世界の仕組み
足音が響き渡る。少女と青年が暗闇の中を歩いていた。二人は地下深くへと続く洞窟の中を慎重に進んでいく。
内部には鍾乳洞が広がっており、天井から垂れ下がる鍾乳石は先端が紅や蒼に染まっていた。
「アディ。言っておくけど、少しでも無理だと感じたらすぐに引き返すからね。ここから先は、私でもあなたを護りきれるかわからないわ」
少女の姿をした神──メディレイシアは険しい表情でそう言った。アディと呼ばれた青年は小さく頷いた。
「いいだろう。君が対処不可だと判断したらすぐに引き返すことにしよう」
メディはこちらの目を見て反応を確かめてから、再び奥へ奥へと進んでいった。前を歩くメディの背を見つめながら、アディは考える。──破壊の神ですら、「畏れ」という感情を抱くことがあるのかと。
「ほんと、なんて無茶を言うのかしら……世界樹のいる場所を見たいだなんて」
メディは眼前の暗闇を見つめながらぽつりと呟いた。二人の目的地は、この星の地下空間──世界樹のある場所だった。
アディは己の手で新たな神を生み出すことを目論見、メディはアディただ一人の為に世界の全てを敵に回して破壊することを決意した。これは、彼女を生み出した世界樹に対する反逆だ。
ただでさえ世界そのものを敵に回している状態で、二人はその世界の心臓部に殴り込もうとしていた。たとえ破壊の神であるメディでも、自らを生み出した世界樹からアディを護り抜くことは容易ではないのだろう。
「ヒトが世界樹のいる空間に行くことは、それほど赦されないことなのか?」
「何の力も無いただのヒトなら、世界樹そのものに危害を加えなければ見逃されるかもね。危害を加えたとしても、普通は私やリディみたいな神か、あるいは地下空間内の端末に対処させるわ。でも……あなただけは違う」
メディはアディのコートの裾を握りしめた。
「あなたは世界樹そのものに目を付けられている。私があなたの側についている以上、あちらとしてはリディがいても万全とはいえないわ。そうなると……世界樹そのものが牙を剥くかもしれない」
「そうか……それは、面白そうだな」
「ちょっと! 呑気なこと言っている場合じゃないのよ?」
メディは唇をギュッと閉じ、真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
その時、暗闇の向こう側から淡い光が見えた。二人が歩みを進めると、巨大な鉱石の塊が現れた。その鉱石は一つの結晶の中に紅と蒼の二色が現れており、ゆらゆらと光を放ちながら洞窟内を照らしていた。
「ここだわ」
メディはそっと鉱石に触れた。
「このくらい流れの強い地脈なら、世界樹がいる星の内側にもアクセスできるはず」
地脈とは、世界樹から世界に「創造」の力を運び、世界から世界樹に「破壊」の力を還すための道だという。世界を一つの生物に例えるなら──地脈とは血管のような物らしい。
どうやら、メディはその地脈の流れを利用して世界樹のいる空間に向かうつもりのようだった。
「殴り込みに行く前に聞いておきたいのだけれど、どうして急に世界樹のいる空間に行きたいだなんて言い出したの?」
「少し興味があった。それだけだ」
「答えになってないわよ。こんな無茶なワガママ、今まで言ったことなかったじゃない」
アディは鉱石が放つ光を見つめながら考えた。
「そうだな……君たちを生み出した『世界樹』は、なぜ滅びを恐れないのか気になった。実物に近づいてみたら何かわかるかと思った。これで回答として適切だろうか?」
「……あなたが途方もない命知らずということしかわからなかったわ」
メディは頭を抱えながら少し俯く。
「全く……そんなこと言うから、世界樹にもリディにも目を付けられるのよ。もっと愚かなヒトらしく、身近なヒトにでも執着して喚いていれば、もっと穏やかに過ごせたのに……」
「そうなのか?」
「そうよ」
メディはそう言うと、顔を上げて眼前の結晶を見据える。
「もういいわ。これ以上時間をかけるわけにもいかないから、さっさと行くわよ」
すると、メディの指先から結晶全体に紅の閃光が走った。結晶から放たれる光は紅一色となり、洞窟全体が激しく揺れ始めた。
