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ある休日の記憶(後編)

帰りの馬車の中で、ゼオンはディオンに買ってもらった本を夢中になって読んだ。屋敷に着くまでに一頁でも多く読み、記憶に遺しておこうと必死だった。もはやディオン達への照れ隠しも忘れて没頭していたため、シャロンが声をかけるのを躊躇うほどだった。


「なんか悔しいわね。私もゼオンがこんなに夢中になれる物をあげたいわ」


「まあまあ、次出かけた時に買えばいいだろ」


ディオンとシャロンがそう話していた時、馬車が止まり、クロード家の屋敷が見えた。黒い門を見て、ゼオンは溜息をつく。やはり、日は沈んでしまった。現実が戻ってくる。ゼオンは本を懐に隠して馬車を降りた。


「兄貴、姉貴……今日は、こう……ありがとう。じゃあな」


ゼオンは二人にそれだけ告げて、屋敷に駆け込んだ。背中でシャロンが止める声がしたが、かまわず自室へと急いだ。本当ならば、ゼオンもきちんと礼をしてから別れたかった。だが、時間が無い。一刻も早くこの本を隠さなければならない。父に、母に、見つかる前に──階段を駆け上がり、屋根裏の自室へと駆け込むと、ゼオンは懐から本を取り出して棚の奥へとしまいこんだ。なんとか間に合った……そう思った時、突然背後に強い魔力を感じ、全身に鳥肌が立った。


「おかえりなさい、ゼオン」


ねっとりと纏わりつくような声がする。背後から手が伸び、十本の指が首筋を這う。


「どこへ行っていたの?」


媒体も無ければ詠唱もしていないはずなのに、ゼオンの身体から力が抜け、床に倒れ込み、黒いリボンが両腕を頭の上で縛ってベッドの脚に括り付けた。ゼオンは唇を噛んだまま、母の顔を睨みつけた。母……ゼルナーシャはゼオンを見下ろしながら、妙に優しい声で囁いた。


「またあの二人と一緒にいたのね。残念だわ、またお仕置きが必要なのね」


そう言うと、ゼルナはゼオンの黒いチョーカーを外す。首筋から胸元、腹から脇腹まで、無数の傷が浮かび上がる。ゼルナはその傷を一つ一つ指でなぞり、ゼオンの耳元で囁く。


「安心して。今日は痛くないように優しくしてさしあげるわ。旦那様とあたくしの血が混じって生まれた肢体を傷つけたくないもの」


恐怖が身体を支配する。ゼルナはその感情につけこみ、魔法で身も心も縛り付けていく。ゼオンの頭の中を今日一日の出来事が駆け抜けていった。休みの日は、楽しいことをめいっぱいしてリフレッシュするもの。なぜそのようなことをするのか? 今、ゼオンはその答えを理解できた気がした。きっと、現実と戦い続けるためなのだろう。歯を食いしばり、ゼオンはゼルナを睨み続ける。たとえ今は弱くて立ち向かうことなどできなくても、いつか大人になれば物語のヒーローのように強くなれるかもしれない。その微かな希望だけは捨ててはならないと感じた。


「今日のお仕置きは忘却の魔法。いいわね、ゼオン」


ゼオンの背筋が凍り付く。それはつまり、今日の幸福な記憶が全て消されるということだった。


「…………やめろ」


「そう、じゃあ……いいのね?」


ゼルナは杖を棚に向けて一振りした。すると、ディオンに買ってもらった「ルヴァンシェの冒険」が棚から飛び出し、一頁も残らず切り裂かれた。ゼオンは声も出なかった。自身の身体を切り裂かれたような気分だったが、歯を食いしばって耐えた。


「次切り裂かれるのはモノじゃないわ。人を護りたい時はどうするのか……ゼオンはいい子だからわかってるわよね?」


「…………俺、が……全て、引き受けます……」


そう誓った瞬間、ゼルナの杖の先が妖しく煌めき、ゼオンの胸に柘榴色の魔法陣が浮かんだ。視界が揺らぎ、自我が薄れゆく中、ゼオンは今日の出来事を何度も何度も思い出し、なぞって、一秒でも長く忘れずにいようと努めた。同時に、ゼルナが魔法陣の中に手を入れる。心臓が引きずり出されるような不快感が身体じゅうを走る。


「……っ、う………う、あああ……」


心を掻き回されて、捕らえられて、引きずり出されて──やがて、いくつかの記憶がランプの灯りのように朧気に暗闇の中に浮かび上がった。三人で食べた昼ご飯、シャロンが買ったドレス、ディオンが買ってくれた本、青空の下で食べたクレープ────それぞれの記憶を見つめて、ゼオンは今一度歯を食いしばる。


