赤い林檎(1)
ティーナ・ロレックにとって、「愛」とは今の自分の土台となる設定の一部である。ティーナはゼオンを愛している。愛する人の幸せを願い、愛する人に仇なす者は自分の全てを尽くして排除する。「恋愛」として愛している人に対してだけではなく、「親愛」の情を向けている人へも同様に接する。最愛の人と仲間達、彼等の幸せの為に奔走する姿こそ、ティーナにとっての「なりたい自分」だ。
ティーナは日々演じている理想の自分と、心の奥底に眠る現実の自分とのギャップの差を受け止め、それでも演じ続けていればいつか現実の自分が理想に追いつく日が来るのではないかと密かに期待していた。
そんなティーナは、密かにルルカに片思いをしている青年イヴァン・ヴェルナーと話していると少々不快な気分になる。まるで出来の悪いパントマイムを見せられているようだ。互いに互いの腹の底が透けて見えるため、イヴァンが「軽薄な女好き」の役柄を演じながら話しかけてくるたびに、ティーナは顔をしかめるのだった。
「それでティーナちゃん、俺とお茶する話、考えてくれたっすか?」
それは、風が強い真冬の日のことだった。キラやゼオンたちと別れて一人で宿へと戻ろうとした時に、ティーナはちょうど村に滞在中のイヴァンと出会った。表情、声色、親しみを込めた言葉。そのどれもが鼻について、ティーナは苦笑いした。
「前に言ったでしょ。あたしが愛する超パーフェクトブリリアントキューティープリンスのゼオンより魅力的になってから出直してきて」
「あはは、そうだったっすね。ティーナちゃんは本当にゼオン君が大好きなんっすねえ」
イヴァンは惚けながらさり気なくティーナと並んで歩き始めた。──本物にくらべて、紛い物とはこうも粗末に見えるものなのだろうか。ティーナは溜息をついた。かつて自分がプリメイを真似て「ティーナ・ロレック」という人物像を作り上げたように、イヴァンもまた誰かを真似ながら自分を創り上げたのだろう。オリジナルの正体は言うまでもない。イヴァンの主であり、ルルカの片想いの相手──魔術師を束ねる大国ウィゼートの国王、サバト・F・エスペレンだ。イヴァンの言葉の端々からサバトへの畏敬と、彼のようになりたいという渇望が伝わってくる。だが一方で「軽率な女好き」というサバトとはおよそ真逆のキャラクターを選んで演じていることに疑問を感じた。
ティーナの場合、自分がゼオンと結ばれるなどと思ってはいない。しかし、イヴァンのように自分の愛情を誤魔化すことはしない。
「わかんないなあ。あんたの本命はルルカでしょ。愛してもいない人とデートして楽しいの?」
「わかってないのはティーナちゃんの方っす。それとこれとは別腹なんっすよ。ティーナちゃんたちはちょっと純情すぎるんっす」
「うっわ、最低。やっぱりゼオンの方が百億倍かっこいいや」
ティーナは僅かでもイヴァンに同情したことを後悔した。だが、その直後にイヴァンはこう付け加える。
「というのが一つ目の理由で……二つ目の理由は、ティーナちゃんももうわかってるんじゃないっすか?」
「……へえ」
ティーナは苦笑いした。どうやら、相手も自分と同じことを考えていたらしい。
「似た者同士の空気を感じたんで、ちょいと興味が沸いたんっすよ。ティーナちゃんにも、あとキラちゃん達みんなの人間関係にも」
そう言うとイヴァンは手を広げてくるりと回り、真冬の雪原を右足で蹴とばした。
ティーナが冷ややかな目でそれを見つめていると、イヴァンは突然ティーナの手を引いて駆けだした。
「ちょいと、この後俺は一時間くらい休憩なんでね。一緒に村内一周、みんなの恋愛体験インタビューに行くっすよ!」
「はぁ? やだ。なんでそんなことしなきゃいけないわけ? あんた一人でやってよね」
「お気に召さないっすか? 残念。まだまだ俺はゼオン君を越えられそうにないっすねえ」