──星の内側への道が開かれようとしている。
「さあ、破壊の神の帰還よ。道を開けなさい」
メディがそう命ずると、二人の足元の岩石が崩れ落ち──無限の星空の中へと落下した。アディたちがいた洞窟の景色は瞬く間に遠のき、終わりの無い暗闇へと吸い込まれていく。
チカチカと瞬いては通り過ぎていく星々を見つめていると、メディがアディの腕を掴んだ。
「捕まえた! 離れないでよね、来るわよ!」
その瞬間、無色透明の枝葉が二人を覆い尽くすように星空の底から生えてきた。枝葉には無数の棘が生えており、四方八方からアディを突き刺そうとしている。
だが、メディが手を空に掲げると、黒い炎が渦巻き、全ての枝葉が焼き払われた。メディに支えられながら暗闇の底に視線を向けると、何か光り輝くものが見えた。それは水晶のような鉱石でできており、太い幹と天井全体に伸びる枝葉でできていた。表面は透き通っており、内部は機械のようなパーツが組み合わさって巨大なシステムを構築していた。
「あれが……世界樹……?」
「そうよ。まさかリディより先に牙を剥いてくるとはね。そうなると、この姿じゃダメね」
すると、メディの周囲に強い風が沸き起こり、黒い闇が二人を覆った。メディの声が遠くなり、徐々に低く籠った音となっていき──気がつくと、アディは紅の結晶でできた巨大な手のひらの上にいた。
空を見上げると黒水晶と紅の宝石でできた翼が見える。翼の根元を辿っていくと、黒い鎧の巨人──神としての姿をしたメディが見えた。
「……やっぱり、その姿は良いな」
そう呟いて、アディは宝石の手のひらの上で座り込んだ。すると、アディを覆い隠すように薄い膜が周囲を覆った。
「絶対に外に出たりしないでよね、死ぬわよ!」
アディは小さく頷いた。世界樹は枝葉を煌めかせながら一体と一人の行く手を塞いでいた。黒い巨人が右腕を振りかぶって世界樹の幹を引きちぎろうとすると、世界樹の枝葉一つ一つが蒼い光線を放ち、巨人の腕を食い止める。
アディは一進一退の攻防を特等席で鑑賞していた。薄い膜の向こう側はまるでプラネタリウムのように輝いていた。
「……綺麗だな」
暫くメディと世界樹との戦闘が続いた後、不意に世界樹の枝葉の向こう側が蒼く瞬いた。
「あれは………!」
メディがそう言った瞬間、夜空の彼方から青黒いブラックホールがアディを狙って一直線に迫ってきた。ブラックホールの進行上のあらゆる物は吸い込まれて消えて行く。メディの攻撃も、世界樹の枝葉も、そして──アディを護る紅の護りも。
「アディ!!!」
今にも泣き出しそうな声が聞こえた。紅の護りが破れる瞬間、アディは魔法で蒼の水晶の盾を築いたが、全て無意味だった。自ら築いた護りは一瞬で崩れ去り、アディはブラックホールに呑み込まれていった。
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再び目覚めた時、天井には雲一つない青空が広がっていた。身体に怪我は無く、意識もはっきりしている。アディはゆっくりと身体を起こしてみた。
自分は硝子のような透き通った上にいる。硝子の向こう側、地下深くまで、空が海のように広がっていた。
頭の上から足の先の遥か向こう側、全てが青空で構成された世界だった。
「ここは……どこだ……」
地上とは思えない。先程メディと共にいた場所でもない。おそらく、メディの言う「星の内側」のどこかである可能性が高いだろうが、根拠は何も無い──アディが考え込んでいると、正面に一人の少女が降り立った。
メディとよく似た薄桃の髪、空を漉き込んだような水晶の翼、海のような蒼の瞳──創造神・リオディシアだった。
「……なぜ、あの場で殺さなかった?」
リオディシア──リディの姿を見た瞬間、アディはすぐにそう問いかけた。己の記憶が正しければ、リディは殺害対象に会話の猶予を与えるような人物ではない。
メディの防御を突破してアディを狙い撃つような手段があるのであれば、このような回りくどい手を取るようなことはせず、あの場でアディを殺す手を取る。それがリディという神だと認識していた。
リディはこちらを見据えたまま、淡々と答えた。
