失われた記憶
まだなかなか皆さんに読んでいただく機会がありませんが、それでもこの作品に目をとめて下さった読者の皆さんが少しでも楽しんでくれたらと思います!
3
そこには暗闇だけが広がっていた。自分が目を開けているのかさえ分からない。レナは朧気な記憶を探る。
私はALクロニクルの中で春と再開して、彼につかまって空を飛んで……。
思い出すだけでも寒気がした。気絶する直前に見た光景が瞼の裏に甦る。
「ふふっ……やっぱり面白いことになった。私の選択は間違ってない」
突然、レナの背後から女性の声がする。しかし振り返ってもその姿は見えない。
「誰……?」
「この世界が構築されて、あの男の子が入ってきたとき、確信したの。彼なら時代を動かす力があるって」
「……春のこと?」
「そう、ハル。ハル・フランソワ。私があげた名前……いや、この世界が彼にあげた名前」
「もしかしてあなたが春の記憶を……」
「そう、気づいたのね。彼はきっと現実の世界で生きるより、こちら側で生きる方が輝けるの」
「何を勝手なことを……」
「あなたは歴史の運命ってものを信じる? 誰かが言ったらしい。歴史は全て必然の重なりだって。革命も戦争も、誰かがあるべきように動かなくても、きっと代わりが存在する。そうでなくとも、歴史がそれに向かって流れる限り同じ結末を迎えるって。でも私は人の力ってものを信用している。だから実験してるの。彼らの記憶に手を加えて」
彼ら……
「まさか……アヤ達も⁈」
「アヤ……ううん、その子じゃない。誰でもかんでも記憶を書き換えたってつまらないでしょう? あなただってそう。きっとこのままにしておいた方が……ふふふっ。今日あなた達がヴィオネでスキルを使って暴れてくれただけでも大きく歴史の流れは揺さぶられたと思う。でもこれだけじゃ足りない。もっともっとかき混ぜて。乱して。壊して。あなたでないと作れない未来を私に見せて……」
「ふざけないで……春の記憶を返しなさい!」
「恋人だから? 見てたのよ、あなた達がこの世界に来てからずっと。だから凄く興奮したの。仮想世界に記憶を奪われて囚われた少年とその恋人。ゾクゾクする」
「一体……何なのあんたは?」
「あなたがこの世界をかき乱す準備は整えておいた。さっきの失神も、ホントは強制ログアウトものだけど心配いらない。目を覚まして、彼の記憶を求めてこの世界を彷徨うの。」
謎の女の声が遠ざかっていく。
「待って! どうやって春の記憶を⁈」
「きちんと何処かに方法は用意してある……私もそこにいる。だから逃げないでね。ずっとここにいて。私の物語の中に……」
柔らかなベッドの感触が身体をレナの身体を包む。辺りは薄暗いが、机に置かれた小さなランプが柔らかなオレンジ色の光を灯している。
「ここは……」
何処かの家の中? 隣にはガラス張りの窓がある。もう外は真っ暗で何も見えない。。
レナはベッドから離れ、部屋の中を探った。アンティークな内装の壁には黒い軍服、レナの物と色違いの黒いローブ、そしてサーベルが立てかけてある。
「春の部屋……家まで運んでくれたのね」
闇の中の声が脳裏に甦る。
――ハル。ハル・フランソワ……この世界が彼にあげた名前。
「ハル・フランソワ……」
レナが部屋のドアを開けると、床の下から誰かの声が聞こえる。どうやらここは二階らしい。
階下から漏れる僅かな光を頼りにレナが一回に降りる。徐々にその声が大きくなっていく。
嫌だって言ってるでしょ! お願いって! 今日だけだから!
