赤い林檎(4)
昔々、初めて人魚姫の絵本を読んだ時、ティーナは「なんて残酷な物語だろう」と憤慨した。
ティーナが赦せなかったものは人魚姫が泡になる結末ではない。人魚姫は愛する人の幸福の為にその結末を選んだのだから後悔する理由は無い。
後から現れた女性が王子様と結ばれたからでもない。その女性は人魚姫が「何を犠牲にしても敵わない」と認めるほどに容姿も心も美しい女性だったからだ。
赦せなかったものは、人魚姫の前に差し出された刃のことだ。人魚姫でも、王子でも、王子と結ばれた女性でもない、何の関係も無い「第三者」がその刃を人魚姫にもたせようとしたことが赦せなかった。
そして今度は純白の雪が降り積もる日に、「第三者」は赤い林檎を手に、棺の底への扉を開こうとしている。
「ティーナちゃん、どこ行くんっすか!」
「図書館にもう一度行く! 絶対、キラとゼオンが危ない!」
ティーナは右手で鎌を振り回し、左手でイヴァンの袖を掴んで図書館へと走り続けた。これまでオズの悪行を見続けてきたのですぐに察した。広場でティーナと目が合った時のオズは、他者の世界を土足で踏みにじる悪人の目をしていた。
「危ないって、どうしてっすか?」
「オズはそういうやつなの。遊び半分で人を甚振って、弄ぶ最低の奴なの! よく覚えといて!」
「ははぁ、紅の死神がねぇ……。噂通りといえばそうっすけど……」
図書館の屋根が見えた時、ゼオンとキラが中に入っていくところが見えた。ティーナもすぐに中に駆けこもうとした時、イヴァンがティーナを引き留めた。
「紅の死神さんが何か企んでいるとしたら、すぐに駆けこむのは危険じゃないっすか? 様子を見て、タイミングを図ったほうがいいっすよ」
「そう、だね……」
二人は扉の外から中の様子を伺った。中にいるのはキラ、ゼオン、オズの三人。何やら大きな木箱に林檎をたくさん詰め込んでいるところだった。ティーナはレティタが「オズが調子に乗って林檎を買いすぎた」と言っていたことを思い出していた。
キラは瞳を輝かせながら箱いっぱいの林檎を見つめていた。
「わー、ほんとだ、林檎がいっぱい! これ、全部もらっちゃっていいの?」
「持ってけ持ってけ。ここに置いといても食いきれへんねん」
やはり、「買いすぎた林檎を分けてやる」という口実で二人を図書館に連れてきたようだった。キラは林檎に釘付けになっているが、ゼオンは険しい表情でオズを睨みつけている。さすがにゼオンもオズを警戒しているようだ。もしかすると、ゼオンがここに来た理由は林檎ではなく、キラが心配だったからかもしれない。
するとキラは満面の笑みで林檎を一つゼオンに差し出した。
「ねえねえ、ゼオンも持っていったら?」
「いらない。味がわからないからな……」
そう言った途端、キラの顔から笑顔が消え、唇を噛んで俯いてしまった。やはり、キラはゼオンが味覚を失ったことを相当気にしているようだった。その時、オズが林檎を掌で転がしながらキラに声をかけた。
「やっぱ心配はしとるんやなあ」
「当然だよ。このままじゃ、いやだよ」
「具体的な治療法は俺にもわからへんけど……ヒントになりそうなことなら教えたろか?」
キラが「えっ」と顔を上げた。盗み聞きしていたティーナも思わず身を乗り出す。そんなものがあるのか? その時、林檎を齧りながらキラに向けて手招きするオズの姿が見えた。
「よう考えてみ。ゼオンの味覚が消えたのはリディの血のせいや。あいつの力は『蒼』の力や。せやったら、その真反対の力がヒントになると思わへん?」
誘惑の言葉は、真実と見分けがつかないほど希望に満ちているように聞こえた。オズの話を詳しく聞こうとキラが一歩、二歩とオズに近づいていく。ティーナは我慢できずに扉を蹴破った。