「先程あなたを呑み込んだのは攻撃ではなく、世界樹の力を借りて発動した転移の力。メディの防御を真正面から潰すような力は私には無いわ」
「だが、少なくとも私をメディから引き離すことには成功しただろう。なぜこうして会話をする前に殺さなかった。何が目的だ?」
「……不思議。まるで殺してほしかったかのようなことを言うのね」
アディは口をつぐんで黙り込んだ。暫くの沈黙が続いた後、アディは左手に蒼の力を纏わせ、迎撃の準備をした。右目に埋め込まれた蒼の鉱石が熱を帯び、脆い人の身に力を与える。
「その反応も不思議。真面目に自分の身を護ろうとするなんて珍しいわね。力比べで私に勝てないことはわかっているでしょうに」
「勿論、そうだろうな。だが……」
その続きは、声には出せなかった。自分の生死に興味は無かった。アディ本人としては、自分がいつどのように殺されようと、どうでもいいと思っていた。──だが、誰かの泣き出しそうな声が今も頭の隅にこびりついている。
すると、リディは僅かに眉間に皺を寄せた。
「別に、今ここで殺したりはしないわ。あなたを地上に追い返してから殺したほうがいいと思ったの」
「……また回りくどいことを言うのだな」
「ここであなたを殺したら、メディはあなたが私に殺されたのか世界樹に殺されたのか判別できないでしょう? 世界樹が殺したと思い込まれたら、メディは世界樹を恨んで復讐を考えるかもしれないもの。あなたと出会ってから、メディは随分と人間じみたことを考えるようになったからね」
声色こそ穏やかだったが、その言葉には確実に棘があった。
「私には、その回答も言い訳のように聞こえるがな。そうだとすれば、真っ直ぐ地上に送り返せばいいだろう」
「最後に出会ってから随分と時間が経ったし、今のあなたの状態の解析もしておきたかったから」
「なら、私が気絶した状態のままのほうが都合が良いだろう」
「覚醒状態でないとわからないこともあるもの」
「……本心を伝える気が無いということは理解した」
リディの意図を聞き出すことは諦めた。どうやら相手はアディを殺しに来たのではなく、牢の中に囚人がいるかどうかの確認に来たらしい──そう捉えることにした。
改めて、アディはこの青空だけで構成された世界を見渡してみる。硝子のような足場以外に、手で触れられそうな物が何も無い。まるで夢の中にいるかのように現実味が無かった。
アディは自分の頬をつねってみた。僅かに痛みがあった。どうやら夢の中ではなさそうだ。
「ここは……どこだ?」
そう呟くと、リディがぽつりと答えた。
「星の内側の空間の一層」
「……答えてくれるのか」
ますますリディの意図がわからなくなった。不審に思いつつ、アディは再び空を見上げる。
「層……か。私たちが住んでいる世界の遥か地下深くに、更にこのような世界があるというのか……」
隣に自分を殺そうとしている神さえいなければ、ここは非常に興味深い場所だった。硝子の足場をしげしげと眺めながら、アディは自分の想像をぽつりぽつりと話した。
「ならば、私たちが『地上』と思い込んでいる世界は、実は数ある層の一部でしかない可能性もあるのか……?」
すると、リディが再び答えた。
「それはありえないわ。間違いなくあなたたちが住む世界が最も外郭に位置する世界よ」
「根拠は?」
「私はこの星のあらゆる物を創造する力を統括する神よ。『創造』の力はあなたたちの世界より外側には流れていないわ」
「では、その『創造』の力はこの青空の世界には何らかの効果を与えているのか?」
リディはアディとは一切視線を合わせようとしなかった。こちらに背を向けながら淡々と答える。
「この世界には与えていないわ。ただ、他の世界で創られたものが迷い込んで通過するだけ。ここは『死んだ世界』だもの」
「死んだ……世界……?」
「そうよ。『創造』も『破壊』も無く、全てのものが虚ろにそこに在るか何処かに過ぎ去るだけの場所」
「不思議な場所だな」
たしかに、この世界には水も無く、大地も無く、生命も存在しない。遠くに空や雲が見えるが、それが本物かどうか判別できなかった。
「死んだ世界ということは、生きていた時期もあるのか?」
