道標
地面にあった水溜りの水が吹き飛んだ。
それと同時に蛾の姿が掻き消えた。
「一体どういう事だ!?説明してくれ、黎琳殿」
「水だ」
元々水溜りがあった場所を指差した。
「水は鏡のように色んなものを映す。それを使って人魚が幻術をかけていたのさ」
鏡のように照り写し、幻影として出現させた。仕掛けはこんなものだ。
まさに人魚の使う術としてふさわしい方法だ。
……何て感心している場合ではない。
「先を急ごう」
邪魔者達を道標として奥へ奥へと進んでいく。
もう水を使った幻影など敵ではなかった。
やがて。
「先程から土の感触が変わったような……」
「緩やかだが、下り坂を感じる……」
確実に衿泉と春零の元へと近づいている気がした。
現に霧で確認する事は出来ないが、すぐそこには幻術によって眠らされた衿泉が横たわっていた。
と、急に銀蒐の姿が霧に包まれ、霞んでいった。
「離れるな!手を出せ!」
「黎琳殿!?」
彼の服の裾を掴むはずだった手が虚空を掴んだ。
周囲は霧に包まれていると言うより、真っ白に染め上げられた壁が立ちはだかっている感じだった。
だが次の瞬間、その世界は黒を基調とした世界へと変貌した。
見覚えのある、荒れた世界。
住居だったと思われる建物は瓦礫と化して崩れ落ちていた。中には赤く燃え上がる家も。
足元には転がる幾つもの――人の死体。
どの死体も赤く染め上げられ、無残にも原型を留めていない。
そして、自分の手を見ていた。
死体同様、真っ赤だった。
「ひっ……!」
思わず足から力が抜けた。
妖魔を殺めた感覚とはまた違う、果てない恐怖が沸き起こった。
――私は、人を殺めたのか!?こんなにも、沢山の人を……?
だったら何故忘れていたのだろう?こんな残酷な過去を。
頭が痛い――。
「……う」
聞き慣れた自分の声。でも、自分は今発していないはずの声。
よくよく目を凝らせば、遠くに銀髪の幼き子供が歩いていた。龍である事の証である長い耳の持ち主だった。
誰かと思えば……あれは、昔の自分だ。
そして、その自分もまた朱に染められていた。
「や、めろ……」
これは幻術だ。そう言い聞かせて落ち着こうとしても、身体が、心が、言う事を聞いてくれない。
ズズズと音を立てて、死体からどす黒い塊が噴き出す。
もはや生き物とも呼べない醜態な魂達が苛む。
「ユルサナイ」
「ユルスマジ」
「シネ」
「オマエヲトモニツレユコウ……」
「や、だ……」
どうする事も出来ない。
「いやあああぁぁぁぁぁ!」
黎琳の叫びがこだました。
――これは、誰の叫び声だ?
幻術の中にまで彼女の声は響いていた。
何も考えられなくなるこの空間の中で、衿泉は必死で加わる力に抵抗してみる。
そうだ、知ってる。この声の持ち主を。
自分を救い、新たな人生の始まりを導いた少女。計り知れない強さを持つけれど、本当は同じく弱さを持つ少女。
そんな彼女を見て思ったんだ。今度は自分が彼女の支えとなり、守ってみせるのだと。
だから自分はここに来た。新たな力を、守りたいものを守れる力を手に入れるために――。
自分を導く少女の名前。それは――……
「黎琳!」
名を呼ぶと同時に幻術の世界から抜け出し、飛び起きた衿泉。
辺りは霧に包まれていた。
さっきの叫び声は夢か?いや、違う。さっきのは幻術なんかではない。そう確信していた。
「何処だ!黎琳!」
動き回るのは危険だと分かっていても、止められない。
彼女を、守りたい者達を守ること。それが今の自分の生きる理由なのだから――!
「黎琳!返事をしろ!」
「ぁぁぁぁ……!」
「黎琳!」
霧が晴れる。
叫び、うずくまる彼女の姿を捉えた。
駆け、その勢いで肩を支えるつもりが抱きしめる事となる。
視点があらぬ方向へと向けられている。幻術を見せられているのだ。
「しっかりしろ!黎琳!」
抱きしめられたその温かさが肌を伝い、黎琳ははっと我に返った。
先程見た過去の映像はパッタリと止まっていた。
「……」
「正気に戻ったみたいだな。大丈夫か?」
「……下僕のくせに何をかっこつけてる」
いつものように蹴飛ばす気力もなかった。
――この私が恐怖を感じるとは、情けない
「何があったかは知らないが、かなり怖い思いをしたみたいだな」
震える身体。
「……」
言葉にならなくて、顔を衿泉の肩にうずめた。
今、衿泉がこうして自分を幻術から解放してくれなければどうなっていただろう。
きっと幻術が解けたとしても、正気ではいられなかった。
そう、彼が導いてくれなければ。
自分の心に、記憶に隠された弱さをようやく自覚した。
「黎琳殿!」
ようやく銀蒐が二人を見つけ、駆け寄る。
「衿泉殿、よくぞご無事で!」
「ああ。心配かけたな」
不自然に大人しい黎琳にこの時初めて女性としての美しさを感じた。艶めく亜麻色の髪に衿泉はぐっと唾を飲んだ。
「幻術に惑わされていた。かなり気力を奪われたみたいだ。黎琳」
衿泉が背を向けた。
「ほら」
前のようにわあわあ喚き散らす所を黎琳は何も言わずに身体を預けた。
肩に預けられた整った顔を見て、思わず目を逸らす衿泉。
「ところで、春零殿は?」
霧が少しずつ晴れていくが、春零の姿は何処にもなかった。
「人魚に連れ去られた後か……」
「人魚?」
「春零殿を襲ったのは人魚だったという事だ。湖のほとりである泉に棲むと聞いている。敵の罠を辿っていけば辿り着けるだろう」
「行こう」
黎琳を背負ったまま歩き出す。
――あの幻術、ただの幻じゃなかった。確実に私の過去を映し出していた
だとしたら、自分には人を殺めた過去が秘められていた事になる。
――救うべき人を殺した龍が人を救える?そんな訳、ないじゃないか……
だけど、今はこのたくましい背中を離れたくない――。
導いて。私を。
正しい選択へと。