか……』
目の前ではとうとう産気づいて倒れる天龍の姿があった。