「さあね。私にもメディにも、その情報は与えられていないわ。私たちが注意を払って管理するのは、外側の生きた世界だけよ」
「与えられていない…? 世界樹から、ということか? 神なのに、か? では、仮にこの世界に生きていた時期があるとしたら、その管理は君もメディもしていなかったということか?」
リディがアディの方を振り返る。
「そうだと言ったら?」
獲物が罠にかかった瞬間を見るような視線だった。
「……お前の狙いは、私に喋らせることか」
──気づくのが遅すぎた。リディは真顔のまま、一歩ずつこちらににじり寄ってきた。
「でも、あなたも喋りたいでしょう? こういったことが知りたくて、危険を冒してここに来たのでしょう?」
リディが一歩近づくたびに、アディは一歩ずつ後ずさりする。魔法も使わず、暴力も使わず、脅迫もせず、欲しい言葉を喋りたくなるように誘導する。──そういえば、こういった手口を得意とする神だったな。徐々に近づいていく崖を見つめながら、アディはそう思った。
再び警戒を強めていくアディを見て、リディは足を止めて穏やかに問いかける。
「話の続きをしましょうか。今、私たちがいるこの世界について、私もメディも何の情報も持っていないし、管理もしていない。それを踏まえて、あなたは何か思うことはある?」
アディは口をつぐみ、黙り込む。アディがどう足掻いても、この状況でリディから逃げ切ることは不可能だ。そう言い切れるだけの力量差がある。加えて、相手はいつでもアディを地上に放り出したうえで殺すことができる。
この状況でアディができることは、会話で時間を稼ぎながらメディが介入することを待つことだけ──つまり、リディの思惑に乗ることだけだった。
ならば──
「……今の地上の世界も、いずれここのように『死んだ世界』になる可能性があるのかもしれない」
こう答えたうえで、アディは質問を付け加えた。
「そのうえで問いたい。世界が『死んだ』と判定される条件は何だ」
「さあね。私は世界の死に目に立ち会ったことはないから」
「となると……『世界中の生命の死滅』と『神の消滅』のどちらか、あるいは両方が条件に含まれるか? お前はどう考える?」
意見を聞かれると、リディは暫く黙り込んだ。あちらがアディの思考を引き出そうとしているのなら、こちらも同様にリディの思考を引き出す──これが、今この場でできるせめてもの足掻きだろう。
「……私には何も確かなことは言えないわ」
「そうか……なら、言い方を変えよう。もし、お前とメディのどちらか、あるいは両方が機能停止するようなことがあれば、地上の世界は死ぬと思うか?」
途端に、リディの表情が険しくなった。
「ずっと考えていた。お前達を生み出した世界樹はなぜお前たちの対立を煽るのか。お前もメディも、扱える力が大きすぎる。今のような争いが続けば、片方がもう片方を殺してしまったり、あるいは地上の生命を再起不能の域まで殺し尽くしてしまうこともあるかもしれない」
「……………そうかもね」
「それなのに、なぜ世界樹はお前たちを止めないどころか、対立するよう促すのか。創造神、お前はどう考える?」
リディは黙り込んだまま、冷たい瞳でこちらを睨んでいた。
「……さあ、私の中には無い情報だわ」
「情報は求めていない。お前自身の考えを訊いている」
「…………」
リディは再び黙り込んだ。リディの眼光は刃物のように鋭い。余程強く警戒されているようだった。それを見て、アディは深く溜息をつく。ますますこの創造神が何を考えているのかわからなくなった。
「何かお前自身の考えがあるからこそ、私のような他者の意見を求めているのではないのか。そのような時に、自分が口を閉ざしていては話が続かないだろう」
アディは深く溜息をついた。要するに、リディはこちらと意見交換をしたいのだろう──アディはそう解釈したのだが、どうやらリディは自分で自分の邪魔をしてしまうほどにアディを忌み嫌っているらしい。
「別に……こちらはお前の意向を拒否しようとしているわけではないのだが」
アディが途方に暮れていると、リディは突然ぽつりと小さく呟いた。