「ふふ、これで今日は『何も無かった』。さあ、もうおやすみなさい……ゼオン」


厨に浮かんだ記憶たちは焼け焦げ、溶けて消えていく。それでも、ゼオンは意識を手放す最後の瞬間までゼルナを敵として睨み続けた。たとえ記憶が消えてしまっても、この一日の幸福から得た気力は消えはしないと。そして、ゼオンが今日の出来事を忘れてしまっても、シャロンとディオンは今日の出来事を忘れないだろうと信じて。


「いつか……いつか、必ず」


必ず、大人になって、強くなってみせる。母の傀儡ではなく、物語のヒーローのように、護られる側ではなく護る側に立てるようになる。そう胸に刻んだ時、母がゼオンの喉元に噛み付いた。じゅるじゅると気持ち悪い音と共に意識が遠のき、ゼオンはそっと瞼を下ろした。



◇ ◇ ◇



それから時は過ぎ、両親と共にハイドランジアの街が焼け、ゼオンは人殺しとして国から追われ────そして、ロアルの村に辿り着き、キラと出会うことになる。ディオンとの和解とクローディアと名を変えた姉との再会を経て、ゼオンはキラと共に様々な困難に立ち向かっていくことになる。そして17歳になった頃、ゼオンは再び姉と兄と共に食事をすることになった。

スカーレスタ条約についての会談の為に、二人が再びロアルの村を訪れた時のことだ。シャロン──いや、クローディアは大型魔法具で設置した屋敷にゼオンとディオンを招待した。その日のランチのメニューはハンバーグとサラダとスープだ。デザートは薄切りにしたオレンジをあしらったチョコレートムースだった。

ゼオンの隣にクローディアが座り、向かい側にディオンが座っている。食事の最中、クローディアは急にこのような話を始めた。


「そういえば昔、三人でアズュールまで出かけたことがあったわよね」


ゼオンはその話を聞いて首を傾げた。クローディアの隣でディオンが「そんなこともあったな」と言い、昔話に花を咲かせていたが、ゼオンは全く思い出せなかった。


「あの日は楽しかったわよね。私、屋台のクレープを食べたのはあれが初めてだったわ」


「ああ、そういえばそんなこともあったな。あの日はいつにもまして姉さんが好き放題していたから大変だったよ」


「まあ失礼ね。そんなこと言いつつ、ディオンも結構楽しそうにしてたじゃない」


「まあ、否定はしないさ。結局、あの頃三人で遊びに行けたのなんてあの日くらいだったしな」


クローディアとディオンは「三人でランチを食べた」「シャロンの服を買った」「公園でクレープを食べた」と楽しそうに話していたが、ゼオンにとっては信じがたい内容だった。ゼオンの暗い幼少期の中でも、あの時期は母からの暴行が特に激しかった。姉や兄と顔を合わせただけでも「お仕置き」と称してろくでもないことをされていたのに、三人でアズュールまで外出することにゼオン自身が賛同するとは思えなかった。


「ねえ、ゼオンは覚えている?」


クローディアは目を輝かせながらそう言ったが、ゼオンは視線を泳がせながら黙り込むことしかできなかった。クローディアは急に静かになり、肩を竦めながら「そう……」と呟いた。すると、ディオンがクローディアに声をかけた。


「まあまあ、姉さん。十年も前のことなんだから、忘れていても仕方ないだろ」


「いや、多分……」


自身の記憶が消えた理由については心当たりがあった。


「あの母親が記憶を消したんだと思う……。姉貴達が話しているその『休日』が俺にとって幸福なものだったとしたら、あいつは真っ先にそういう記憶を消したがると思う」


ゼオンがそう言った時、クローディアは眉間に皺を寄せ、唇を噛み、声を殺しながら震えていた。おそらく、これは怒りだ。あの頃も、そして今も、こうして姉が自分の為に怒ってくれたからこそ、ゼオンは辛うじて自我を失わずにいられたのだろう。なかなか直接口に出すことはできないが、姉には感謝せずにはいられなかった。


「……最低だな」


その言葉を聞いた時、ゼオンは「珍しいこともあるものだ」と思った。ディオンはクローディア以上に怒りを露わにしていた。


「落ち着けよ。クソ兄貴らしくもない。もう終わった話だ。あの母親だってもういない」


「あの人がいなくなったからといって、お前の記憶が戻ってくるわけじゃないだろう」


「……その気持ちだけで十分だ。この話、もう終わりにしよう」


「お前はもっとこう……自分の為に怒るべきだ。それに……」


その時、クローディアがパチンと手を叩いて提案した。


「そうだわ、記憶が消えてしまったのなら、また創ればいいのよ!」


「創る……どういうことだ?」


「簡単なことよ。また一緒にご飯食べに行きましょってこと。今度はどこにしましょうか。アズュールもいいけれど、もっと地方に行ってもいいかもね。あ、またヴィオレに来る? 結構海産物とか美味しいのよ」


