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赤い林檎(5)

あの夜──黒いリボンが行く手を遮る中で、キラは幼いゼオンの首筋に白い牙が深く突き刺さる様を見たのだという。



はらはらと雪が舞い落ちる空を見上げながら、キラは先日見た夢の話をしはじめた。やけに鮮明で生々しく、とても夢とは思えない出来事だったらしい。

幼少期のゼオンと、シャロンとディオン。そして、ゼオンの母親が出てきたそうだ。母親はゼオンをシャロンたちから引き離し、「兄と姉を守るため」という呪いの言葉を吹き込みながらゼオンに暴力を振るっていた。ゼオンが新たに開発された魔術の実験台にされていた話や、「精神のみを破壊し、身体を旦那の器にする」というゼオンの母親の思想について聞かされた時、ティーナはあまりの悍ましさに震え上がった。


「とにかく、ひどい出来事だったんだよ。ゼオンも、ここで逆らったらお兄さんとお姉さんが危ないって知ったら何も抵抗できなくなっちゃって……ううん、多分、あれで覚えさせられたんじゃないかな。『護ることは、人の傷を自分が代わりに引き受けること』だって」


「いっやあああああああああああああああ、なにそれ、最っ低!! ありえない! 気持ち悪いにも程がある!!自分の子に何てこと考えてるの、グロテスク!! もしあたしが過去に生きてたらクロード家の屋敷に殴り込みに行ってたよ! 絶ッ対、赦せない!!!」


ティーナは口を大きく開けて絶叫した。すると、その率直な叫びを聞いたキラは少し笑った。


「……よかった。きっとティーナならそう言ってくれるんじゃないかと思ったから、話してみたんだ。ありがとね」


怒りを露わにすることで人に感謝されることなど滅多に無いので、ティーナは頭をぽりぽりと掻きながら困り果ててしまった。


「べつに、感謝されるようなことじゃないよ?」


「ううん、感謝することだよ。だからありがと。……あたしもね、もしあの夢がゼオンの身に起こったことだとしたら……あたしも、赦せないの」


初めてキラの口から「赦せない」という言葉を聞いた。ティーナはこの時初めて、喜び、笑い、人を慈しむだけではなく、怒りもすれば人を憎むことだってありえるのだと知った。心のどこかで、キラはティーナには決して手が届かない聖人なのだと思い込んでいた。実際は、キラも自分と何の違いも無い少女だった。

キラは大きく息を吸って、吐いた。そして、急に膝を丸め、顔を隠して俯いた。どこか気分でも悪いのかと思い、ティーナが声をかけようとしたところ、キラはこれまで聞いたこともないような低い声で語り出した。


「赦せない……赦せないんだ。初めてかもしれない。メディさんにさえ、こんなこと思ったことなかったのに。ゼオンがお兄さんやお姉さんのこと大事に思ってることをわかっていてあんな酷いことして……『所有物』だなんて言って……最低だよ」


「キラも、そんなこと言うんだね。わかる、最低だよね。ほんと、ありえない」


キラは無言で小さく頷いた。一体、それはどれほど絶望的な光景だったのだろう。ティーナにはキラの話を聞いて想像することしかできないが、オズの悪ふざけなど比べ物にならないほどの非道で埋め尽くされた地獄のような光景だったのだろう。

ただ一つ、救いがあるとすれば──


「まあ、でもさ、言い方は悪いけどさ……ゼオンのお母さんってもういないんでしょ。その……死んだわけだし。ゼオンがもう二度とそんな目に遭う危険は無いんだよね。それだけはよかっ……」


「うん、確かにゼオンのお母さんはもういない。……でも、その人の影響は確かに残ってるんだよ」


キラははっきりと言い切った。今にも泣きそうな顔をしながら、自分の影が映った雪原を見つめ、震えた声で話す。


「さっき図書館で……ゼオンがあたしのこと庇ったでしょ。それだけじゃない。ゼオンはいつもあたしのこと庇ってくれるでしょ。それ、夢の中で親の暴力に耐えてたのと同じなんだよ……お兄さんとお姉さんを想って、独りで傷を引き受けてたのと同じ……あたしの為に、ゼオンは傷つく道を選び続けてる。さっき、あの時、そう気づいちゃって……」


それを聞いて、ティーナはようやく先程の図書館でキラが見せた怒りに納得がいった。オズがそこまで考えていたとは思えないが、あの時キラはゼオンの傷と歪み全てを見せつけられてしまったのだろう。