「……私たちは、試されているのかもしれない……と、感じたことなら、ある。世界樹は、意図的に一部の情報を私たちに伝えないことがあるから……」
「なるほど……」
リディもメディも、出会った時から神としての責任感を持っていた。それは、地上が唯一の「世界」であり、自分たちは唯一の「神」だと世界樹から教えられていたからこそだろう。
だが、実際はこれまでにいくつもの世界が生まれては滅び、神も同じように誕生と消滅を繰り返していたのだとしたら。
世界樹にとっては、今ある「世界」も「神」も、数多の事象の一つに過ぎないのかもしれない。
だとすれば──まるで実験のように、どのような条件ならどのような結果が出るのか、試してみることもあるのかもしれない。
「もし、お前のその感覚が事実だとしたら、このまま争いを続けたらどうなることか……」
もし、リディとメディのどちらかが消え去ったり、世界中の生物が死滅するようなことがおきれば、世界樹はそれを「実験の失敗」と捉えるのではないか。もしかすると、アディたちが今いる死んだ世界は、そうした実験結果の一部なのかもしれない。
「メディ……」
あいつは、おそらく創造神との戦いの後のことを考えていない。あるいは、考えないようにしているのかもしれない。だが──いつかこの戦いにも終わりが来るはずだ。そして、このままでは勝っても負けても、メディには碌な未来が待っていない……そんな気がする。
アディは再び頭を抱えて、底の見えない青空を見つめ、俯いた。自分の立場も、世界もかなぐり捨てて、なぜメディはそこまでしてアディに生きろと願うのか。アディ本人でさえ、自分の命にほんの一欠片の価値も見出せないというのに。
そして、数百年近い時を共に過ごしても、メディが求めている感情をアディが抱くことは無かったというのに。
だが……「知らん、興味無い」──と切り捨てるには、あまりに巻き込んだものが重過ぎた。
「創造神。お前が言うことを聞くかどうかはわからないが……提案だけはしておく。もし今後、お前たちの争いがどう転んだとしても、メディを殺すようなことはしないでほしい」
「……随分と虫の良いことを言うのね」
「何とでも言えばいい。お前がどうするかはお前の自由だ」
リディは苦い表情でぽつりと呟く。
「自由、か……」
その時、突如空間全体が激しく揺れ始めた。上空に亀裂が入り、卵の殻のようにぽろぽろと剥がれていった。
「来たか、メディ……!」
青空が崩れ落ちていく。剥がれた空の向こう側に、黒い鋼の巨人の顔が見える。その姿を見た途端、深く安堵した──創造神がその一瞬の隙を見逃すはずがないというのに。
リディの指先から淡い光が放たれ、アディの胸に吸い込まれた。その瞬間、右目が激しく痛み、魔力の放出が止まらなくなった。心臓が焼けるように痛む。脚に力が入らなくなり、膝をついた瞬間、背後で黒い闇がアディを吸い込もうと迫っていた。
「話はここまでね。さようなら」
この視線の先にメディが視えるというのに──必死に手を伸ばしたが、行く手を創造神が阻む。リディがふわりと手を伸ばすと、背後の黒い闇は勢いを増し、アディを呑み込んでいった。
────────────────────────
暗闇を抜け出しても、心臓の痛みは止まらなかった。視界が開けた瞬間、眼に入ったものは無数の木々だった。鳥の声が聞こえ、虫が飛び交っている。上を見上げると、木々の隙間から僅かに青空が見えた。虚像ではない、本物の青空だ──地上に戻ってきたのだ。
だが、今に限っては喜ばしいことではなかった。先程の創造神との会話を思い出す。アディを地上に追い返した後、リディは必ずアディを殺しに来るはずだ。
力の入らない身体を引きずろうとするが、魔力の放出が止まらない。周囲の草木も、鳥も虫も、ありとあらゆる生命が蒼の鉱石と化していく。
「何事だ、これは……」
「総員、警戒体制!」
遠くから騒音が聞こえる。右眼を押さえながら音がした方に視線を向けてみたが、何やら黒い塊が幾つか蠢いているだけだった。
「あれは……人か……?」
「いや、待て……あの髪の色は、まさか……! なぜ、こんなところに……最古の魔術師!」
