旅するワイングラス
ゼルナーシャ・クロード。
彼女はゼオンの母親であったが、ゼオンは未だに母のことが理解できない。精神面は勿論のこと、母の生まれ、育ち、いつ父と出会い、何の為に父と結婚してクロード家に嫁いできたのか。実の子でありながら、ゼオンは死ぬまで母が何者なのか知ることができなかった。
母・ゼルナは父・ガレオンに歪んだ愛情を抱いていた。だが姉のシャロンがゼルナの正体は昔から貴族の間では忌み嫌われている吸血鬼族であることを暴いて以来、ゼルナとガレオンの仲は悪くなり、ゼルナの抱く愛情にガレオンは応えてくれなくなった。
実のところ、母についての情報で客観的な真実と認められるものはこれだけだと考えている。そこから先のこと、特に時系列についてはゼオンですら真偽がわからない。例えばゼルナはゼオンのことを「ガレオンの代用品」とみなしていたし、ゼオンの精神のみを殺して肉体だけ確保し、その肉体にガレオンの精神を入れようと企んでいたりした。
しかし、それがガレオンとの仲が険悪になってから考えたことなのか、それとも最初からその為にガレオンと結婚したのか。母がその為に用いた謎の薬や魔術書はどこから沸いて出たものなのか。ゼオンには何一つわからない。
事実を正しく捉え、頭を働かせて状況を理解する。あの頃のゼオンはその思考能力すら奪われかけていた。そう考えると、自分の記憶と認識を真実だと保証できないゼオンは「信用ならない語り部」であるのかもしれない。
だが、自身に浴びせられた汚泥よりも醜悪な感情だけは本物だと信じたい。
魔法と薬で思考能力を洗い流され、歪んだ愛情を受け止めるための器と化したゼオンをのことをゼルナはよくワイングラスに例えた。僅かでも抵抗する素振りを見せようとすれば、こう言われたものだ──「ワイングラスが喋るんじゃないわよ」と。
愛情、日々のストレス、憎悪、欲望、ささやかな憧れ……そういった感情全てを注ぎ込み、ワインのように自分を酔わせて満足感を得る……あの頃のゼオンはその為の道具としか思えない扱いを受けていた。
他人の願望を受け止めて望み通りに応える器。自分自身の願いは注がれ続ける他者の願望と区別がつかなくなり、怒り・憎悪・恨みといった自分を守る為に必要不可欠な感情は不要なものとして抑圧されていった。そしていつしか、他者の為に己を擦り減らすことが自分自身の意思だとすら思うようになっていた。
七年前、母を殺したあの日までは。
「なぜここに。……お母様」
ゼオンが六歳の頃のことだ。「育児」という言葉など頭の片隅にも無かったはずのゼルナが、剣の初稽古の様子を見にきたことがあった。練習用の木刀を準備し、控室で自分の名前が呼ばれるのを待っていた時、母は突然現れた。
「なぜって、母親が子供の様子を見に来ることがそんなにおかしなことかしら?」
勿論、普通の母親なら何もおかしいことではなかったが、ゼオンの母は旦那の精神を息子に移植しようと企むような狂人だ。子供の様子を見る暇があるなら、今日一夜を共にする浮気相手の選別に時間を割くような人が、何の思惑も無しにゼオンの様子を見に来るとは思えない。
「……今日は忙しいのかと思っていました」
「忙しかったけれど、なんとか時間を作ってきたの」
ゼルナは大嘘をつくと、練習場の方へと視線を向けた。練習場では、ディオンが剣の講師と鍛錬をしていた。カチン、カチンと音が鳴り、剣がぶつかり合い、退いてはまたぶつかる。滑らかな動きで相手の剣をかわし、鷹のように鋭く攻める。ディオンの鍛錬の様子を見て、ゼオンは自分の練習用の木刀をじっと見つめた。
……かっこいい。俺も練習すれば、あんなふうになれるだろうか。それまで母の願いを受け止めるだけだったはずのワイングラスは、ふとした拍子に自分の心の存在を思い出し、憧れた。
「あら、珍しい。あなたも興味があるの? 生意気ね……まあいいわ。ふふ、たしかにイイわよね……彼」
ゾクリと、背筋が凍る。隣にいたゼルナもギラギラとした目つきでディオンを見つめていた。血の繋がらない12歳ほどの息子に向けるものとは思えない恍惚の笑み。ゼルナが何を考えているのか、ゼオンは即座に察した。
「何、文句でもあるの?」
やめろ。ふざけるな。赦さない。そう言ってやりたかったのに、言葉が出ない。体中に刻まれた痛みが喉の奥を縛る。気味の悪いものが全身を這いずり回った記憶が声を奪う。小さなゼオンは木刀を握りしめて震えた。
「冗談よ。何もしないわ。まだ、ね」
犬をなだめるかのように、母の指がゼオンの顎から首を撫でた。俺も強くてかっこよくなれば、「いやだ」と声をあげて、この人をたおすことができる日が来るのだろうか。そう思った時、行く手を塞ぐように長い髪の少女──シャロンが母の前に現れた。
「ごきげんよう、お義母様。ディオンに何かご用ですか」
ピクリと、母の眉間が震える。恐らくこのクロード家の中でも、シャロンはゼルナにとって最も忌まわしい存在だろう。一方のシャロンも冷ややかな目でゼルナを睨みつけていた。
「あら、誤解だわ、シャロンさん。あたくし、ゼオンの様子を見に来ただけですのよ」
「まあ、珍しいこともあるのですね。私の記憶に違いが無ければ、お義母様がゼオンの勉強やお稽古の様子を見にきたことなど無かったと思いましたが?」