「罠だよ、キラ! 早くオズから離れて!」
キラが驚いて振り返った時、オズが指を鳴らす音が響く。紅の閃光が宙を走り、キラの後頭部を狙う。ティーナはキラに手を伸ばしたが、どう足掻いても間に合いそうになかった。オズは嗤いながら獲物に告げた。
「ちょろいもんやな。今日も肉盾ご苦労様やなあ、ゼオン?」
ゼオンがキラとオズの間に入り、紅の閃光を受け止める。ゼオンは愕然としているキラをティーナに託した。
「悪い、たのむ……」
そう言った瞬間、ゼオンの手、首、頬に棺を模った刻印が現れ、妖しく輝き始めた。オズはゼオンに手を伸ばして囁いた。
「服従しろ、力を抜け」
オズの言葉と共にゼオンの身体の刻印が赤黒く輝き、ゼオンは言われるがまま全身の力を抜いて床に倒れ込んでしまった。意識はあるようだが、立ち上がることも文句の一つを言うことすらできないようだった。キラとティーナが駆け寄ろうとした時、オズは再び手招きするような仕草をした。するとゼオンの身体が宙に浮いてティーナ達から引き離され、オズが座っている椅子の脚に叩きつけられた。ゼオンは身体を動かすことも声を出すこともできないまま、悔しそうにオズを睨みつけていた。
「親の顔より見た流れやなあ。まあ、お前がこうして大人しく寝転がってるとこは意外と見たことなかったけど。お前、ピンチになる度にそないな顔しとるんか? そらあかんて、メディとかが悦んでまうわ 」
「こ……、の……、なん……た、……め」
「何の為にて? そらちょいとした遊びや。三問クイズに答えたら、ちゃあんと解放したるからええ子にしとき」
そう言うと、猫を撫でるような手つきでゼオンの首筋から顎にかけて指を這わせた。特にゼオンが常に首に付けているチョーカーの上を何度か指で撫でていた。ゼオンは歯を食いしばりながらぐったりと床に横たわっている。よく見ると、ゼオンの唇にじわりと血が滲んでいた。先程椅子の脚に叩きつけられた時に自分の歯で口の中が切れたようだった。オズは赤く染まった唇をじっと見つめていた。
「あっあああ、あの野郎ォォォォ! ぜぇってえ生かしちゃおけねえええええええ!!!」
ティーナは鎌を振り回しながら憤慨した。何が遊びだ、何が解放するだ。ゼオンを傷つけた上に汚い手で触れた罪は重い。ティーナが唸り声を上げていると、オズは楽しそうに指をくるくる回しながらゼオンに言った。
「お前、モテモテやなあ。昔から女に囲まれとったん? あとお前童貞? あ、これ一問目な」
「は……ぁ? ど…………??」
これまで歯を食いしばっていたゼオンがぽかんとした顔をした。「そんな意味のわからないことの為に俺はこんな目に遭っているのか」とでも言いたそうだった。そもそも単語の意味を理解していない顔をしている。一方、ティーナの怒りのボルテージは更に上昇していた。般若のような顔をして唸り声をあげ、今すぐにでもオズの首を狩れるように、鎌をぐるぐると振り回していた。
「次、二問目。このチョーカー外すと、どないなるん?」
オズは突然ゼオンの鎖骨から首の後ろへ手を伸ばし──チョーカーと首の間に指を滑り込ませた。ゼオンの顔が青ざめ、肩が小さく震えた。オズは一瞬で金具を外し、素早くチョーカーを首から剥ぎ取った。
その途端、ゼオンの左眼が蒼く染まった。首に刻まれていた紅の刻印の上に蜘蛛の巣のような形の魔紋が現れ、全身に広がった。魔紋は頬や、はだけたシャツの下にまで広がっている。この様子だと服で隠れている背中や胸も既に侵食されているだろう。
「……ぐっ、う……あ…………っ、ああああああああっ……!」