何の音だろう。うるさい。
状況がわからないまま、ただひたすら心臓の痛みに耐える。
「あれが……破壊の神を扇動し、世界を戦乱に陥れた元凶……女神様に、リオディシア様に報告しなければ……!」
メディはどこだろう。早く合流しなければ──そう思って顔を上げた瞬間、右眼に埋め込まれた鉱石が一層強い光を放った。
「ぐわあああああああああああ!!!」
「ひぃぃ、なんだこれ、やめ……グォェ! ガァポ! ブクブクブクブクブクブォア……」
「総員、退ひ………イヒィァァィィィィ!!!」
どこかから騒音が聞こえる。何やら黒い塊が動いているような気がするが、状況がよくわからない。
「手が……足が……ギャァァァィャァハァァァァァァァ!!!」
「く、そぉ、化け物が……ウワァァァァァァ!」
「ヒィィィ! く、くくるなあぁぁガァポボボボハブグブクブクググ……」
このまま魔力の放出が続けば、右眼の鉱石の魔力が枯渇してしまう。ただの人間の身体を魔力で強制的に延命している状態のため、魔力の枯渇は死を意味する。
それだけは避けなければならない。誰かの泣きそうな声が耳の奥に張りついたまま消えなかった。
「……ディ………ア……ディ……」
遠くで誰かの声がした。次の瞬間、アディは両頬をむぎゅっと押しつぶされた。
「アディ!!!」
鈴の音のような声が聞こえた途端、魔力の放出が止まり、胸の痛みが引いた。メディが心配そうにアディの眼を見つめていた。
「よかった……やっと見つけた……!」
相変わらず、メディは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「無事? リディに変なことされなかった?」
「おそらくされたが、君のおかげで今治った。助かった」
メディは辺りを見回して状況を確認する。草木も、動物も、何もかもが蒼い鉱石と化していた。その中で、黒い塊がいくつか転がっており、僅かに震えている。
「さっきの様子を見ると……強制的に魔力を放出する術をかけられたって感じ?」
「おそらくそうだろう。この右眼の魔力が切れれば私は死ぬからな」
「全く、ヒトもこんなに転がしちゃって……」
最後の発言を聞いて、アディは首を傾げた。人? 人なんていただろうか。アディの「視界」にはそれらしきものは見えない。
メディは黒い塊の一つを掴むとぽつりと呟いた。
「もう……あなたはこんなことしなくていいのよ。私がやるんだから」
そう言うと、メディは黒い剣を呼び出し、転がっている塊を一つ一つ突き刺していった。塊は「ギャアァァァ」と音を立てて動かなくなった。結局、「人」がどこにいるかはよくわからなかった。
「ったく、あのクソリディ。次に会ったら粉砕してやる。アディも、さすがにもう満足よね? 早く帰りましょ」
「ああ、そうだな……ところで、創造神の気配は無いのか?」
「今のところ、襲撃は無さそうだけど?」
リディは「地上に放り出したら殺す」と言っていたが──あの発言自体がブラフだったのか? しばらく周囲を警戒していたが、結局リディが襲撃に来ることはなかった。
アディはあの青空の世界であった出来事を思い返してみた。星の内側に飲み込まれた「死んだ世界」──創造神と破壊神の争いがこのまま続くと、あの世界と同じ道を辿る可能性があるのだとしたら。これからどうする?
ふと、アディは隣を歩くメディに視線を向けた。巨大な鋼の身体から矮小な人の姿を取り、己の立場を捨て去り、アディ唯1人の為だけに世界に牙を向け……己の全てをかなぐり捨てていると言ってよい程の献身だ。今ではもう、アディはそのことから目を逸らすことはできなかった。
「全く……私がいなかったら、あなたとっくの昔に死んでるわよ。少しは感謝してよね」
メディは少し膨れっ面をしながらそう呟いた。メディの言うことは一文字一句間違いない事実だ。どうすればこの献身に報いることができるだろう──ふと、アディはそんなことを考えた。
創造神との戦いも、いつか必ず終わりが訪れる。その時に、メディが殺されることも、独りで取り残されることもなく、少しでも明るい未来を与えることができたら……献身に報いることができたといえるだろうか?
