第二章:夜な夜な徘徊する者
完全に閉め切った窓、扉。
人々は怯え、眠れない夜を過ごす。
またそれを恐れずに外に出ていた愚か者が命を喰らわれている音が辺りに響いていた。
「ここも、廃れたものだな……」
黎琳と衿泉が訪れたのは、衿泉の故郷の村である湯河村から東にわずか半日歩けば着ける集落だった。
この国に降り立って間もない黎琳には地理など頭に入っていない。とりあえず、近場から各地を回っていこうという事になったので、ここへとやって来たのだ。
彼自身ほとんどこの集落は訪れなかったのだと言う。それでも昔の微かな記憶を引っ張り出し、落ちぶれたその姿に言葉が続かなかった。
よろよろと歩く人々。目には生気をほとんど感じられない。目の下にはくっきりと黒い隅をつくっている。
宿屋でさえぼろい看板を掃除もせず掲げ、中に居た主はやる気のないようで、勝手に使えと言わんばかりに鍵を放り投げるだけだった。
ただ、忠告はしっかりとした。
「鍵は閉め忘れんじゃねぇぞ。あと、窓もしっかり閉めろ。じゃないと、喰われるぞ」
その話に二人は反射的にその主を問い詰めていた。
「一体何が居るんだ?」
「いつから?」
「お二人さんよぅ、そんなに口を揃えて言われても……」
頭を掻きながら主は言う。
「先月前ほどからか、夜になると不気味な声がして、次の日の朝には八つ裂きにされた変死体が見つかるようになったのさぁ。昼間は嵐の前の静けさと言うべきか、何も起こらないのに、夜になれば決まって出現する。命が惜しければ大人しくしている事だぁ」
「……ご忠告をどうも」
二階に上がり、部屋に荷物を置いて再び外へ出る。
「たぶん、妖魔の仕業だろうな」
「……ああ」
うわの空と言わんばかりの返事に衿泉は首を傾げた。
一方の黎琳は腑に落ちない点があった。衿泉に告げると疑念を抱かせることにだろうから口にはしていないのだが。
「俺はとりあえず聞き込みをしてくる。お、黎琳はどうする?」
「……まあ話に耳を傾けてやってもいいだろう。衿泉、ここから少し別行動にしないか?」
「別に構わない。が、ちゃんと宿に夕方には戻ってろよ」
「私は子供か!」
また色々と暴力を受けたものじゃないと、衿泉は逃げ去った。思わず振り上げていた拳を黎琳はゆっくりと下ろした。そして当てもなくとぼとぼ歩き出す。
さっきから気掛かりな事。それは、この周囲に妖魔の気配は全く感じられないという事だ。
先程の話からすれば、まるでこの近くに住みついたと言わんばかりだった。決まって出現するのだから近辺に潜んでいる確率が高い。
それにも関わらず、怪しい気配一つしない。
――私に感じられぬ気配があるはずがない。一体どういう事だ?近くには居ないということか……?
森に続く小道を見つけ、そこへと身を隠す。
目を閉じ、気を集中させる。森の中に生息する悪意なき動物達の気配は無数にするが、妖の気配は全くない。
「何処からともなく現れる……と言うのか。以前はこんな奇妙な現象などなかったはず。……新たな力を持つ妖魔まで現れているのか?」
以前、黎琳は地上で暮らしていた時代があったと聞いている。何せ遠い日の記憶だから、全くと言っていいほど覚えていない。思い出そうとしても、面影すら浮かんでこない。
彼女の記憶は天上界で幽閉される事になってしまった所から始まっている。だから地上の事なんて知るよしもなかった。
ここ最近の地上の不穏な動き。強大な何かが蠢いているのか。
――凄く嫌な予感がする……これからの未来を暗示するかのようで……
全てから隔離された静かな牢獄を思い出す。
外部から遮断されたあの場所での日々は、ただただ時間が経つのを待つことしか出来ない実につまらない辛い時間だった。
思い出しただけで不快になる。
と、前を村の子供達が嬉しそうに走っていった。
周りを見れば、人が一点に向かって集まっている。一体何が起こっているのか。
立ち話をしている奥方達の会話に黎琳は耳を傾けた。
「今日もやっているのね」
「あの子も苦労しているからね……。村もあの子が居るからこそ何とかもっているような状況ですもの」
「あの子が居なかったら皆ここからとうに逃げていてよ」
誰かが何かをしているのは分かった。
賑やかだった人の声が数瞬の間に全く聞こえなくなった。何かが起こる。黎琳はそちらに目を向けた。
次に聞こえてきたのは高音の美しい響きだった。
ぞくりと身体が震えた。
これが人の発する声とは到底思えないが……。
人を掻き分け、中心へと向かう。視界が開ける。
そこに居たのは一人の少女だった。彼女本人が喉から音を出していた。美しい音が美しく旋律を奏でる。
聴衆は思わずその旋律に酔いしれる。なるほど、これがここに住む者達の安らぎとなっているのだ。
黎琳は目を細め、少女をしばし見つめた。
波打った艶やかな金髪。その髪には朱の珠の髪飾りがつけられている。服装的にはあまり貧困を感じさせない。むしろ周囲の村人より裕福に見える。顔色もいいし、丸っこい可愛らしい少女だ。
だけど……。
歌が止む。
「いつもながら凄いぞ!春零!」
春零と呼ばれたその少女は優雅に一礼する。
と、視線が合う。
「まあ……」
近づいてきて、こちらをじろじろ見た後、いきなり手を取った。
「私と同じ年頃の方ですわね!この村には同年代の方がいらっしゃらなくて……。何処から来られたのですか?もし良かったら、お話し相手になってほしいですわ」
きらきらと期待の眼差しで見つめる濃紫の瞳に黎琳は負けた。
「別に構わないが……」
「本当ですか!?お名前と、泊まられている宿を教えてくださいな」
「名前は黎琳だ。泊まっている宿はあそこにあるのだ」
指さしてやる。
「分かりましたわ。黎琳、明日伺いますわ」
「ちょ……」
いつまでここに留まるのか分からない。そう言わない間に春零は村人の集まりの中に消えていった。
黎琳は彼女の瞳の奥に隠されていた自分と同じ感情を感じていたが、特に気にしなかった。
――人間も色々あるものだな……
何だかほうっておけない、親近感を感じる者だ。そう思いながら黎琳はその場を去った。
その夜、いつもと同じように徘徊する者は現れた。