温かく包む蒸気
「ね、ねえ、貴方は一体誰なの?春零を何処へ連れて行くつもりなんです?」
「……私が何者か、お前には大体予想が付いているのでは?」
「!」
念の為に他人行儀で言ってみれば、案の定春零は用意された答えを導き出した。
「やっぱり、貴方、応龍なの、ですか?」
「そうやって聞けばそれ相応の答えが返ってくるとは限らない」
応龍である自分の存在は知ってもらいたいけど、奥深くまで詮索するのは分が悪い。
しっかり言葉の意味を理解した彼女はそれ以上質問をしようとはしなかった。
――本当はこの姿でなくて、龍である姿のみを曝け出して、応龍の存在を知らしめられればそれで良かったんだがな……
人間そのものの姿は色こそ違えど、基本一緒に旅をしている「黎琳」とさほど変わらぬ見目なのだから。
気取られやすい要素を作ってしまったものだ。
後は仮にこの窮地を乗り切ったとしても、「黎琳」がその空白の間どうしていたか言い訳を考えなければならない。
何とも面倒な事だ。
などと考えているうちに目的の場所が見えてきた。
「え?ここって……」
それは紛れもなく女風呂への入り口だった。
「突っ切ってっと!」
引き戸を乱暴に開けると、温かな湯煙が視界を覆った。
先程入ったお陰で何処に何があるかの感覚が大体掴めていた。
形振り構わず追って来た男は立ち込める湯煙に戸惑いを隠せないでいた。していた眼鏡が曇って更に何も見えなくなってしまう。
「なっ……、これは、温泉の湯煙ですか」
忌々しげに呟きながら暗中模索する男。
「げっ」
入り口でここが女風呂である事に気付いた衿泉は声を上げるも、身体は静止せずに入っていく。
更にその後を追って来た銀蒐が立ち止まろうとしたが、陳鎌が止まってる場合か!と嫌がる彼もひっくるめて入ってきた。
「……!」
自分の喉を押さえ、何かを悟った春零。笑みを浮かべ、促す。
この時衿泉がうっすら浮かぶ影を見つけ、こちらへと歩を進めている事に黎琳は気付いていたが何もしなかった。
――駄目だ!逃げてくれ!
言う事の聞かない身体が春零の命を奪おうと剣を振り上げた。
間髪入れずに轟いたのは彼女の織り成す美しき旋律だった。
「!?何故……」
「この湯煙さ」
気配を探り、すぐさま男の背後へと忍び寄った黎琳が誇らしげに種明かしをした。
「これが元は水分であること、少し考えれば分かるだろう?お前とも言う悪知恵の天才が、見落としたものだ」
言わば、これは視界を遮るだけのものだと思い込ませるのも狙いだったのだ。そうすることによって、真の目的を隠す事が出来るようになる。
頭が回るのならば、逆に単純な事に気付かないだろうと思っただけの事。一か八かの勝負だったが、見事に勝てた。
彼の自尊心も打ち砕く、応龍の鮮やかな勝利だった。
ふうっと息をかけて、もはやその役目を終えた蒸気を取り払う。視界が開け、皆が男を見据えていた。
術の解けた衿泉がこちらへと歩み寄る。
「覚悟しろ」
「ひっ……」
「最後に一つだけ、聞きたい事がある」
まず男と出会ってから最初に思った疑問をぶつけた。
「何故妖魔に手を貸す」
「……この腐った世の中を変えるためですよ。貴方も思いませんでしたか?人は何て弱い生き物だと。無力で無知で、愚かな存在である事を自覚せずにのうのうと暮らす人の姿が何て滑稽か!」
自分だって人であるくせに、よくもそう貶せるものだ。
「居場所を失った者に、手を差し伸べた恩人に恩を返す。普通の事でしょう?」
「恩?同じ大地に生きる人を苦しめて、愉しんで、それは恩返しなんて言わない。それに託けた自己満足だろう」
鋭く睨みつけられた男は肩を竦めた。が、力が抜けたようにふっと頬を緩めた。
何となく、察してはいた。
どんなに役に立っても、その目はいつも自分でない他の存在に向けられていて。
恩返しと言い聞かせながら、自分のために功績を求めた。
……自分の心の奥深くに眠る欲望を満たすために。
もう疲れた。
帰る場所なんて、もう何処にもない。
こんな事だったなら、最初から頭がいいからと彼女に命乞いをしなければよかった。滅ぼされた村ごと、自分も死ねばよかった。
だって、最終的に結果は同じだったのだから。
隠し持っていた小さな瓶に入った薬を一気に煽った。
不思議と苦しくなんてなかった。安堵の方が断然に勝っていた。
これで、もう何も考えなくていいのだから……――
「ち、陳鎌殿……」
「……勝手に死んでいくのか。楓姫も、あいつを殺したお前でさえも」
報いを受けたことに喜ぶべきなのに、陳鎌はちっとも心が晴れなかった。
自ら毒を盛って死んだ男。
そんな彼さえも立ち込める蒸気が温かく包み込む。
「――希望を捨てるな」
皆に静かに告げた。
「私は、未来を諦めない。信じる未来を築く道標になる……」
「お前は、一体……?」
衿泉に問われ、黎琳はただ微笑んだ。
信じて。
どんなに辛い事があっても。
未来を。
その身体が龍と化し、天空へと羽ばたく。
「お、応龍!?」
「――!」
去る後ろ姿に衿泉が何か言ったが、当の本人には何も聞こえていなかった。
これ以上お咎めを受けるのは御免なので、早々に皆女風呂から出て、部屋へと戻った。
が、戦いの影響で扉は破壊されているわ、床には剣でつけた傷が出来るわ、もう追い出されても仕方ないと言える要素ばかりだった。
「に、しても、死体が早々に腐って土に戻っていくのには驚いた」
陳鎌がぼそりと呟いた。春零が思い出したくないと言わんばかりに頭を振った。
彼が飲んだ毒は腐敗を強める作用もあったようで、すぐさま身体が土へと還ってしまったのだ。
遺灰、ならぬ遺土を一掴み取って来たはいいものの、手厚く弔う場所もない。
「衿泉!元に戻ったか!」
「黎琳殿!今まで一体どちらへ?」
元気良く戻った黎琳は用意した言い訳を口にする。
「黒幕を探ろうと住人達に聞いて回ろうと思ったら、皆同じく操られているものだから身動きが取れなかったんだ!しかもその黒幕はもう退治された後だって、術が解けて事の次第を知った女将が言ってたし、結局何も出来ずだったがな」
自分のために町を駆け巡っていたのだと思い、衿泉はやけに嬉しくて仕方が無かった。
不思議と心が落ち着いて軽かった。それは、やっぱり応龍の存在をその目で確かなものだと認識出来たからなのだろう。
――未来を諦めない、か。そうだな……
過去の出来事を未来でもさせはしない。
衿泉だけでなく、他一人一人未来に少しずつ希望を見いだし始めていた。黎琳ですらも。