幻術の狭間
「うっ……」
先に気がつき、身体を起こしたのは衿泉だった。
直前の事ははっきり鮮明に覚えていた。すぐさま目で春零の姿を探した。
自分の傍らに彼女は気を失っていた。
咄嗟に掴んで以来、ずっと手を握ったままだったらしい。慌てて衿泉は手を離した。
ふと上を見上げてみれば、そこには雲ならぬ濃厚な白の霧が立ち込めているだけだ。一体どの高さから落ちたのか想定もつかない。
こうして骨折もせずに居られたのは高さがそれほどないのか、この湿り気を持った土のおかげなのか。
どのみち、ここから上って元の場所へと帰る事は難しいらしい。
座り込み、隣に眠る少女を見た。眠っているその横顔は愛らしい。
胸の奥がドクリと高鳴った。
「?」
ぎゅっと自分の胸を押さえ、訳の分からない身体の反応に首を傾げた。
――黎琳や銀蒐が心配しているだろうに……
「聞こえているか?黎琳、銀蒐……!」
叫んでみても、返事は返ってこない。やはりかなりこの崖は高さがあるようだ。
と、隣でピクリと身を震わせ、金髪の天使が目を覚ました。
「大丈夫か?春零」
差し伸ばした手を彼女は弾いた。
ゆらりと立ち上がり、向けられたその眼差しは普段春零の見せる事のない敵を威圧するものだった。
いや、春零じゃない。
「春蘭か?」
「一応」
黎琳を思わせるような堂々たる態度。目つきもそっくりと言えるだろう。
ただ、温厚な雰囲気を醸し出している春零の身体であるから、その差が激しい事に間違いないのだが。
見た目と中身のその違いに戸惑いを覚えてしまう。
「春零は何が起こったのか困惑している。とても表層に出られるくらいじゃない」
「それもそうだろうな……」
何者かに突き落とされ、運悪ければ死んでいたのだ。困惑するのも無理はない。
と、突然地面がグラリと揺れた。
「!?」
周りの景色も大きく歪んだ。
空間をかき回されているような感覚だ。酔って吐き気がしそうな位だ。
――何がどうなってるんだ!?これも妖魔の仕業か……!
不快感に襲われながらも衿泉は周囲を警戒した。
やがて嘘のように地面の揺れは収まった。
だが、大きな変化が彼らの周りには起こっていた。
信じられないと言わんばかりに二人は瞬きを忘れていた。
目の前に広がるのは先程の霧に包まれた世界などではなかった。
輝く純白に覆われた世界だった。緩やかな風が吹き、花は揺れる。
雪を思わせる、舞い踊る花びら。夏を思わせる濃い緑の茎と葉。
あの世にでもありそうな美しい景色だった。
「綺麗だ」
「ちょっと待て……罠かも知れないんだぞ!?」
そんな忠告などお構いなしに春蘭は花畑に足を踏み入れた。
無垢な世界に降り立ち、天使は舞い始める。
気高く、美しい――。
表情がどんどん見知る柔らかなものへと変わって行く様を衿泉は呆然と見ていた。
彼女は楽しそうに舞っていた。美麗たる歌すら紡いで。
舞を終え、花の中に春零は埋もれた。
「綺麗……とても綺麗!ここは天国なのかしら?」
「……」
何も答える事が出来なかった。
「衿泉?」
名を呼ばれ、はっとして春零を見た。
緊張感のないこの世界はどれだけいいだろう。このままずっと続けば――。
――何だろう。欲望が溢れるようなこの気持ちは
疑問が浮かび上がっては霧に包まれ消えていく。
「幸せでしょう。そんな楽園があるのならば」
足元には眠る衿泉と春零の姿があった。
夢――幻術の世界に閉じ込められ、その歪みにへと飲み込まれそうになっている二人の様を見て人魚はほくそ笑んだ。
「幸せを味わいながら罪を償えるだけましだと思いなさいな。ふふ……」
乱暴に春零の襟首を掴んだ。衿泉になど目もくれなかった。
「皆の者、これより罪人を処罰する。準備を整えよ」
『紗羅様の仰せのままに』
紗羅と呼ばれた人魚はそのまま春零を引きずっていく。
無力にも衿泉はその場へと取り残されるのだった。
「そうか、そんな事が……」
全てを聞いた銀蒐は同情するように頷いた。
思った以上に彼は器が大きいらしい。しっかりと受け入れ、特に春蘭を罵る事もなかった。
安堵したのも束の間だった。
目の前に現れたその姿を見て二人は足を止めた。
「何だこれは!?」
見た事のない大群の蛾が行く手を阻んでいた。
「くそっ!」
銀蒐が槍を振り、鎖で薙ぐ。しかし蛾は吹き飛ばされるどころか掠りさえしない。
とは言え、無視して通ろうとすれば群れて視界を遮ってしまう。
「やぁ!」
「とぅ!」
何度やっても同じ事だった。
「……」
しばらく指を銜えてその様子をじっくり観察していた黎琳だが、どんな仕掛けになっているのかさっぱり分からない。
先程の人魚に追いつかれても面倒だし、一刻も早くここを通り抜けたい所なのだが。
まあこんな見え透いた罠が敷いてある以上、この先に衿泉達が居る可能性が高いのだが。
――恐らく私の気を打ったとしてもこれでは何も変わらない……。どんな仕掛けになっているのか暴く必要があるか……
実体が存在しないと考えるのならこれは幻術である可能性が極めて高い。幻術ならばその術を使うための何か媒体が何処かにあるはずなのだが。
それらしきものなど近くにはない。あるのは数枚の葉と土、そしてそこそこの大きさの水溜り程度と言ったところだ。
――分からん
ずっと悩んでいるのも性に合わない。
「ふざけるなよ、たかが人魚風情が!」
地面に八つ当たりしてみる。
「何をしてるんだ!黎琳殿!」
逆に怒られてしまう。
が、黎琳はそんなもの耳には入っていなかった。
決定的な瞬間を彼女は見逃さなかった。
「そうか、そういう事か!」
「む。仕掛けが分かったのか!?」
「ふっ。やっぱり所詮は人魚だな!」
そう言うなり黎琳は再び地面へと気を放つのだった。