「目つきとか口癖とか、ゼオンとその人ってそっくりなの。間違いなく、実の子なの。そして、傷を隠す癖だって、あの黒いチョーカーだって……。ゼオンの母親はもういないはずなのに、その人が与えた影響はまだ消えてない。あんな人、絶対に赦せないのに……あたしは今もゼオンにあの夢の中での出来事と同じことをさせてる」


ゼオンの首からチョーカーが剥ぎ取られた瞬間、全身に傷痕と黒い蜘蛛の巣を模った魔紋が広がっていったことを思い出した。キラにとって、あの傷と魔紋は己の無力さの証拠のようなものだったのかもしれない。キラは珍しく自嘲気味に話した。


「一番赦せないのはね、自分なの。あたしね、本当についこの前まで、ゼオンのことをまるでヒーローみたいだって思ってたんだよ。あたしがメディさんに憑依されて暴走した時も、お姉ちゃんの復讐を止めようとした時も、イオ君が敵だってわかって打ちひしがれた時も、ゼオンはいつでもあたしを助けてくれた。あたし、そんなゼオンのことを、強い!すごい!かっこいい! って、思ってたんだ。なんて呑気なこと考えてたんだろうね。そうやって、あたしはずっとゼオンを一番傷つく場所に立たせてたんだよ」


背筋がゾッとした。ラヴェルとプリメイが死んだ直後の戦いで、メディに憑依された自分をゼオンが助けてくれた時、ティーナもキラと似たようなことを考えていた。優しくて、気高く、輝かしい人だと思った。自分も他人も何もかもが絶望に飲み込まれてしまった時こそ、ゼオンは人にそう錯覚させてしまう魅力がある。だがその勇敢さは、無数の傷を積み重ねた末に出来上がった自己犠牲精神の裏返しだった。人を「護る」ことは「あらゆる傷を引き受けること」だと教え込んだゼオンの母親と、ゼオンの勇敢さに惹かれ、賞賛し、結局彼を一番傷つく場所へと導いてしまったティーナやキラ。キラは今、自分の幼さを恨まずにはいられないのだろう。


「なんであたしはいつも気づけないんだろう。お姉ちゃんの復讐を止めた時だって、イオくんが本性を見せた時だって、一歩間違えれば死ぬかもしれないような状況だったのに。誰だって傷つき続けたら死んじゃうかもしれないのに」


「キラは悪くないよ。そんなの、気づく気づかないの問題じゃないよ。……知らなかったんだもん。ううん、知ってても、絶望のどん底であんなに勇敢に自分を護ってくれたら、そう思っちゃうよ。それは、しょうがないよ」


「……そうかもしれない。でも、『しょうがない』でゆるせない」


キラは歯を食いしばり、両手で目を覆う。ティーナは震えるキラを見つめながら考える。自分を助けてくれた勇敢な人の為に怒り、悔やみ、震える。この感情は果たして「恋」と呼べるのだろうか。──少し、違うような気がする。しかし、皆に平等分配された優しさより明らかに強く重い感情だった。


「もしゼオンがいなくなっちゃったらどうしよう。ゼオンの身体に出てたあの黒い痣みたいな模様……あれ、なんなんだろう。放っておいたら、大変なことになる気がして……」


「そうだ、そうだよ! キラ、あの魔紋を見たことあるの? いつ?」


「前にゼオンが倒れたとき、お見舞いに行ったら、偶然チョーカー外してたんだ。その時はただの痣だと思ってたんだけど……まさか、あんなに広がってたなんて」


キラの話を聞く限り、あの黒い魔紋がゼオンの全身にまで広がったのはつい最近のことのようだった。

あれは何だ? 誰が付けたものだ? オズは「リディの血と関係がある」と言っていた、しかし、今のキラの話を聞くとゼオンの母親のせいという可能性も考えられる。確かなことは何一つわからないまま、「このままではあの魔紋は瞬く間にゼオンを侵食しつくすだろう」という緊迫感が胸を覆う。

キラにつられて、ティーナも思わず下を向いてしまった。身体の内側は謎の魔紋に蝕まれ、外側からメディをはじめとするさまざまな悪意を持った者達に傷つけられていく。ゼオンが置かれた状況の過酷さに、さすがのティーナも言葉を失った。

しかし、ゼオンに「戦うな」とは言えない。ゼオンを戦わせずにメディ達に打ち勝てるほど、ティーナもキラも強くはない。そして、ゼオンを蝕む魔紋の正体もわからないのに、解呪の方法がわかるはずもない。このまま何もできずに指をくわえて見ていることしかできないのだろうか。