ゼオンは魔紋が浮かび上がった箇所を抑えながら背を丸めて悲痛な声をあげた。
「へぇ、これはこれは……遊んでる場合やなくなってもうた。この状態で、よくまあまっとうな精神保ててたな」
「か……え、……せ……」
ゼオンは苦しそうに声を漏らし、震えながらチョーカーに手を伸ばす。しかし、手には全く力が入っておらず、チョーカーは指の隙間から虚しくすり抜けた。
「せっかちやなあ。もうちょいよう見せてや。へえ、あいつの血と関係あるんやろうけど……俺はこないなもん出たことないから、誰かお前に大層な呪いでもかけたんとちゃう?」
オズはチョーカーをゼオンの目の前にぶら下げながら、魔紋が刻まれた部分を指でなぞり、楽しそうに笑っている。よく見ると、首筋には魔紋だけではなく傷痕や噛まれたような痕もついていた。秘密を暴露されたゼオンは唇を噛んだまま動かない。ティーナが怒鳴りかかろうとした時、隣からキラの声が聞こえた。
「そん、な……前はあんなに酷くなかったのに……!」
前は……? その言葉に驚いてティーナがキラのほうを向くと、キラは魔紋に侵食されたゼオンを見て顔面蒼白になっていた。キラの表情を見た瞬間、ティーナの決意は固まった。ゼオンだけではなくキラまで悲しませた罪を赦してなるものか。ゼオンもキラも優しすぎて心の底から人を憎むことができない。その尊ぶべき善性を護りたいから、ティーナは彼等を傷つける者を誰よりも強く憎み、彼等の為に怒ろうといつだって心に決めていた。
次、オズが口を開いた瞬間に頭を抉ってやる。ティーナはそう考えて構えていたのだが──
「じゃあ、最後。お前の血、美味そうやな」
──次のオズの行動を見た瞬間、度肝を抜かれた。オズはゼオンの身体を抱き上げて顔を引き寄せ、血が滴る唇に自分の唇を引き寄せていた。
「……え、ちょ、ええええええええええっ、なんでまって! そうくる!?!?!?!?」
ティーナは思わず絶叫した。嫌でも脳内に「キス」の二文字が浮かぶ。一瞬で脳内が混乱と動揺に満ちてしまったが、ティーナが今すべき行動は変わらなかった。ゼオンの唇を奪おうというのなら、尚更殺すしかない。
「意味わからないけど、お前にやる血も唇もねぇぇぇぇぇぇぇえええええっ!!!!!」
ティーナが鎌を手にオズに飛び掛かろうとしたその時──鎌の刃がオズに届くより先に、乾いた音が館内に響き渡った。
あたりがしんと静まり返った。ティーナはオズに突き立てようとしていた鎌を止め、目の前の光景を呆然と見つめていた。唇同士が重なる寸前という状況で、オズの頬めがけて拳が付き出されていた。オズは左手でそれを受け止めながら、満足げに微笑んだ。
「はは、お前もそんな顔できるんやな……キラ」
オズが顔を上げてもキラは拳を止めようとはせず、低い声で言った。
「その手を離して」
キラの心の底からの「怒り」を初めて見た。「キラは優しすぎるから」──そんな生ぬるい解釈をしていたことが恥ずかしくなった。キラは鬼のような顔でオズを睨みつけていた。
オズは挑発的に問いかける。
「今の、嫌やった?」
「……聞こえなかったの? いいから離して」
「離さへんかったら?」
「脳天直下」
オズの頭上でくるくると黄金色の宝石の杖が回っていた。キラはオズの肩を踏み台にして空中に飛び上がって空中の杖を掴み、杖の先をオズの頭部へと向け、天井を蹴ってオズを頭から串刺しにしようとした。オズは期待どおりのものが見れた喜びで上機嫌になっていた。指を一回パチンと鳴らすと、風が渦巻き、落下するキラの軌道が逸れた。狙いが逸れたため、キラは一度体勢を立て直して引き下がる──かと思いきや、再び杖でオズに殴りかかった。
