天龍の母と呪術師の父
強烈な気を浴びて、邪悪な術が解かれた。
操られていた者達は正気を取り戻し、何をしていたのか首を傾げた。
状況把握をされる前に天龍は頭巾を被って耳を隠す。
『嬢ちゃん、何があったか覚えてるか?』
『い、いいえ?さっぱり……』
適当な会釈であしらい、急ぐと言ってその場を早々に立ち去る。
さっきの大立ち振る舞いで神々に居場所を知られたかも知れない。そこまでするつもりはなかったのだが、面倒だったし、繊細な調節は難しかったので、ああしてしまった。
――折角地上で休暇を楽しもうと思っているのに、すぐ連れ戻されたら意味無いじゃない!
彼女のそんな心の声が聞こえて、衿泉は苦笑した。よく知る少女も同じような事を考えそうだったからだ。
『に、しても、人里一つ見えないわね……』
周りには相変わらずの草原が広がる。人の気配なんて全然感じられない。
と、奥の方で、ドオンッと大きな音と共に雨雲もないのに雷が炸裂した。
――まさか、もう来たの!?
何者かの気配がこちらへと急速に近づいてくる。けど、これは――。
なんて考えている間に、目の前に何か突きつけられていた。黒と白で構成された、薄っぺらい物。
殺気を帯びた声が響く。
『お前、人間の姿をしているが、人間じゃないな?しかも、とても強い力を感じる。妖魔だな?』
『失敬な。妖魔と一緒にするな』
――ん?よく似たやり取り、しなかったっけ?
記憶を掘り起こそうとしたが、霞がかったようによく思い出せなかった。
衿泉だけでない、この幻影を見ていると黎琳の事を考えられなくなるように思えた。
『私は妖魔じゃない。もし妖魔だったらその術符で退治される、って焦ってる』
相手が地上で妖魔に対抗し得る存在である呪術師である事を悟った彼女がそう言った。更に証拠として、緑で埋め尽くされた草原に赤を加えて見せた。季節はずれの椿の花を。「陰」の存在である妖魔の力ならば自然の命を奪う事しか出来ない。こんな助長するような業を使えるのは存在が「陽」である証拠となる。
相手がようやく信用してくれたらしく、術符を離してくれた。ようやく彼女は相手の顔を見た。
量の少なめな亜麻色の髪と黒に近い紺の瞳を持つ、人間の姿である彼女より少し年上っぽい少年だった。
そこで幻影が止まり、色褪せると同時に黎琳を連れ去った方の女の声が轟いた。
『これこそが応龍の生まれるきっかけとなった出会い。応龍は、人と天龍の間に生まれた子の事を指す』
「え、本当に!?」
「人間の血が流れている割には、天龍殿に偏っているように思えるのは私だけか?」
「全くもって同感です、銀蒐」
「……試練って、楽勝かもな」
余裕の笑みを浮かべた衿泉。
勿論、こんなのが試練だなんて言える筈も無かった。本当の試練への導入でしか無かったのだから。
幻が消え去った。
「で、どれを進めばいいんだ?」
「恐らく、最後に天龍が居た方向――」
「と、言う事は……普通に真っ直ぐですね」
遠回しにする意味が分からない、と陳鎌は更に苛立ちを募らせるのだった。
恐る恐る真っ直ぐ進む。
時折唸るような音を立てて風が前方から吹き荒れる。
「ひゃっ」
軽いせいで飛ばされかける春零を銀蒐が頼もしく支える。
風が止んでは進み、吹けばその場でただ耐える、と言った繰り返しを経て。
再び分岐点に行き当たった。
「また幻を見せられるの?僕つまんないんだけど」
「つまらないって……」
まあ無理もない。陳鎌は今まで盗賊団の長だったのだから、気に入らない事はバッサリ斬ってきたであろう。
厄介な仲間を連れてきてしまったものだ、と全員が思った。
そうもしない間に再び幻の再生が始まった。場面が少し移り変わって、何処かの屋敷に二人が居た。
正体を隠したまま天龍は少年と話していた。
『お前は一体何処から来たんだ?それから、その強大な力は一体……』
『私は遠くから来たんだ。とても、遠く。ずっと憧れてた。人々の普通の暮らしが』
話がかみ合ってそうでかみ合ってない。
『自由、っていいもんだ。望まない力を持って生まれ、運命に縛られる暮らしなんて、もう嫌』
儚げに空を見上げる彼女の横顔に少年はまじまじと見惚れていた。
『……もしかして、俺とお前って似た者同士なのかもな』
『似た者同士?』
『俺も、一度そう思った事がある。俺達は生まれる身体を選べない。その事で不自由を強いられるのは、割に合わないって思った』
そして、一番の敵は――自分を見る周囲の目。
監視は勿論の事、仲間や身内の中でも疎ましく思っている目がある事は嫌でも気付いてしまう。それを見つけてしまうのが怖い。
いつの間にか心に境界線を引いて、他人を寄せ付けないようにしている。
よくある話だ。
『現実逃避、してみる?』
『ん?』
『無防備のまま外の世界に出る事で、何か分かるかも知れない。その答えがさ』
『……』
――既に現実逃避してるんですけど……一人よりも二人の方が楽しいかも
逆に好奇心に駆られて天龍は呪術師の手を握った。
そして二人は屋敷をこっそり抜け出し――いわゆる駆け落ちって奴をやらかしたのだった。
「まあ、運命的な恋が始まった感じですね!」
何故か春零が興奮している。陳鎌も少し頬が赤いような気がする。
再び場面がころころと変わって、駆け落ちの様子が流れる。沢山の人々との出会い、経験、自然との触れ合い。そして――互いの心の通じ合い。
忘れかけていた心からの笑顔を二人は思い出し、いつの間にかそれを打ち解けた相手に見せていた。
そして。
『……藍樺』
それが、彼女の名前らしい。彼女が振り向き、微笑む。
何処にも行ってしまわないように少年は強く抱きとめる。
『俺は……いつの間にか、お前が凄く大事な存在になってたみたいだ……』
『――稔寧?』
『これからもずっと側に居てくれ。お前となら、この先の人生も歩んでいけそうな気がするんだ。だから、頼む。……俺の、妻として』
衝撃的な告白に、思わず黄色い声を上げた春零を落ち着かせる銀蒐。
次の瞬間、彼女の心の葛藤が伝わってきた。
――本当は、私だってずっと側に居られたらと思う。けど、そういう訳にも行かない。いつかは天界に連れ戻される身。下手をすれば神々が怒って地上に災いを起こすかもしれない。結ばれれば、この人を殺しに来るかも知れない。どのみち、危険に晒す事になる……
藍樺は稔寧から離れ、そっと頭巾を取ってひた隠してきた耳を見せた。そして真実を話した。稔寧は驚いて目を丸くはしたが、慄く事はしなかった。
『……それで、俺の気持ちが逸れるとでも?』
『だって、側に居たら貴方が!』
『もう何も言うな。運命は乗り越えていくモノだって言っただろ。一緒なら、大丈夫』
彼の熱い想いにどうする事も出来なかった。このまま時が止まってしまったらどれだけ楽だったのだろう。
やがて藍樺は身ごもる事となる。