「……止めなきゃ、絶対に」


まるで自分自身に言い聞かせるように、キラが呟いた。


「たとえメディさんを止めて、オズとリディさんが再会して、イオくんが戻ってきて、何もかもうまくいったとしても、ゼオンを置いていっちゃったら何の意味もない────そしたら、あたしは、絶対に後悔する」


キラは顔を上げ、蒼い眼を大きく見開き、空を見上げる。こういうところが、キラの「強さ」だ。キラの両親は良い名前を付けたとおもう。人と人外が持つ憎悪と愛と後悔が夜闇のように視界を覆い尽くしていく世界で、正にきらきらと輝く星のように彼女は前を見据えていた。


「ゼオン独りを傷つけずに、メディさんたちのことも、オズとリディさんのことも、イオくんのことも……全部なんとかできる手段を考えなきゃ」


「キラはすごいよね……。もう何も知らないお子様ってわけじゃないもんね。あれだけ人に裏切られても、酷いものを見ても、まだそう言えるんだ」


敢えて「そんなものは理想論だ」とは言わなかった。これが出会ったばかりの頃のキラだったなら、善意の檻に護られた無邪気な少女の言葉だったなら、ティーナも容赦なく現実を突きつけていたかもしれない。しかし、キラはもう十分に醜い現実を見せつけられてきた。それでもまだ綺麗事を吐き続けていられる精神に対して、ティーナは賞賛の言葉を送りたいと思う。


「すごくないよ。諦めが悪いだけ。まだ何もできていないくせに、理想ばっかり高いだけ。でも、わかっていても思っちゃうんだ。『なんでみんな幸せになれないんだよ!』ってさ」


生まれ育った環境が違うとはいえ、ティーナはすぐに諦め、妥協した側の人だ。『みんな幸せになる』だなんて現実味が無さ過ぎて、望むことすらしなかった。その結果、奪い、傷つけ、支配する怪盗の道を進むことになった。そんなティーナにとっては、己の無力さを嘆き、思い悩む顔ですら──眩しい。

キラは白銀の大地を睨み、ぶつぶつと呟く。


「考えなきゃ。戦闘については、なるべくゼオン一人に負担がかからないようにルルカとも相談するとして……あの黒い模様を取り除く方法……そもそもあれが何なのか、誰がつけたのかわからないと……。うーん、わからない。ゼオンの母親関係のものならお兄さんお姉さんに、ブラン式魔術の話なら……まずはオズに話を聞くしかないのかも……」


「……キラさ、前は『あたしはバカだし考えるのは苦手』って感じだったけど、最近は前よりもちゃんと物事考えるようになったよね」


「そう、かな? 気づかなかった。……こればっかりは、苦手だからで人に任せてる場合じゃないなって思って。それで、つい焦ってるだけかも」


「こればっかりは、か……キラはさ、どうしてゼオンの為にだけそこまでするの?」


ティーナはそう尋ねた数秒後に、ハッと我に返って口を抑えた。まるで誘導尋問のようじゃないか。間違いなく「好きだから」と言わせようとしている設問だ。自分の失言を悔やんでいると、キラはきょとんとして首を傾げた。


「ゼオンのため……だけ? あたし、ゼオンだけじゃなくて、イオくんやオズとリディさんのことも心配して……」


キラの話を聞きながら、ティーナは図書館でのオズの会話を思い出していた。もしかすると、これを言うとキラは嫌がるかもしれない──そう思いながらも、ティーナは敢えて尋ねた。


「たしかにキラはみんなの為に頑張っているけど、最近、その中でもゼオンのことは特別気にしてる気がするんだよ。……さっきのオズの話をするとキラは嫌がるかもしれないけど、前のキラはたしかに『みんな大好き、一人になんて決めない』って感じがしたんだ。けど、今日のあの時のキラは、前とはちょっと違う気がしたよ」


キラは何も描かれていない雪の大地をじっと見つめて硬直していた。キラが『みんな大好き』という言葉にどれほど強く支配されているのか、ティーナには想像もつかない。それはある意味、『護る』為に傷つき続けるゼオンと似たような呪いなのかもしれない。

キラの中で無意識のうちに築き上げられたその呪いが、今、解けようとしていた。


「そうだなあ……なんでだろ。あたしが絶望して、もうだめだって思った時に……いつも助けてくれるゼオンが、きらきらして眩しかったからかな。たとえ、あの勇敢さの土台があんな歪んだ自己犠牲だったとしても……、いつも傍で支えてくれたことが嬉しかったから」