「キラちゃん、ゼオン君のことすごく心配してるみたいじゃないっすか?」──イヴァンが言ったとおりだ。キラは必死にオズに食ってかかった。これまで一度たりとも見せることがなかった『憎悪』に近いほどの怒りを、ゼオンの為に使っていた。
「脳天なんて、ちょいと難しい言葉もちゃあんと覚えたんやなあ。えらいえらい。お前がここまで必死になるとはなあ。『みんなだいすき。一人になんて決められない』はずやったキラちゃんがなあ」
「……………………喋る暇があるなら、早く離して」
「なんでそないなことせなあかんねん」
キラはオズの胸倉を掴んで叫んだ。
「そんなの、ゼオンが『やめろ』って言ってたからだよ!」
ティーナは鎌を手放した状態で、キラの叫びを噛みしめていた。キラは自分の欲ではなく、ゼオンの望みの為に怒っていた。そのことが、ティーナは少しだけ嬉しかった。
オズはキラを鼻で嗤うと、ゼオンから手を離した。
「ほな、今日はこのへんにしとか。珍しいもん見れたし、色んなことわかったしな」
更にゼオンの拘束も解く。ゼオンの身体の赤い刻印は消え去った──が、黒い蜘蛛の巣のような魔紋は全身に残ったままだ。そちらはオズが創り出したものではないのでこの場で消えないのは仕方がない。キラは攻撃の手を止めてゼオンに駆け寄り、ゼオンはゆっくりと身体を起こした。
「ゼオン、ゼオン、大丈夫?」
「大丈夫、動けなかったけど痛みはなかったから。怪我も口の中をちょっと切ったくらいだ。また迷惑かけたな……情けない」
このところ頻繁に周りに気を遣わせてしまっていたからだろうか。ゼオンはしゅんと俯いていた。一方でキラの視線はゼオンの身体を蝕む魔紋に釘付けになっていた。キラが青白い顔で左手にまで広がった黒い紋を見つめている一方で、ゼオンはまるでその紋が「見えてすらいない」かのようにきょとんとした顔でキラを見つめていた。
「そういや、これ、いらへんの?」
オズがキラの目の前にゼオンの黒いチョーカーをぶら下げた。キラは慌ててチョーカーを奪い取ってゼオンに手渡した。ゼオンがチョーカーを付けると、黒い魔紋は見えなくなり、蒼く染まった瞳も元の色に戻った。
「本当は、色々と根掘り葉掘り訊きたいとこやけど……まあええわ」
オズはキラの背中を見つめながらにやりと笑っていた。
「キラ、一つ忠告しといたる。ここで止めてくれるのは、俺くらいやからな」
キラは俯くことも言い返すこともしなかった。
ティーナのいる場所からはキラの表情は見えなかったが、キラの目の前にいるゼオンは心配そうにキラの顔を覗き込んでいた。
今日この時まで気づかなかった。キラは明るくて、優しくて、みんながキラを愛する分だけ、キラもみんなを愛してくれる。そんな輝かしい人──そう思い込んでいたけれど、ティーナはキラのことを何も理解していなかったのかもしれない。
勝手に相手を神格化し、影の部分に目を向けずに『崇拝』していたのは、ティーナの側だったのかもしれない。
事態が収束した後、ティーナはゼオンとキラを先に帰して図書館に残っていた。無論、先程の出来事について文句を言う為だ。
「だっかっら!! どう考えてもやり方がおかしいでしょお!? ゼオンとキラになんてことしてくれんの!!!」
「ははは、あいつら結構ええ反応するから、つい」
オズはキラとゼオンを存分にからかえたので大変機嫌が良いようだった。だが、ティーナの怒りは全く収まらない。
「キラがゼオンのことどう思ってたか見たかったんだろうけど! もう少しやり方ってものがあるでしょぉ!?」
「なんや、たかがキス未遂程度で」
「それだよバカヤロー! ゼオンになんてことしようとしてくれてんだよ! ってかあんた、男もいけたのかよ! 両刀!?」