片方は聞き覚えのある声だ。ハル、一体何が……
「一緒にお風呂入ろうよ‼ お姉ちゃん‼」
「もうしつこいのよ‼ 入るわけないに決まってるじゃない‼」
リビングと思われる大きな部屋の真ん中で、ハルと見知ら女性が取っ組み合いになっている。
「別に姉弟なんだからいいじゃん! 小っちゃい頃一緒に入ったじゃん!」
「あんたもう十七でしょ⁈ 話が違うのよ昔のあんたと今のあんたじゃ! ああもう離れろ‼ おるあああ‼」」
女性は春の腰に手を回すと、エビぞりになってハルを後方に叩きつけた。春の上半身が木製の床にめり込んだ。
「これは……」
レナが入ってきたドアの前で固まった。
「あ、起きたんだ! 心配したのよ。大丈夫?」
ハルに強烈なジャーマンスープレックスをお見舞いした彼女は、長いツヤツヤとした紺色の髪を持つ、黒いカーディガンにスカート姿の美女だった。かなりのスタイルの良さで、ブラウスの胸元は気圧されるほどに膨らんでいる。
「え、ええ私は。これは一体……」
「ごめんね変なところ見せて。こいつ泣く子も黙るくらい凄いシスコンで。レナちゃん? だよね? 着てた服に名前が刺繡してあった。私はクロエ・フランソワ」
「は、はあ。よろしくお願いします」
仮想現実の中に姉? そんなこと有り得るの?
「レナちゃんもこいつに襲われたら躊躇せずに投げ飛ばすのよ? 遠慮しちゃだめ」
「安心しろ、そんな胸も色気も無い女に興味は無い、俺が興味を持つのはお姉ちゃんだけ。他の人間は全て息を吐くカカシだ」
上半身を床下に隠したまま、ハルが喋る。
「気持ち悪いわ」
「気持ち悪いわね。ていうか私だって胸はそれなりに……ってそんなことはどうでもいいのよ」
クロエのそれを見た後ではレナが自分の胸を弁護しようにもできない。
「あんた、どうしたのよ? 色々どうしたのなんだけど、あんたそんな性格だったっけ? 昼間と別人……昼間もその前とはまるで別人だったけど」
「そりゃ仕事とプライベートはきっちり分けるタイプだし、ああいう風に真面目に仕事を頑張る一方で家では家族にたっぷり愛情を向ける。そんなギャップを世の女性達も望んでいる。無論お姉ちゃんも」
「……気持ち悪」
「気持ち悪いでしょう。どうしてこんな人間に育ったのか」
肩をほぐしながら、クロエは浴室に向かって行く。
「悪いけどその変態見張っといてくれるかな。居心地良くないと思うけどくつろいでてね」
今の光景を見る限り、こいつを監視するのとくつろぐのは二者択一だろう。そう思い、レナは溜息をついた。
「ね、ねえちょっと。身体抜いてくれない? そろそろ頭に血上ってきたんだけど。リサ。リサちゃん……リオちゃん?」
「レナよ。あんた本当に覚えてないのね」
「何なんだお前。俺の知り合いか? お前みたいな愛想のない奴、知り合いになった覚えないぞ」
「はあ……思い出せない? あんたは現実の世界では高校生で、一年中ゲームしたり学校行ったり、まああんまり絡んだこと無いからよく知らないけど。このゲームの中の人間じゃないの」
「何言ってんだお前。っていうか抜いてよ。すごい頭ガンガンするんだけど」
「三日前だったかしら。あんたが学校に来なくて、それで私このゲームの中に探しに来たのよ」
「俺とあんまり関わり無いって話じゃなかったのかよ。てか抜いてよ。泣くぞそろそろ」
「あんたが私に、その……だからわざわざ来たのよ。私だってホントはこんな面倒なことに巻き込まれたくないけど」
作り話としか受け取ってもらえない状況ではあの話はできなかった。レナの中にモヤモヤとしたものが立ち込める。
「ああもう。どうしてあんたと……いつもなら断ってたのに」