キラはオズから貰った林檎を一つ手に取りながら空を見上げた。吸い込まれそうなほどに深い青空を白い鳥が横切っていった。キラは白い鳥を目で追いながら、小さく呟く。


「だから、前はあんなふうになりたいって思ってたけど……最近はね、あんな人にこそ、幸せを掴んでほしいって思ってる。ううん、あたしが幸せにする」


途中までティーナは微笑ましく思いながらそれを聞いていたのだが、最後の一言を聞いた時、開いた口が塞がらなくなった。それ、本気で恋愛感情皆無で言っているのか。しかもキラ側が言うのか、それを。

恋愛の「れ」の字も知らないお子様を見ていたはずなのに、突然百戦錬磨のスーパーダーリンの貫禄を見せつけられたような気分になった。ティーナは頭を抱えた。恋愛感情皆無だとしても、自覚していないだけだとしても、これは重症だ。一方のキラは、自分が爆弾発言をしたことになど全く気づいていないようだった。


「それでね、いつかゼオンに……」


そこで、キラの言葉が途切れた。ティーナが心配してキラの顔を覗き込むと、キラは薄く微笑んだ。


「……ううん。これはそのうち、ゼオン本人に言うよ」


「ふぅん……これ、ってどんなこと?」


「いつかゼオンにしてほしいこと」


そう言って、キラは笑った。なぜだろう、キラは一言も答えを言っていないはずなのに、ティーナは全てを理解することができた。


「たぶんね、あたしもきっと同じこと思ってるよ」


「そう? だといいな」


ティーナとキラは笑い合って、たくさん話をした。ゼオンの話はもちろん、ルルカの話や学校での話、最近あった面白いことなど……陽が沈むまで話は尽きなかった。


「そーだ、オズから貰った林檎、1個ティーナにあげるよ。オズが今日やったことはひどいけれど、林檎に罪は無いもんね!」


そう言って、キラはティーナの掌に林檎を置いた。本日二度目の林檎だ。一度目は丁寧に果物ナイフで皮を向いたが、二度目は勢いよく皮ごと齧りついた。「行儀」という枷を引きちぎって貪る果実は最高に甘い。

ふと横を見てみると、キラもティーナと同じように皮ごと林檎を齧っていた。ティーナはにやりと笑いながら問いかける。


「おやぁ、そんな下品な食べ方していいのかぁい? おばあちゃんに怒られるんじゃない?」


「今はばーちゃんも見てないからいいんだよ。あたしだって、いつでもいい子なわけじゃないんだから」


「『禁断の果実』を貪り食うとは、キラも悪い子の仲間入りだねえ」


明るく、優しく、皆に愛される太陽のような姿がキラの全てではない。時には怒りを露わにして、「いい子」でいられなくなることもある。しかし、ティーナはそんなキラも素敵だと思った。そして、ティーナはゼオンがキラを選んだことを嬉しいと思った。

出会った時から、ゼオンはこれまで哀しい人生を歩んできたのだろうし、これからも傷つく運命から逃げられない人なのだろうと感じていた。「運が悪い」──あの頃のティーナは、氷のように冷たい横顔を見つめながらそう思ったものだ。そんな運命を変えることができると信じることはできなかった。そのくせに、それでも演じ続けていればいつか叶うのではないかと脆い夢を見ながら、毎日ゼオンに愛を叫んでいた。

そんなティーナだったが、これだけはゼオンにとっての「幸運」だったと信じている。己の欲を満たすのではなく、ゼオンの幸せを願ってくれる人。己の為にではなく、ゼオンの為に怒ってくれる人。ゼオンが惹かれた人が、そんな人でよかった。


「そうじゃないもん。いい子のところも、悪い子のところもあるのがあたしってだけ。今はちょっと悪い子の時間。それだけ」


キラの言葉を聞いて、ティーナはまさしくその通りだと頷いた。善い面、悪い面、どちらにも分けられない複雑な面、全てを混ぜ合わせて一人のヒトに成る。それはキラだけではなく、ゼオンも、ティーナも、同じはずだ。


「春……、まだかな」


唐突にキラが呟いた。たしかに、言われてみれば辺り一面雪に覆われているし、コートは手放せない。雪解けが待ち遠しいものだ。


「たしかに、早くあったかい季節になるといいよね」


ティーナはそう呟きながら、キラが林檎を齧る姿を見つめていた。

あの人の氷のような表情も、いつか溶ける日が来るのではないかと。そんな淡い夢を描きながら。

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