「女か男かなんて些細な差やろ。美味いか、使えるか、おもろいか、どれか当てはまればあとはなんでもええやん」
ティーナは頭を掻き毟って絶叫した。なんて悍ましい恋愛観だ。以前から破滅的な思考回路をしているとは思っていたが、恋愛観まで常軌を逸していたとは思わなかった。
「とにかく、二度とあんな真似しないでよね! キスとかキスとかキスとかそれ以上とか!」
「ギャーギャー騒がんでも、ほどほどに手加減したるて。あ、でもぼんやりしてたら、血は貰ってまうかもな。ゼオンの血、美味そうやし。特にリディの血を飲んだあとから」
「キィィィィィッ、笑えないこと言うんじゃない!!!」
すると、図書館にまだ残っていたイヴァンがティーナに言った。
「落ち着いてくだせえ、ティーナちゃん。たかがキス未遂じゃないすか」
「あんたもか! というか、あたしはあんたにも文句を言いたい! ぜーんぜん手伝ってくれなかったじゃないか!」
ティーナは唸り声をあげながらイヴァンを睨みつけた。
「あー、それは申し訳なかったっす。いや、ティーナちゃんやキラちゃんが動かなかったら俺が止めてたっすけどね? さすがにディオンの旦那の弟さんが酷い目に遭うのを放ってはおけやせんし」
「じゃああんたはその間、なにしてたんだよ!」
「何もしないで傍観してやした。いやー、申し訳ないっす! こっちも紅の死神がどんなことするお方か見極めたかったもんで」
イヴァンはそう言いながらオズを険しい目つきでじっと睨んでいた。
「まあ、キス寸前で止めただけ温情じゃないっすか。案外『猫のじゃれ合い』みたいなことしてるのはオズさんのほうとか」
「どこがじゃれ合いで済むんだよバッカヤロウ! キスもそうだけど、魔紋のこととか!」
「あれはオズさんが付けたものじゃないじゃないっすか」
イヴァンは今にもオズにとびかかりそうなティーナを両手で抑えていたが、ティーナが引き下がったあとにこう付け加えた。
「でも、まあ、やっぱり俺の陛下に会わせられるような方じゃあねえっすけど」
「そら賢明やわ。お前んとこの王様に伝えとき。『お節介は現場の状況把握してからにしろ』ってな」
オズはイヴァンにひらひらと手を振ってから、最後に二人に林檎を一個ずつ乱暴に投げ渡した。
「あとこれ、土産。なんや、今年は甘くて美味いらしいで」
ティーナは両手に収まった林檎を見つめながら溜息をつく。力強く投げたせいか、せっかくの美味しい林檎に指の跡がついてしまっていた。
「ずっと言おうと思ってたんだけどさあ。林檎は大事に扱わないと、早く腐って駄目になっちゃうよ」
オズは聞く耳持たずといった様子で、林檎を机に積み上げては崩し、積み上げては崩しを繰り返していた。
図書館を出ると、イヴァンは薄情に感じるほどあっさりと別れを告げた後に立ち去ってしまった。元々休憩終了間際に無理を言って付き合わせていたので仕方がないが、あの出来事を見た後に爽やかな笑顔で立ち去れる図太さには感心する。
ティーナが中央広場まで戻ると、ゼオンを介抱するキラの姿が見えた。隣にリーゼもいるようだ。
「やあ、リーゼ。今日はよく会うね」
「あ、ティーナさん。よかった。ねえ、一体何があったの?」
リーゼは困惑しながらティーナに尋ねた。リーゼの目の前では、キラがゼオンの手や腕、首筋を見ながら何度もなにか問いかけていた。
「ちょっと図書館で一波乱あったんだよ。オズがゼオンをとっ捕まえた挙げ句、キスしかけた……キラが全力で止めてくれたおかげで未遂に終わったけど。あいつが何考えてるのか全くわからない、意味わからない……」
「……え? え、え、えええええええええええっ!?!?」