「早く抜いてよ。もう暴れないから! ヘルプ!」
「……はいはい」
レナはハルの両足を脇に挟むと、その身体を強く引っ張った。
「あんたのお姉さん大変ね……私も自分の弟と兄には気をつけないと!」
「どぅううふっ!」
勢いよくハルの上半身が飛び出した。
「お前も弟いるのか。可哀想だなそんな殺伐とした姉がいる弟は」
「余計なお世話よ……ってそういえば今何時?」
「……夜の七時だけど」
まずい。私たちがここに来た時は昼間だったってことは……レナがメニュー画面を開く。現実の世界の時刻は七時四〇分。
「うわ……学校行かないと! ていうか家にも連絡しないと!」
幸音のアカウントのメール欄にも、眠っている間に大量のメッセージが来ている。
「なんだそれ……魔法か?」
「あんたもできるわよ。手をこうやって……ってハル! 帰るわよ! 折角来たんだから、記憶がなくてもログアウトくらいしてもらわないと」
「え? ちょっと!」
レナは浴槽のクロエに声をかける。
「ごめんなさい! この変態と出かけてきますね!」
「こんな夜にどこに⁉ 危ないよ!」
「大丈夫です! ちゃんとどっかの宿に泊まりますから!」
「え、ええ……あははは」
「泊まるか! 誰がお前となんか……おい!」
レナは強引にハルの手を引いて二階に上がる。そして先程のベッドにハルを投げ飛ばした。
「俺の部屋じゃねえか! ほんとにその気ならもうちょっと落ち着く場所で……」
「何言ってんのよ気持ち悪い。手貸して、こうやってさっきの私みたいにメニューを……」
レナがハルの横に座り込み、手を取る。
「ちょっと、いらんいらん。お前の身体なんていらん。初めてはもっとロマンチックにって決めてるから!」
「乙女か! って違うわよ! メニューを出してログアウトするのよ!」
「嫌だ嫌だ!」
二人はベッドの上で激しく取っ組み合う。
「いい加減に……んっ」
ハルは突然レナの唇にキスをした。レナの身体が一瞬にして固まる。ゲームの中とは思えないほどリアルな柔らかさがレナの思考を止めた。
「と、とりあえず今日はここまで。気持ちは凄く分かったから。でもこの後はもっと仲良くなってからにしよう……な?」
「え……」
レナの顔が一気に紅潮する。心臓の鼓動が音を立てるほど強くなる。その顔を隠そうとしてレナが手を離した瞬間、ハルが翼を出し、窓を開けて飛び去った。
「……ああ、もう。もう」
レナはベッドの上に倒れ込んだ。恥ずかしさにたまらなくなり、枕を顔に強く押し付ける。
何してんだろう……私。
レナは息を深く吸って思い切り吐き出し、メニューを開いた。
「ねえ! ブス! ブス早く起きてってば!」
怜奈がログアウトすると、耳元でアヤの声がした。
「学校行かないと! ブス! ほら優陽ちゃんも!」
「えっと、ブスさん? 早く起きてください。遅刻しちゃうらしいですよ」
「いやいやもっと大きい声で呼びかけないと。ねえブス! ちょっと頭良くてバスケ上手いからってあんまり調子に乗ってるからクラスで浮くふがごっ!」
「あんたそろそろ友達辞めるわよ?」
怜奈は亜矢の頬を挟んだ手を離し、VRギアを頭から外した。
「どうだった? 怜奈ちゃん。ヒガワンの方は?」
「えらいことになってるわよ。また学校行ってから話すけど。ってそういえば」
――だから実験してるの。彼らの記憶に手を加えて。
「亜矢の記憶は大丈夫……ってことは」
怜奈が優陽に顔を向ける。その顔は今までと何ら変わりない。しかし。
「下黒岩さん。大丈夫? 何か変なこととか無かった?」
「え、ええと……下黒岩さんっていうのは私のことですかね? ブス……怜奈さん?」