「──ちょっと、アディ、聞いてるの?」
メディの一声で、アディは我に帰った。
「私に何か言うことはないわけ?」
「あ、ああ……そうだな。たしかに、今回はかなり危険な挑戦を君にさせることになった。付き合ってくれて感謝する」
「ふん……」
メディは少し不貞腐れた顔をしながら、虚空に手を伸ばした。空中に黒い線が引かれ、空間が裂ける。紅と黒の欠片が宙を舞いながら、目の前に一筋の道を生み出した。
それは、メディから見るとなんてことはない転移の魔法だった。だが、アディは目の前の光景に強く惹きつけられた。
無から光が生まれ、空間が自在に切り取られ、様々な色と形を描きながら理想が具現化される。それが神が織り成す魔法だ。
「……綺麗だな」
アディはぽつりと呟いた。そしてその時、自分が現在進めようとしている研究のことを思い出した。
──「神を創る」という計画のことを。
────────────────────────
一面の青空が広がる死の世界にて、創造神・リオディシアは天を仰ぎ見ていた。破壊神・メディレイシアによって開けられた空間の穴は、既に世界樹によって塞がれていた。
──アディをどこにやったのよ。
先程の戦闘にて、メディがぶつけてきた言葉のことを思い返してみる。
──あいつの身に何かあったら、ブチ殺してやるから。
あの「アディリシオ」と名付けられた人間が現れてから、メディは変わった。外見、思考回路、言葉遣い、趣味趣向……ありとあらゆるもの全てが。アディと出会う前のメディは、少女の姿を取ることすらなかったのだ。
その時、目の前に黒髪の幼い少年少女が現れた。イオとセイラだ。
「あの人間と同じことを問うことになるのは腹立たしいが……なぜ殺さなかった?」
セイラは怪訝な表情でリディの顔を覗きこんだ。
「……早急に結論を出すと、余計に状況が悪化するかもしれない。そう考えただけよ」
リディ自身も認めたくはなかった。あの人間を排除することを躊躇っただなんて。
あの人間が現れてから、星のシステムの機能を阻害する存在は排除するべきだと判断して、世界樹の合意も得て、数百年以上それが正しいと信じ続けていたのに。何を今更。
だがあの時、アディを捜して飛び込んできたメディを見た時に思ってしまった。
メディの全てを変えてしまった人間をこの手で奪ってしまったら。
その次には何が起こるのだろう?
「ねぇ、リディ。これからどうするの?」
イオがそう問いかけた。リディはアディとの問答のことを思い返してみる。
「世界の死」──その概念について、世界樹から情報を得られたことはない。所詮は一つの仮説にすぎない。耳を貸す必要なんてない。こうした妄言の一つ一つがメディを狂わせてきたのだから。
だが、もしも本当に、創造神と破壊神のどちらかが死ねば、世界そのものが死に向かうのだとしたら……
「……セイラ、イオ。あなたたちの考えを聞かせて」
二人は言葉も出ない程に驚いていた。リディはこれまで二人に「情報」ではなく個人としての「考え」を求めたことはなかった。
「あなたたちは、この世界にこれからも続いてほしいと思う?」
即座に二人はこう答えた。
「勿論」
「それはなぜ?」
セイラはすぐに答えを返さず、黙り込んだ。だが、イオははっきりとこう訴えかけた。
「だって、僕たちだって頑張ってきたじゃん!」
その一言で、リディの答えは決まった。これまでの道程で自分たちが行ってきたことが、他者から見て善悪どちらに見えようと、その時に自分たちのできることを考え、力を尽くしてきた。瞼を閉じ、数秒の沈黙の末に、リディは二人にこう宣言した。
「……了解、指針は決まったわ。しばらくの間、メディたちへの攻撃は止めて、世界樹側との調整に時間を割くことにします」
「構わないが……一体、何のために?」
困惑するセイラに対して、リディは空を見据えながらこう答える。
「この争いの終わり方を考えるの」
「終わり、方……?」