リーゼは聞いたこともない甲高い声をあげて慌てふためいた。火照った頬を両手で抑えては、なにかうわごとのようにブツブツと呟いていた。
「ゼオン君に? オズさんが? キラが止めた? え? え、え、え……?」
最初は単純に驚いているだけかと思っていたが、リーゼは段々険しい表情になり、じっとゼオンの方を見ていた。その様子を見て、ティーナはピンと閃いた。もしかして、今の話の中にリーゼの好きな人がいたのだろうか? これは「女の勘」というやつだ。相手が誰か気になるが、ひとまず触れずにおくことにした。……相手が誰だったとしても地獄が広がる可能性しか見えないからだ。
「まあまあ、未遂に終わったから大丈夫だよ」
それから、ティーナはキラとゼオンの間に入っていく。今はこちらのほうが心配だった。キラは今にも泣きそうな顔でゼオンの手を握り、ゼオンは青白い顔をして俯いていた。
「二人共、大丈夫?」
「ティーナぁ、どうしよう。ゼオンの首のあの黒いやつ……あれ、ぜったいよくないやつだとおもう……どうしたらいいんだろう」
「うん、ゼオンのことはもちろん心配だけどさ、キラも一回落ち着きな。らしくないよ。普段ならキラがあたしを止める側じゃん。今日はキラの方が焦ってるように見える」
キラは一瞬震えあがった後、おろおろと視線を泳がせた後、ゆっくりと頷いた。
「うん、そうだね……ちょっと、あの時嫌なこと思い出しちゃって……。ティーナの言う通りだ。ちょっと落ち着かなきゃ。」
キラはそう言うと、林檎が入った木箱の隣に座り込んで深呼吸をした。少し気分が落ち着いてくると、ティーナの目を見て少し微笑んだ。どうやら、キラはもう心配ないようだった。
次にティーナは一度咳払いをした後、できる限りの黄色い声を創り上げてゼオンに話しかける。
「きゃわぁん、ゼッオーン! さっきは大丈夫だったぁ? 」
「大丈夫……、痛みは無いし、怪我も口の中を少し切っただけだ……」
「それにしては顔色が悪いみたいだけど? キラも言ってたけど、あたしも心配だよぅ。あたしの愛するゼオンにこんな表情させるなんて! もうっ!!」
ティーナは「ぷんぷんっ!」と怒るふりをしながら、ゼオンの様子を注意深く観察していた。確かにゼオン本人が言うとおり外傷は無いが、青白い顔で口元を抑えたままじっと動かない。
「本当に、なんでもないんだ。ただ……昔のことを思い出して、少し気分が悪くなっただけだ」
「昔のこと……?」
「そう、過ぎたことだよ。もう何も気にする必要無いようなことだし、少し休めば落ち着くと思う。今日はこのまま寮に戻るよ。それでいいだろ?」
「まあ、それが一番いいとはおもうけどねえ……」
今日のところは最善の対応であるはずなのだが、どうも釈然としなかった。ゼオンの身体を蝕む魔紋のことが頭に浮かぶ。これほど近くにいるのに、ゼオンは独りで擦り切れて苦しんでいくばかりで、「助けて」と声をあげることすらしてくれない。ゼオンには幸せになってほしいと願っているのに、現実はティーナの願いとは真逆の方向へと動いていることが悔しくて仕方が無かった。
「じゃあ、俺はそろそろ戻る。お前ら二人共、その……いろいろありがとう」
雪がしんしんと降り注ぐ道の真ん中を、ゼオンが手を振って歩いていく。ティーナはどうにか笑顔を創って手を振り返したが、その笑顔に中身は無かった。
その時、キラが去り行くゼオンを引き留めて、左手を強く握った。
「ゼオン!明日、一緒におっきいかまくら創ろう!!」
「…………え? なんだよ、突然。脈絡無さ過ぎだろ」
ゼオンは間の抜けた声をあげた。キラは食い入るようにゼオンの瞳を見つめながら必死で語りかけた。