「ああ、やっぱり」
「優陽ちゃん自分の苗字も覚えられないの? チワワですら覚えられるよそんなこと。まあ怜奈ちゃんの名前分かんないのは仕方ないけどね」
「ごめんなさい。本当に覚えていないの。どうかまた友達になって下さい。怜奈さん」
前から柔らかく、おしとやかな雰囲気だった優陽が最早どこぞの国で長いこと城に閉じ込められていた王様の箱入り娘のようである。
「亜矢に完全にマウント取られてるあたり、重症みたいね」
「でしょ? こんなんじゃうちがいじめてるみたいだよ。この前まで丁度いいバランスでやってたのに」
「ごめんなさい。折角命を助けて頂いたのに。後ほど皇帝家をあげて厚くお詫びしますから……」
優陽が深々と頭を下げる。
「いや何もそんなことまでしなくても。下黒岩さんのせいじゃないし……皇帝家?」
「そうそう。優陽ちゃんあの国、アスタリアだっけ?」
「そうです、アスタリア帝国」
「の、お姫様らしいんだよ。皇帝の長女。次期皇位継承者」
「ユーヒ・フォン・ヒルブルクといいます」
怜奈の頭の中がさらにかき乱される。
「下黒岩さんが皇太子って……なんでそんなことに」
「アスタリアでは帝位継承に男女の縛りはありません。継承の際、他国からの干渉を防ぐためでもあって実際お父様の先代も女帝で……」
「そういうことじゃなくて! はあ……とんでもないことになったわね。連れ帰ってきただけよかったけど」
「うん。多分そう言うかなと思ってユージンの助けで身を隠した後にこっそり二人でログアウトしてきた。今頃焦ってるだろうな、ユージン。私たちがいなくなってるんだもん」
「……首飛ぶんじゃないの? ちょっと申し訳ないわね」
「ま、とにかく学校行かないと! 今日終業式だし、部活も時間長いからうちらちゃんと行かなきゃやばいっしょ!」
「そうだった」
怜奈達の通う秋桜高校は他の学校と違って冬休みがかなり早くから始まる。二学期の期末試験が終わると冬休みがすぐ訪れるのだった。
「都合がよかったかもね。この件、かなり長引くことになりそうだし」
「そだね。うちも数学の再試バックレたけど、よくよく考えたら明日から休みだからこれ以上再試無いや。てかヒガワンは? ログアウトしそう?」
「それは……」
ハルの部屋での出来事が鮮明に思い起こされる。突然の口付け。柔らかな感触がまだ怜奈の唇を這っていた。
「……今日は駄目ね。けど逃げられたわけじゃない。何とかして記憶を戻してあげないと」
「やっぱりヒガワンも記憶をやられちゃってたのか。外から強制ログアウトさせるのは?」
「それじゃ記憶が戻らないかも。下黒岩さんだってそうでしょ? それに……」
ユージンやクロエの顔が浮かんだ。
むごい……確かにそうかもね。
「春の代わりにあたしが学校行ってやろうか」
二段ベッドの下から幸音の声がする。
「そこのギャルが何故か床で寝てくれたおかげで、久しぶりにベッドで寝れたよ。妹と添い寝だけどな」
「妹……? もしかしてこの世界の私のお姉さん?」
「ああそうだ。あたしが姉の幸音。お前を今までこれでもかという程優しく面倒見てきてやった。お前はあたしの雑用になるべきだ」
「うちも同じ意見だね」
「は、はあ。頑張ります」
「私の周りってなんでこうもまともな人がいないんだろう」
「類は友を呼ぶってやつじゃないのか。あたし大学でARホロメイクの研究しててな、他のゲームから春の容姿のデータを取り出して変装しとく。さすがにちょっと時間がかかると思うからお前らカスどもは先に行ってろ」
「サンキューユキさん! 馬鹿そうな割に頭良さそうなことすんじゃん!」