「ええ。あなたたちは、もしもメディの存在が消失した場合、世界に与える影響を可能な限りリストアップして。世界に与える影響を最小限にしつつ、この争いを終わらせるにはどうすればいいか考えて、世界樹側に提案するわ。例えば、殺すのではなくて封印するとか……」
セイラとイオはしばらく顔を見合わせて考え込んでいたが、最終的に深く頷いた。
「御意、リディ」
イオがてきぱきと行動に移る一方で、セイラは訝しげにリディを見つめていた。
「……あの人間の提案に乗る気か?」
その瞬間に青空は曇天と化し、雷鳴と共に豪雨が散弾銃のように降り注いだ。リディが絶対零度の瞳でセイラを見下ろしていた。
「…………………いや、すまなかった」
セイラは視線を泳がせながらぼそりとそう呟き、石のように固まっていた。イオは口をあんぐりと開けたまま震えあがっていた。後にも先にも、この二人がリディに怒られたのはこの瞬間くらいだったかもしれない。
「ならいいわ。行動に移って」
それ以降、二人は何も言い返すことはなく、そそくさと立ち去った。一人取り残されたリディは深い溜息をつく。
──誰があんな人間の話を好んで聞いたりするものか。
胸の中に広がる不快感に気づかないふりをしながら、世界の行く末に思いを馳せる。アディリシオはメディだけではなく、リディにも大きな影響を与えていた。リディはまだ、自身に芽生えた感情に気づいていない。
──「嫌悪」という感情に。
◇ ◇ ◇
「あんな無茶をしでかして、結局何か収穫はあったの?」
研究所に戻って数日後、メディは不意にアディに問いかけた。麗らかな日差しの下で、アディは先日の大冒険に想いを馳せる。
世界樹のこと、死した世界のこと、メディとこの世界が辿る未来の可能性……そして、最後にメディが見せた転移の魔法の輝きが頭から離れなかった。
「収穫、か……。まあ、無くはない」
「ふーん。で、それはなんなのよ」
「そうだな……やっぱり神を創ってみようと思った」
それを聞いた途端、メディは火を吹いたように怒り出した。
「何よそれ! 結局行く前と何も変わりないじゃない! そもそも、私という神がいるのにこれ以上必要ないでしょ!?」
メディは頬を膨らませて不貞腐れていた。
「……何か勘違いをさせているようなら謝ろう。別に、君の代替品が欲しくて神を創ろうとしているわけではない。君は唯一無二の最高の神だ。今後、何が起ころうとそれが変わることはない」
アディがそう言うと、メディは眉間に皺を寄せながら、頬を真っ赤にして震えていた。
メディが今まで見せてきた魔法の数々を思いうかべてみる。アディの前に神が降り立ってから数百年──月日は流れ、人も魔法を扱うことができるようになったが、神の魔法の強大さと美しさには遠く及ばない。
神と同じ魔法を扱うことができる存在を人の手で生み出すことができれば────それを世界樹は脅威と捉えるだろうか。
そうすれば……世界樹にとって、メディは世界を滅ぼす悪でも、破棄すべき失敗作でもなく、新たな脅威に対する「抑止力」になるかもしれない。
目を瞑り、星の内側で見た透明な枝葉を思い浮かべる。アディは世界樹だけを対処すべき「敵」だと考えていた。メディと出会ってから、ずっと。
窓から風が吹き込み、薄桃色の髪が揺れる。アディはメディの後ろ姿を見つめながら、胸の内で静かに誓う。
いつか必ず、この世界に「模造品の神」という新たな脅威を生み出してみせると。
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それから数年後──
アディとメディ、二人の研究室に弟子が一人加わった頃。掃除を終えたばかりの部屋でアディはこう尋ねられた。
「好きにしろって……これを? ええんか?」
菫色の髪の少年──オズは一枚の紙を握ったまま、困惑している。その紙には破壊の神の魔術の呪文と魔法陣が描かれていた。
「勿論だ」
アディは深く頷いた後、オズには聞こえないほどに小さく呟いた。
「……期待している」