愛を知らない子
野営の支度を始めた頃に黎琳は彼らの元へと帰って来た。
「結構遠い所に言ってたみたいだな」
「まあ少しって所だ」
薄暗さで気がつかなかった。
気の力で薪に火を点けてよくよく見てみれば衿泉は顔や腕に幾つもの傷をつくっている事に。
どうやら銀蒐の修行は甘くなかったようだ。
春零が手ぬぐいを濡らして傷口を拭いてやっていた。染みるようで、衿泉の顔が苦痛に歪んでいた。
背後からのっそりやって来た銀蒐に黎琳はこう言ってやった。
「かなりお厳しいようで。なあお師匠さん?」
「それが、槍と剣の間合いが違う事をすっかり忘れていたもので……」
「……」
つまり、槍の間合いで剣を使おうとしたから、手合わせの時に大変な目に遭ったとでも言ったところか。
王の臣下らしからぬ、とんだ抜け目だと思う。
「でも、彼なりにかなり頑張っていた」
ふっと笑って衿泉を見る黎琳の顔は柔らかな輝きを灯していた。
「黎琳殿。彼は修行としての課程はほぼ今日一日でやり抜いてしまった。後はそれを如何に実践に用いてくるか。それは彼が戦いの経験を積む事で身に付いてくるだろうし、次の目的地があるのならば、そちらへ向かっても……」
「丁度いい。人魚の長に会ってきて、いい情報を仕入れてきたからな。それで、その話をする前に少し皆に話しておきたい事があるんだ」
「衿泉、座れます?」
「平気だ」
四人が火を囲むように座った。
「この旅の目的は帝王の前で話した通り、各地の妖魔を鎮める事だ。そして人魚の長は何者かにけしかけられていた事を確認した」
「!」
「つまり、裏で糸を引いている黒幕が存在している事になる。そいつが各地の妖魔や妖怪を束ね、人を襲わせているようだ。従わせていると言う事は、それなりに強大な力を持っていると言っても過言じゃない」
「そんなのを、人の手で、我々で退治出来るのか?」
「そこで、だ」
ゆっくりと黎琳は告げた。
「応龍を呼び寄せようと思う」
「!!」
全員が驚きに目を丸くした。
「人魚の長によれば、応龍にまつわるものが東の砂漠にあると聞いたことがあるという事だ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……」
待ったをかけたのは衿泉だった。
「応龍なんて、存在するのか?確かに伝説上、強大な力を持つ応龍の力を使えば妖魔達を倒す事は出来るだろう。だが、現実に存在しているのかどうかすら分からないものにすがれと言うのか?」
「……」
「言っておくが、こうしている合間にも人が血を流して倒れて言ってるんだ。悠長にそんな迷信を確かめに行ってる暇はない!」
そう言うなり衿泉は茂みの中へと消えてしまった。
追いかけようとしていた春零だったが、その場に留まって黎琳を睨むように見た。
「衿泉の言うとおりだと思います。非現実的に逃げ込んでいる暇があれば、妖魔根絶にもっと力を注ぐべきです」
それと話は変わりますが、と春零は続けた。
「黎琳は……衿泉の気持ちを考えた事がありますか?」
「?」
「衿泉は、人魚の戦いの時、人魚を殺さなかった貴方の戦い方に疑問を持っているんです。今は和解状態に持ち込めては居ますが、いつか裏切らないかと心配してるんです!だから今日黎琳の姿が見えない事を一番に心配していたんですよ!?」
「……そうか。そうだったな。あいつは、妖魔のせいで、全てを失ったんだったな――」
「春零はいつも衿泉の事を気にしてます。あれこれと心配していても、衿泉の心の目は春零には向いていないんです……」
突然変な事を言い出す春零に黎琳は顔をしかめた。
「衿泉の事、その程度にしか見ていない事に正直がっかりしました」
「春零殿……」
「春零は、衿泉の事が好きなんです!その好きな人の心を踏み躙るような真似をする黎琳は認めません!その気がないなら衿泉を掻き立たせるような事をしないで!!」
凄い勢いで言葉を連ねたと思ったら、言っている事が何をどう意味しているのか黎琳にはよく分からなかった。
好き?春零が衿泉の事を好き……。好きってどんな状態を指す?
「好き」と言う言葉の意味が理解出来なかった。
涙目になった春零はようやく衿泉の後を追うように同じく茂みの中に消えた。
「黎琳殿、平気ですか?」
平気?何が?
「平気も何も……」
何を言いたいのかさっぱり分からなかった。
何故か銀蒐が前のめりにこけかけた。はてな、と黎琳は首を傾げるばかりだ。
――鈍い人、らしい。黎琳殿……
「銀蒐、好きとは何だ?」
「そ、それは……」
恋愛など殆ど眼中になくただ強くなる事を願って修行に明け暮れた幼少時代を過ごした銀蒐には無理難題だった。
「相手の事を守りたい、とか、もっと近づきたい、とか、友達とはそんな関係ではなく恋人とか家族になりたい、とか、思うのでは……?」
「銀蒐、声が裏返っているぞ。大丈夫か?」
気が動転している銀蒐に黎琳は更に顔を近づけるものだから、彼の顔は燃えるように熱くなった。
慌てて後ずさり、高鳴っている心臓を鎮めようとする。
「守りたいは分かるが……近づきたいとか家族になりたいはよく分からない」
「と言う事は、黎琳殿は想い人が居ないのか」
「そうなるな」
あれほどの攻めを受けておきながら、何とも思っていないこの娘は恋愛感情ってものがないのだろうか。
相手の方が気の毒だ。
「お互いにそう思った時、愛は生まれ、子供も出来るようになる、と聞いてはいるが……」
「それって、自分達の両親はそうやって結ばれてきたって事か?」
「子供に対する愛情と似たものを、想う相手に与えたいとか思うのも『好き』って感情だと思うが……」
「愛、情――」
無意識に自分の肩を両手で支えていた。
「――そんなもの、知らない」
「え?」
「下らないって言ってるんだ」
どうしてだろう。虫唾がはしる。
自分の知らない事を知っている他人に八つ当たりしている、と自覚した途端、自分が恥ずかしくなって、思わずそっぽを向けた。
そんな黎琳を背後から優しく包み込む腕があった。
何も言わず、抱きしめてくれている銀蒐に優しい温かみを感じた。そのまましばらく黎琳は一人では抱えきれない孤独の埋め合わせをするようにその温もりに身を預けた。
物陰には衿泉が居る事も知らないで。