「実際良いんだよ。さっさと行って来い。遅刻すんぞ」
怜奈、亜矢、優陽の三人は優陽のクローゼットから服を取り出して着替え、部屋を出た。
「お邪魔しました!」
「お邪魔しました」
「お邪魔しました……じゃないか。行ってきます」
終業式を終え、ホームルーム後の教室。十二時半、部活に行く生徒は各自で昼食を取り、行かない生徒は多くが下校している。昨日と同様、怜奈の前の席に亜矢が座り、売店で購入した菓子パンを二人でを食べていた。
「じゃあ優陽ちゃんの記憶もそのゲームの中の女の人に消されたってことなの?」
椅子の背にもたれながら亜矢が怜奈の話を聞いている。
「ええ。まあ消されたというより『書き換えられた』って言うのかも。記憶を元に戻す方法も用意してあるって」
「運営に報告する? うちみたいな馬鹿でもこりゃ結構な一大事ってわかるよね」
「報告してどうにかなる問題なのかしら」
そもそもあの声の主はゲームの中のAIなのだろうか。あの声の主は明らかに自分の意志でもって春たちの記憶を書き換えている。そんな芸当ができるモノがゲームの中に潜んでいたとして、バグだなんて範疇の話じゃない。
「そういえば春……ユキさんと下黒岩さんは?」
「どっちも下黒岩さんじゃん。優陽ちゃんはいきなりこんなところに来てびっくりしたから色々見て回りたいって。なんかお国のために見学して勉強するだとか何とかほざいて。ユキさんは久しぶりの高校が懐かしいからってそれについて行った」
「大丈夫なの? それ」
「ユキさんここの卒業生だから道には迷わないっしょ」
「いやそういう問題じゃなくて」
「そっか、うちだってこの学校の生徒だけど職員室に行く時道に迷うもんね」
「いやだからそういう問題じゃ……それは問題ね。あの二人の組み合わせだから何か変なことになってないかって」
そのとき、廊下からバタバタと誰かが走って近づいて来る足音がした。その足音が怜奈達の教室の前で止まる。
「鶫怜奈! 金崎亜矢! ここにいたのかてめえら‼」
金髪オールバックのガラの悪そうなコワモテ長身の男子生徒が扉を勢いよく開けて登場した。教室に残っていた生徒の視線が集まる。怜奈達の隣のクラス、二年五組のヤンキー皆藤彰吾だ。
また面倒なことになりそうだ。怜奈が心の中で呟く。皆藤は問題行動の数々で教師たちからも目をつけられている。カツアゲ、万引き、他校の生徒との喧嘩。ここまできて退学処分にしない学校はいったい何をしているんだろうか。
「ここにいたのかって、そりゃ自分のクラスに基本いるわよ」
「おい、金崎亜矢。これはどういう冗談だ……」
皆藤は息を切らしながら怜奈達に近づいて来る。
「何が?」
「何がじゃねえ。これはどういう冗談だと聞いているんだ!」
「いやだから何がどういう冗談なのか知りたいんだよ! 馬鹿か!」
「何だと⁉ どういう冗談だ⁉」
「あんたのそれがどういう冗談なのよ……何しに来たの?」
皆藤が怜奈に向き直る。
「お前は話が通じるらしいな」
「え、うちこいつに話通じないと思われたの? あまりにも屈辱なんだけど」
「あんたじゃ私にも話通じないと思うけど」
「お前下黒岩優陽を知っているな」
「……ええ」
怜奈の表情が曇る。
「というか下黒岩さんと私たちに何かあったと思ったからここに来たんでしょ。そりゃ知ってるわよ」
「だったら話が早い。俺は三か月前に彼女に告白し、返事は無期限の見送りにされている」
「振られてるんじゃないの?」
亜矢が口をはさむ。
「いや、違う。俺の舎弟たちが言うには俺は振られていないとのことだ」
