序章:応龍光臨
途中、描写が残酷な部分があるのでご注意下さい。
風琳国――それはこの世界の五つの大陸のうち、一つを領土とする国。
独自の文化が強く根付いており、船によって貿易が始まったことで他国の進んだ文化を取り入れてはいるが、なかなか国民は馴染めないようだ。そのため、農村部と港周辺部との格差が広がりつつある。
確かにそれも深刻な問題ではある。しかし、最大の悩みは別にあった。
それは、妖魔と呼ばれる存在。
そもそもこの国では人でも動物でもない存在を「妖怪」と呼ぶ。中でも人間により近い、強い力を持つ者を「妖魔」と呼ぶ。それらは災いを呼び、村を襲撃し、女子供関係なくただ殺戮を繰り返していた。
今までこんな事が起こったことはなかった。妖怪はただの村民でも退治出来るほど、妖魔も専門の知識や力を持つ者ならば苦労せず倒せるほどだったからだ。それが突然強さを増し、歯がたたなくなってしまっているのだ。
この異変は国王のみならず、空から地上を眺める神々の地――天上界にも知れ渡っていた。
背丈の十倍はあるだろうと思われる柱が立ち並ぶ通路を一人の女が歩いていた。
目立つ朱色の衣。髪飾りには天に住まう神の証が描かれている。
ここ天上界に住むのは七人の神、七神と強大な力を持つ――。
目の前に現れた扉を女は躊躇いもなく開けた。広い空間が広がる。その真ん中には銀色の物体があった。
女が来たと知るなりその物体――生物は身を起こした。
「一体どうしたんだ。湯浴みにはまだ早い時間――」
「黎琳、良い報せだ。お前は今日からここを出る事になった」
その言葉に目を見開いたその生物は突如身体を光らせた。みるみるうちに人の形になっていく。
次の瞬間現れたのは、艶めく銀の長髪を持つ少女だった。
「それは本当か!?」
「本当だ。お前にはこれから地上へと降りてもらう」
少女は嬉しそうにはしゃいだ。その首には重々しい鉄の輪が通されていた。女は近づき、その鉄の輪に手を触れた。すると鉄の輪が一瞬にして粉々に砕け散った。
肩の重荷が降りたように少女は目一杯伸びをした。
それもそうだ。彼女は強大な力を持つためにずっとここに幽閉されていたようなものなのだから。
「近頃、地上の様子がおかしい。妖怪、並びに妖魔が明らかに力を増している。お前は地上へ赴き、何が起こっているのか根本を突き止めて欲しい。そしてその力で排除するのだ」
「……その使命が終わったら?」
またここへ戻ってこなければならないのか。
「それに関してはその使命が終わってから七神が協議して決める。今は早急に地上へ降りるのだ。既に風琳国では十の村、集落が滅んだ。あの国が滅ぶ前に妖魔達の勢いを食い止めなければ……」
「――それじゃあ、案内を頼む。私は地上など一度も行った事がないからな」
「それでは行くぞ」
少女の姿が先程の生物へと戻る。と、細長い胴体の背から翼を広げた。そのまま浮上する。
その生物は、銀に輝く翼を持つ龍――応龍だったのだ。
先導するために女が高く飛び上がった。そのまま気流に乗ったように浮き、目的の方角へと飛ぶ。その後を応龍が追う。
下は辺り一面雲の灰色がかった白の世界が広がっている。いや、この世界しか応龍は見た事がなかった。
それが少しずつ薄れ、雲に隠されていた更に下に存在していた景色が初めてその瞳に映った。
深い緑と蒼に分断された土地。よくよく目をこらせば茶色の大地もあるのが分かる。
「降りるぞ」
急降下する女と応龍。
みるみるうちに大地が近づき、自分達の目指している場所は他の場所より甲高い山の頂上である事も分かってくる。
徐々に速度を緩め、かろやかに女と応龍は着地した。応龍はすぐさま少女の姿をとる。大きな身体はこの小さな場所には不向きだと判断したのだろう。
そこから下を見れば木々の生い茂る森、人の集まる集落、砂漠などが見渡せる。
ピクリと二人は身体を震わせた。
「感じたようだな」
「ああ、妖魔の気配がする」
「我々は直接地上に干渉する事は出来ない。お前の働きに世界の命運は賭けられたのだ。成果を期待している――」
「……」
返事を聞く事無く女は風と共に姿を消した。
顔の両端にかかっている余り毛を後ろへとなびかせた。
普通の人間とは違う、細長い耳が一瞬露になった。
先程、黎琳と呼ばれた応龍は踵を返した。山を降りる。斜面を下っていくに連れ、妖魔の気配が強まっていく。
ぺロリと舌を出す。
――何が成果を期待する、だ。私を閉じ込め、全てを奪ったお前達の言いなりで居る私だと思うなよ!
鬱憤ばらしには丁度いい。妖魔を軽く吹っ飛ばしてやろうではないか。
斜面がなくなり、木々の合間の小道をきびきび歩く。
すると開けた場所へと出た。そこには複数の民家があった。どうやら、村らしい。
しかし様子は完全におかしかった。地面にひれ伏した数々の人間の身体。あちらこちらにこびりついた赤い染み。
「きゃああああ!」
「あっはっはっは!」
甲高い笑い声を出しながら人の身体を切り裂く妖魔の後ろ姿。
切り裂かれた人間は目を開けたままピクリとも動かなくなった。
――人とは、こんなにも脆いものなのか
あっさりとやられてしまう人の姿に黎琳は呆れた。あまりにも弱すぎて狂喜してしまいそうだ。こんな奴等、護る価値などあるのだろうか。滅ばなくていい理由などあるのだろうか。
そんな事より……。
「おい」
低く、落ち着いた声音を出した。妖魔が驚いたように振り向く。
醜い紫の肌、棘のある尾、巨大な腕。口を開ければ見える自らの口さえも傷つけてしまいそうなほど鋭い歯。
「マダ生キ残リガイタノカ」
瞳孔が開き、こちらを目標として捉える。
抑えていた鬱憤と共に力を放出する。呆気なく妖魔は吹き飛ばされ、崩れた家の壁に背中を殴打する。
「ガハッ……!」
休む隙など与えない。
瞬時に妖魔に近寄り、踵を妖魔の身体に振り下ろす。
ゴキッと鈍い音と共に悲鳴を上げる妖魔。そのまま踵を押し込める。
「弱いねえ……、お前の力なんて微塵もない」
人間が太刀打ち出来ないと聞いていたためもっと骨があると思っていたのだが、黎琳の前には風に舞い散る塵に同じだった。
「ソノ圧倒的ナ強サ……、オ前何者ダ!?」
ふうっと黎琳は一息着いて。
次の瞬間妖魔は胸部に穴を穿たれ、死んだ。紫がかった黒い血が黎琳の頬や手の甲に飛ぶ。
忌々しげにそれを拭き取り、彼女は吐き捨てる。
「私の事をお前呼ばわりするとは馬鹿な奴め。当然だろう?私はお前達の脅威となる存在なのだからな!」
死体を背に歩き出す。
あとは妖魔に率いられていた更に雑魚である妖怪を排除するだけだ。
「うっ……!」
微かにくぐもった声が聞こえた。
――誰か、生きているのか?
角を曲がれば集る妖怪どもと、それらに集中的に攻撃されている一人の少年の姿があった。