「ちょうど、雪いっぱい積もったから、あたしと、あんたと、ティーナと、ルルカ、四人で入れるおっきいやつ創ろう!」
キラはぐいぐいとゼオンに顔を近づけて返事を待っていた。ゼオンは突然の出来事にぐっと黙り込み、少し頬を赤らめながら目をそらす。これまで何度も見た甘酸っぱいやりとりだったが、今日のキラの言葉には普段以上の力が籠っていた。きっと、キラなりにゼオンを元気づけたいのだろう。
「あのねあのね、おっきいかまくら創ってね、中に小さい机とストーブ入れるの! それでね、毛布に包まりながら、あったかいお茶とお菓子食べるの! あ、そうだ、今日貰った林檎、焼き林檎にして持ってくね! あとね、ゼオンの好きなチョコレートのタルトも持ってく! あとね……」
「そう言われても、俺はもう味がわからないし……それに……」
「それでもやりたいの! 味がわからなくても!たとえ 他の感覚もどんどん無くなっていったとしても! もっと楽しいこといっぱいしよう!」
そう言った時のキラの瞳は、星屑を散りばめたかのように輝いていた。ゼオンは言葉を失い、頬を薄紅色に染めたまま、その場から動けなくなる。ゼオンが何も言わずに去ろうとしても、キラはしっかりとゼオンの手を掴んだまま離さなかった。
「だから、なんで突然……そんなことして、何になるっていうんだ」
白銀の世界の真ん中でキラは微笑む。その笑顔は、真冬の凍てつく風さえ春風に変えてしまいそうなほどに暖かかった。
「何って、あたしが楽しくなる! そしてあんたにも、楽しんでほしいの!」
ゼオンは頬が火照った状態のまま、困ったように視線を泳がせ、最終的にいつもどおりこう呟いた。
「……しかたないな」
そう言うと、キラは更に眩しい笑顔を浮かべ、頷きながらぴょんぴょん飛び跳ねた。その様子を少し離れた場所で見つめていたティーナは「見せつけてくれるなあ」と心の中で呟く。しかし、不快には感じなかった。冬空のように冷たかったゼオンの表情が少しだけ柔らかくなった。そんな変化を与えてくれたキラに感謝せずにはいられなかった。
「じゃーねー、また明日ねー!」
キラはゼオンの姿が見えなくなるまで、無邪気に手を振り続けていた。身体は創造の女神の血に蝕まれ、精神は様々な悪意と惨劇によって擦り切れていく──そんな状況で、キラの笑顔と優しさはゼオンにどれほど希望を与えたのだろう。
ティーナはキラの小さな背中を見つめながら、「そりゃあ、かてないよなあ」と考えていた。すると、キラがこちらを振り返った。
「ねえねえ、ティーナも一緒にかまくら創ろう! おっきいやつ!」
「うー……ん、別にいいんだけど、ゼオンと二人で……とかは考えたりしないの?」
「二人で?」
キラは首を傾げて数秒考えたが、こう答えた。
「二人でも、だめじゃないんだけど……なんとなく、今はなるべくみんな一緒にゼオンの近くにいたほうがいい気がして。ゼオンってなんだか、気を抜いたらどっかに消えちゃいそうでこわいから。あたし一人じゃだめでも、みんなと一緒なら、いざって時でも助けられるかなって思って……だから、今はみんな一緒に居たい」
「キラ……、なんか最近、ゼオンのことやけに心配してるよね。たしかに今のゼオンの身体のことは気になるけれど……」
キラは自分の服の袖をギュッと握って黙りこんだ。不味いこと言ったかな──と思った時、キラは再び顔を上げた。
「ねえ、ティーナ。このあと、ちょっと話を聞いてくれないかな。ティーナにだったら話せる気がする……」
「えっ。別にいいけど、何かあったの?」
キラがこのように相談を持ちかけてきたのは初めてのことだった。
「あたしね、夢で……ゼオンの過去を見ちゃったかもしれないんだ」