「何で不良が女の子に振られたあと舎弟に相談してるのよ。大人しく家で一人泣きなさい」
「それ以来、俺は下黒岩の彼氏候補生として彼女の日々彼女のボディーガードをしている」
「うっわ気持ち悪! 何してんのこいつ! ストーカーでヤンキーってどこに需要あんの⁉」
亜矢が姿勢をのけぞらせる。
亜矢が常識人に見える……世も末ね。怜奈はこの世の終わりを密かに感じた。
「ついさっき、昼休みに入ってすぐのことだ。俺は売店に一番に駆けつけて下黒岩が好みそうなパンを一通り購入し、彼女に膝をついて献上するという役目を負っているんだが」
「ツッコミどころは多々あるけど、まあ続けて」
「今日、いつものように校内の何処かに敢えて隠れる彼女を見つけ出し、二礼二拍手一礼を経て片膝をついたとき」
「逃げられてるじゃない! やめてあげなさいよ!」
「彼女はなんと俺のパンを躊躇なく受け取り、あまつさえお礼まで口にしたのだ……!」
「なっ……!」
亜矢に大きな衝撃が走る。思わず手にしていた菓子パンが床に落ちた。
「噓でしょ……! 皆藤みたいなカスに優陽ちゃんがお礼を?」
「何であんた驚いてんのよ。あんた下黒岩さんの記憶が書き換えられたこと知ってるでしょ……あっ」
しまった。怜奈が心中で口にした。
「やはりそうか……でなければ、いつもなら死にかけのゴキブリを見るような目で俺を見てくる彼女があんな言葉を」
「あ! やっぱりここにいたのですね!」
皆藤が入ってきたドアから優陽が現れた。横には幸音が扮する春が立っている。
「怜奈さんと亜矢さんのことを教えて差し上げたらすごい形相で走っていったものですから。私何か勘違いさせたのかと思って」
「よーう。お前ら」
二人は売店で購入したのであろうパンが大量にはいったビニール袋を両手にぶら下げている。
「先程のパン、とても美味しかったのでお返しがしたくて」
まぶしい笑顔で優陽が皆藤にそれを手渡した。
「有り得ない……優陽ちゃんがこんな」
亜矢は開いた口が塞がらず、皆藤は恐怖に足が震えている。
「あたしの妹っていったい学校でどんなキャラなんだ……」
「ユキさ……春、妹じゃないでしょ?」
怜奈があきれた様子で幸音に訂正を促す。
「そうだった。あたし、俺は今お前の彼氏だったんだ」
「余計なこと言わなくていいから!」
「下黒岩……いやご主人様。記憶を書き換えられたというのは本当なのか⁈」
皆藤が優陽に詰め寄る。
「優陽ちゃんはうちのご主人様だよ!」
亜矢が徐々にいつもの調子に戻りつつある。
「ええと、まだ私も何がどうなっているのか分からないのですが、亜矢さんたちがおっしゃるにはそうなのだそうです。こんなものを見せられたらとても否定することは」
優陽は顎に手を当てる仕草をすると、教室の窓に目を向けた。グラウンドでは怜奈達より一足先に部活が始まった男子生徒たちが声を張り上げながら動き回っている。
「私のいた世界より三百年先の世界。科学が進歩して生活は豊かになり、人々は戦乱の無い世の中で平和に暮らしている。アスタリア……いやヨーロッパが少しでも早くこんな理想に近づいてくれたら」
優陽は未だにハルのオウン・ワールドが仮想世界であることを信じきれていなかった。怜奈達の説明も虚しく、自分たちの世界とは異なる世界が存在することは認めたものの、下黒岩夕陽としての自分を受け止められていない。怜奈にはそれが少し可哀想に思えた。
「ねえ、下黒岩さん。あなたがこの世界の人間として生きてきた記憶は確かに存在する」
怜奈が席を立ち、優陽の隣に立つ。