本気でゼオンを越えてアプローチをする気など無い癖に、よくそのようなことを言えるものだ。ティーナはジトッとした目つきでイヴァンを睨んだ。確かにイヴァンの性格はティーナと似ていたが、もう一人似ている人物を見つけた。本心を笑顔で誤魔化すところはオズと似ている。イヴァンとオズの違いは、根が善人か悪人かという点だろう。自分の大嫌いな人物との共通点を見つけてしまい、ティーナはますます不快な気分になった。
「では、少し言い方を変えてみるっすかね。ティーナちゃん、俺が陛下とウィゼート国に仕えるワンちゃんってことを忘れてはいないっすよね? 陛下の国土で不穏な企みがあるようなら無視はできないっす。紅の死神やキラちゃんたちの周りでどうにも良からぬ輩が暗躍してるっぽいっすからねえ?」
ティーナは唇を噛んで黙り込んだ。その「良からぬ輩」とはメディとその配下たちのことだろう。確かに彼等は反乱軍にも関わっていたのだから、イヴァン達にとっても脅威となりうる。
「俺は陛下を脅かす者は赦さないっす。ねえティーナちゃんたち、何を知っているんっすかねえ?」
イヴァンは低く囁くようにそう問いかけた。メディたちの存在はティーナたちにとっても脅威だ。国側と情報を共有しておいて損は無いだろう。だが、どこから話し、どこまでを伝え、どの情報はまだ伏せておくべきか。今この場でティーナにそれを判断することは難しかった。なんせ相手は国という大きな共同体の中枢だ。軽々しく事を話せば思わぬ誤解を招く可能性もああるし、そもそも信用してもらえない可能性もある。「神」は、この世界ではそれほど現実からかけ離れた存在なのだ。
ティーナはよく考えた末にこう答えた。
「あんたらが知らないことを知っていることは否定しない。けど、今この場でそれを話すことはできない。ゼオン達ともよく相談してから伝えたいからね。多分あんたたちと情報を共有しておいて損になるとは思えない。いずれ伝えることになると思うから、もうちょっと待っててよ」
「なるほど、りょーかいっす。っていうわけで、」
イヴァンはまるでここまでの返答を想定していたかのように、再び同じ方向へと歩きだした。
「ティーナちゃんたちが動くなり話すなりするまで、俺は何にもできない暇人っす。なら、その間になんとなくの人間関係くらい把握しておこうかなーって、つまりそういうわけっすよ。ね、ティーナちゃん。ちょいと協力してくれないっすか?」
ティーナは深い溜息をついた。ここまでのイヴァンの言葉の中で、一番重たくのしかかってきた言葉は「陛下を脅かす者は赦さない」だった。これがイヴァンの根底にあるものだろう。仕事熱心で何よりだ。だからこそティーナはイヴァンを哀れだと感じた。
「やっぱあんた、苦労するねえ。狡い善人だ」
「はは、お互い様っすよ」
その言葉がたまらなく嫌だった。凍えるような北風を浴びながら、ティーナはイヴァンの背中に問いかけた。
「苦労性のあんたに一つ聞いてみたくなったんだけどさ。あんたはさ、自分が好きな人が好きな人のこと考えている時の様子ってさ、好き?」
振り返ったイヴァンは、この世の素晴らしい者を全て見てきたかのように、微笑んでいた。
「大好きっす。すごく、可愛いと思うっすよ」
そして、ティーナは三度目の溜息をついた。「あたしも」と答える代わりに、ティーナはイヴァンの後に続いて歩きだした。
「そっか。ちょっと気が変わった。別にこの後やることも無いしね。哀れなあんたが何やらかすのかちょっと見てみたくなったから、ついていってあげる」
「それはそれは、恐縮っす。お礼に後で何か甘い物奢ってあげるっすよ」
「いらない。あたし、辛党だから」
北風はティーナとイヴァンを平等に凍えさせようとしていた。二人は寒さなど感じてもいないかのように微笑みを貼り付けながら、互いの傷を抉り合うような話ばかり続けていた。