母を知る者
「……くっ!」
重い扉はびくともせず、裏口すらもない。
更には結界が張られているらしく、扉に触れて数瞬すれば弾き飛ばされてしまう。
諦めたくはないが、こうも頑なに拒まれてはどうしようもない。
乱れた銀の長髪を整えなおし、踵を返した。
――今は退こう。だが、このままで終わらせはしない……!
自分の過去に、今へと繋がる何かがあるのだと先程の七神とのやり取りでよくよく分かった。
しかも、七神が隠そうとしていると言う事は、七神達も何かしら関与し、知られたくない事をしている可能性が高い。
もしこの混乱が元を正せば七神のせいなのならば……。
――絶対に許さない
ぎゅっと拳を握り締める。
未だ見ぬ自分の両親達の姿。
私は愛されて生まれてきたのだろうか。
それとも、七神に捧げるために……?
「それでは七神の危惧していた状態になりかねないわね」
「!香耀!」
本当に気配を隠すのが上手な女だ。
それもそうか。彼女が司る力は風だからだ。
風を操る能力を持つ以上、気の流れで「個体」を察知するのは極めて困難なのだ。意図的に気配を消すことなど、容易いものであるからだ。
「七神は恐れている。お前の精神はまだ不安定であるから」
「どういう事だ?」
「それを知るにはかなりの勇気が、精神力が必要であるという事。今のお前にはまだ時期尚早だって言ってる」
「それだけの事が過去に――私を巻き込んであったと考ええていいんだな?」
否定しない所を見ればそうなのだろう。
監視が厳しいゆえに親しく居られる時間は少なかった。だけど、合間を見つけては彼女は黎琳の元へとやって来た。人の間に伝わる物語や、七神に伝わる神秘の数々を嘘偽り無く聞かせてくれた。あの頃は彼女の事を本当の母のように思っていた。
「香耀には追加して聞きたい。七神が下僕と同様の扱いをするにも関わらず、何故香耀はこうして私を気遣ってくれる?母親のように私を見守っているんだ?」
しばらく黙ったままだったが、黎琳の翡翠の目に突き動かされるようにその口を開いた。
「あの子との……藍樺との約束だからだ」
「藍……樺?」
急に身体中が熱くなった。
知ってる。この名前の存在を。
とても、懐かしい、誰かの声が黎琳の名を呼ぶ。
黎琳と瓜二つの女が微笑んでいる映像が一瞬映って消えた。
「そう、黎琳の母親」
「お母さん……」
こんな優しそうな瞳をしている彼女が自分を七神へと捧げるために産むわけがない。
一目母の姿を見て分かった。自分は望まれて生まれてきたのだと。愛され、必要とされてこの世界へと生み出してくれたのだと。
ぽろっと聞き慣れない音がした。
自分の頬を触ってみれば、透明な滴が零れ落ちていた。
――これが悲しい時に出てくるって言う、涙なのか……
今まで泣いた事なんて一度もなかった。いや、泣けなかった。今の今まで、愛し産んでくれた母の事すら覚えていなかったのだから。
「黎琳。はっきり言おう。過去を知る事は恐らく妖魔を退治するためにも必要な事だと思う。けれど、黎琳には辛い事。心が粉々に破壊されてしまうかも知れない。きっと今ここに居る黎琳では居られなくなる……。七神は黎琳の身を案じて口を閉ざしているだけ。それでも、真実を求める?」
「身を案じてって……。香耀は本心でそう思っているだろうが……」
涙の止め方が分からず、そのまま潤んだ瞳に強い力を込めた。
「主神側はただ私のこの強大な力が暴走するのが厄介なだけだろうに」
自分で言って自分で落ち込んだ。
必要なのは力。
彼らにとって黎琳の心はあってもなくても同じなのだ。ただ下僕として忠実に仕え、使役されれば。
だから何となく黎琳は察していた。
――彼らが何故過去を話さないのか
憎しみ、と言うより呆れの方が勝っており、ふっと口の端を緩めた。
――それは……両親を私から奪ったから、なんだろう
それこそ知れば反逆の可能性を否定出来ないのだから話さなくて当然だろう。
ふと香耀の方を見ていれば、彼女も辛そうな表情をしていた。
約束をするって事は、かなり親密な仲だったのだろう。藍樺が死んだ時、彼女は悲しんでいたに違いない。
「香耀……――」
自分よりもしっかりしたその腕の中に飛び込んだ。
だけど今回は彼女の腕さえも華奢に感じた。彼女もまた、抑えきれぬ感情を必死で制御しているせいか、小さく震えていた。
しばらく香耀の腕の中で子供のようにしゃくり上げていた。
落ち着くまでの間、香耀は優しく、温かく黎琳を包み込んでいた。
やっと気持ちが落ち着いた時点で香耀は耳元でこう言った。
「東の砂漠へと向かって」
「?」
「藍樺には分かっていたらしい。お前の記憶が何らかの形で奪われてしまう事を。そうなった後に、過去を求めるのならば、そこに行くよう伝えるように。それが藍樺からの伝言だ」
そこに一体何が待ち受けていると言うのか。
「くれぐれも……気をつけて」
「ああ。では、また会おう」
笑顔で別れを告げ、黎琳は雲から飛び降りた。
風を感じて、その気持ちよさに思わず黎琳は本来の龍の姿へと戻った。
自由に空を飛んで回る。砂漠の位置を確認するために、高度を維持して下を見やった。
一つ大きな大陸がぽっかりと海の上に浮かんでいた。その四方の彼方に小さく見えるのが他の四つの大陸であり、国であるようだ。
衿泉と出会った湯河村は北東の森の中にあり、そこから少し離れた場所に春零達が住んでいた集落が見える。王都は大陸中央で森に囲まれ、ひっそりと佇んでいる。最も高い山が王都の西に聳え、その麓に人魚達の泉は存在している。茶の大地が王都の真下の辺りに広がっていた。あれこそが母が指し示した砂漠だ。
旅して歩いてきた場所には悪しき気配を感じられないが、砂漠周辺の森には相変わらず黒き者達が蠢いているようだ。
更に砂漠にも薄っすらと黒い靄のようなものを確認出来た。
まだこの国の半分も歩けていない。中央の王都を中心に、大陸の七分の一を歩いたか歩けてないかと言った所だろう。
まあ人の居そうにない遥か北の大地とかは行く事もないだろう。
――行こう。母の言葉通りに
何だか自分の心にかけられた鎖が一つ無くなったみたいに、身体が軽かった。