「ゲームの中の世界……あなたがユーヒ・フォン・ヒルブルクとして生きていた世界を否定するわけじゃない。でもこの世界には、あなたが下黒岩夕陽として生きていたときの記憶を取り戻すことを望む人達がたくさんいるの。だから、向こうに戻ったら私たちに協力して欲しい。きっとあなたのもう一つの人生を取り戻して見せる」
「その話、俺も力を貸していいのか?」
皆藤が妙に真剣な表情で怜奈に問いかける。
「確かに今の下黒岩には以前のような棘がなく、俺にすれ優しく接してくれる。だが、俺が惚れたのはそんな下黒岩じゃない。下黒岩が俺に投げかけてくれた暴言の数々、侮蔑の眼差し、その全てが俺の脳裏に焼き付き、生きる糧となっている」
「なんだこいつ……」
幸音、もとい春が引き気味で皆藤の話を聞いている。
「俺はこんな下黒岩じゃ満足できねえ。お前もそうだろ?」
皆藤が亜矢に目を向ける。
「え? うんまあうちはどっちでも。借金とか帳消しになってるっぽいし」
「そうと決まれば早速そのゲームの中に飛び込むぞ!」
「いや、今うちはどっちでもいいって言ったじゃん! 何なのこいつマジで」
「あんたね。あのゲームは本当に危険なのよ? 下黒岩さんだけじゃない。あんたの記憶まで書き換えられるかもしれない」
「だったら俺はそのゲームの中には行かない。怖いからな」
「何だお前ちくしょう!」
亜矢がまたもツッコミに引きずり込まれる。
「その代わり、とっておきのサポートを用意してやる。お前たち俺がドローン関係の会社の社長の息子だということは知っているな」
「あ? うん知ってるけど」
皆藤の親はドローン開発のベンチャー企業の社長であり、一代にして莫大な富を築いていた。
「親父の会社が最近開発したドローンの中に超小型で、口から人体に取り込まれたあと、睡眠状態での食事を助けるものがある。勿論、昨今のフルアクセス型VRゲームの流行に合わせたものだ。これで何時間でもゲームにログインしっぱなしでいられる」
「本当?」
今まで皆藤を敬遠していた怜奈の目が光る。
「それを使えば、一先ず春をあのまま生かしておける」
「春?」
「こっちの話よ。とにかくあんたの協力は有難いわ。私たちがログインしているところに来てもらうのはまずいけど、そのドローンは貸してもらう」
「お、おう」
「私たちは今から部活に行くから、それが終わるまでに用意してこの教室に来て」
「何だお前。俺に指図するとはいい度胸だな」
怜奈の高圧的な態度が皆藤のヤンキー心に油を注いだのか、皆藤が目つきを凄ませて怜奈に近づく。
「女だろうと俺より偉そうにする奴は許さ、うおおっ!」
怜奈は一瞬で皆藤の足を払い床に横たわらせた。
「喧嘩もしたことが無いらしいわね」
怜奈が皆藤の手首を踏みつける。教室に残っていた生徒たちが静まり返る。
「いい? 私にも協力しないならもっと惨めなことになるわよ。はっきり言ってあんたみたいな口だけがでかい男が何人集まろうと私の敵じゃない。私がここに戻ってきたとき、そのドローンが机に置かれてなかったら殺すわよ?」
言葉を失った皆藤を置き去りにして、怜奈と亜矢が荷物を持って教室のドアにむかって行く。
「下黒岩さんとユキさん……春は先に帰っておいて。終わったら連絡するわ」
「怜奈ちゃん怖いねーやっぱり。友達全然いないだけあるわ」
二人が去った教室に異様な静けさだけが残った。
「何だあいつらちくしょう。俺をこんな……」
「まあまあ、皆藤さん。残りのパンでも食べて元気出しましょう? 私も一緒に食べてあげますから」
読んでいただいた皆さん、ありがとうございます。次回から本格的に仮想世界でのストーリーが動き出します。我ながらちょっと遅い気がしますけど笑 ご期待くださいませ。