クローディアはそう言って二人の意見も聞かずに行先の候補を挙げ始めた。ゼオンとディオンは困惑し、黙り込む。そして、ディオンがクローディアに言った。


「たしかにまたランチを食べにいくことはできるが……今も今で、ゼオンが勝手にロアルの村を抜けだしたらまた王都との関係でややこしいことになるし……姉さんだって、勝手にウィゼートに戻ってきたりしてるけど、そのたびに伯父伯母がうるさいんだからな。今回のロアル村への同行はちゃんと手続きは踏んできたから大丈夫だが……」


「ふうん。じゃあ伯父伯母を説得しましょ。多少時間がかかってもいいし、私もできることはするわ。それが難しいのなら、逆にシェフを呼んでくればいいのよ。その方が手間がかからなくていいかもね」


シェフを呼ぶという言葉が自然に出てくるものだから、ゼオンは少し眩暈がした。同じ家庭で育ったはずなのに、ゼオンとクローディア達では金銭感覚が違い過ぎた。ディオンは「それはたしかに可能だが……」と呟いた後、暫く黙り込み、改めてクローディアに尋ねた。


「姉さん……つまり、何が言いたいんだ?」


クローディアはデザートのチョコレートムースを口に運びながら、ゼオンにウィンクした。


「たしかにディオンの言うとおり、過去の記憶は戻ってこないわ。けどね、良い未来を創っていくことはできるでしょう。やっとこうして、誰に咎められることもなく3人で食事ができる時が来たのよ。幸せな思い出をいっぱい創っていきましょう。そして今度こそは、誰にも奪わせないんだから」


そう言って、クローディアはゼオンに笑いかけた。ディオンも「……そうだな」と納得して頷く。ゼオンは返答に困ってしまい、デザート用のスプーンを咥えたまま黙り込むことしかできなかった。柑橘系の甘酸っぱい香りがふわりと広がる。自分の未来を応援してくれる人がいる。その嬉しさをどう表現すればよいかわからないまま、ゼオンは黙って頷いた。

すると、ディオンがゼオンの様子を見つめながらこう呟いた。


「しかし、残念だな。あの人に記憶が消されたということは、あの時買った『ルヴァンシュの冒険』のこともゼオンは覚えていないのか」


ゼオンはデザートを食べる手を止めて顔を上げた。


「あの日に何か買ってもらったことは覚えてないけど……そのシリーズは、俺は最後まで読んだな」


「え、そうなのか? どこで読んだんだ?」


「学校の図書館だ。新刊はなかなか入ってこないけど、このシリーズは人気だったのか早めに入ったんだ」


その言葉を聞いたディオンはほっと胸を撫でおろした。クローディアは薄く微笑みながら呟いた。


「そう、じゃあ、ゼオンは一度失った記憶を、再び得ることができたのね」


あの休日の記憶は消えてしまったけれど、大切な思い出の一部は後日違う形で再び得ることができた。だから大丈夫。失われた過去は戻ってこないけれど、新たな未来を創っていくことはできる。私たちが支えてみせる。そう言われているように感じた。

幼い頃の自分はこのような未来を想像できただろうか? あの頃から儚い光を夢見てはいたけれど、希望があると信じきれてはいなかっただろう。


「ゼオン、何か俺達にできることがあればいつでも言ってくれよ。俺達じゃなくて、キラさんたちにでもいい。あの頃と違って、お前の力になれる人がたくさんいることを忘れないでくれ」


ディオンがそう言った時、ゼオンは「そういうことなら、これを言わなければならない」と思い、何らかの言葉が喉元まで出かかった。だが声に出そうとした瞬間に、何を言おうとしたのか忘れてしまった。

ゼオンは首筋を掻きながら数秒考えこんだが、最終的に「また思い出した時に言えばいい」と諦めることにした。

今は姉弟3人の時間を楽しむことに集中しよう。クローディアとディオンの笑顔と、三人を包むオレンジの香り。ゼオンは「今度こそ、3人で過ごせる時間が誰にも奪われることなく続きますように」と祈った。


「いつか、ゼオンが思いっきり笑える時が来るといいわね」


クローディアはふとそう呟き、ディオンは深く頷いた。ゼオンは自分に笑顔が無いということの重さをいまいち実感できずにいたが、二人がそう望むのであれば、いつかそうなればよいと思った。



そして、結局ゼオンは「自分の味覚が既に無くなっている」ということを、クローディアとディオンに言いそびれたのだった。

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