「お勉強の進捗は、毎晩眠る前に聞いているからわざわざ様子を見に行く必要は無いでしょう。でも、剣の稽古に関してはこの目で見ないと実感が沸きませんから。……大事な身体に傷が付いても困りますし」
ゼオンは母の視線を感じて一瞬震えあがった。
「……とはいえ、まあ、今日はこのあたりで失礼しますわ。親が世話を焼きすぎるのも良くないでしょうし。ではゼオン……またあとでね」
そう言って、ゼルナは足早にその場から去っていった。「またあとで」──この時期のゼオンに逃げ場は無かった。まだ自分の部屋が無かったからだ。年端もいかない子供が母親と同じ部屋で眠るように、ゼオンの部屋は母と同じ部屋だった。
シャロンは鬼のような目でゼルナの背を睨みつけていたが、ゼルナの姿が見えなくなった途端、安堵したのか溜息をついて椅子に座り込んだ。
「はぁ……どうにかいなくなったわね。全く、油断も隙もありゃしない」
疲れ果てた顔をしているシャロンの横顔を見て、ゼオンは小さく声をかける。
「……姉貴があの人を嫌うのは、兄貴のためか?」
シャロンは頷きながらこちらに笑いかけた。
「うーん……まあ、そうね。この家自体の為って理由もあるけれど……一番はやっぱり、弟のためよね。私、おねーさまだもの」
自分のことを「おねーさま」と言う時のシャロンは、他のどんな時よりも輝いていた。シャロンはゼオンの木刀をじっと見つめると、首を傾げた。
「そういえば、ゼオンは今日が剣の初稽古だったわね。それでディオンの稽古を見ていたの?」
「え、あ……まあ……」
稽古の様子を見る程度なら、何も悪いことではないはずだが、ゼオンはつい気恥ずかしくて視線を泳がせた。シャロンはにまにまとその様子を見つめていた。
「ふふ、なんだかゼオンのそんな表情、初めて見たかも」
「……うるさい」
「稽古、がんばってね。あの先生、最初は厳しいけど、頑張ってる人はちゃんと評価してくれる良い先生だから。きっとゼオンも上手になるわ」
「……姉貴も、剣の練習、してるのか?」
剣術はクロード家の伝統だ。この家はかなり男尊女卑的な傾向があるが、剣術だけは男女の区別無く全員習う。そういう決まりだということは覚えていたが、それでもシャロンが剣を振るっている様子はあまり想像できなかった。
「そりゃあしてるわよ。さすがに、ディオン程じゃないけどね。バレエやピアノのお稽古もあるし」
ゼオンはもじもじとしながら少し俯き、僅かにディオンの方へと視線をずらしながら尋ねた。
「……その、練習すれば、あんなふうになるものなのか?」
すると、シャロンはにまにまと笑った。
「ふふ、そりゃあなれるわ。ゼオンも頑張って練習すれば、きっとディオンよりも強くてカッコよくなれるわよ」
「…………」
ゼオンは黙り込んだまま、鍛錬に励むディオンの背中をずっと見つめていた。ちょうどその時、ディオンの鍛錬が終了し、控室に戻ってきた。
「ディオン、お疲れ様」
「姉さん。……と、ゼオンも一緒か。そっか、次がゼオンの番なんだな」
「今日が初めての剣の稽古なのよ。ゼオンも大きくなったわよね」
シャロンはディオンに水が入ったグラスを手渡し、ディオンは水を飲み干して汗を拭いた。二人のやりとりは正に絵に描いたような「仲の良い姉弟」であり、ゼオンには手が届かない遠い存在に思えた。
「そうか、そろそろゼオンも学校に行ったり、色々な稽古を始める時期なんだな」
「そうよ。その……ゼオンにとっては、この屋敷の中は色々と息苦しいでしょうけど、外はここよりは自由だし、きっと楽しいと思うわよ。そうだ、ゼオンは何かこれからやってみたいことはある?」
シャロンは手をパチンと叩いて尋ねた。やりたいこと。ゼオンは虚ろな目で床を見つめる。何かしたい、その感情自体がわからない。心が揺れる感覚も、眩しい欲望も、想像しようとする度に母の声が脳内を埋め尽くす。
「さあ、特に……」
「えー、そんなの勿体ないわよ。世の中には楽しいことがいーっぱいあるんだから!」
「でも……」
「ゼオンは、もっともっと広い世界を知るべきだわ。きっとここより、あなたが自由でいられる場所があるはずよ。ねっ、ディオン?」
突然話を振られたディオンは「えっ、あ?」と間の抜けた声をあげた。シャロンはぷぅっと頬を膨らせてディオンの背中を何度も叩いた。
「もうっ、『あ?』じゃないわよ。ノリが悪いわね! 少しはお兄さんらしく、弟が希望を持てるようなこと言ってあげられないの?」
「いや、そりゃ……」
ディオンはシャロンよりも現実的に物を考える人なので、ゼオンが置かれた状況を無視して軽はずみなことを言うことはできなかっただろう。シャロンが「もうっ、もうっ」とディオンの背中をぽかぽか殴り、ディオンが「はいはい」と言いながら大人しく殴られている様子を、ゼオンは猫のじゃれ合いを見るような気分で見つめていた。
「そんなことより、姉さん。さっきあの人が来ていただろう。大丈夫だったか?」
ある程度シャロンが満足したところで、ディオンは神妙な面持ちでそう切り出した。どうやら、先程の二人のやりとりがディオンの目にも入っていたようだ。
「ああ、大丈夫よ。すぐに帰っていったから。それより、ディオンの方こそ気を付けてよね? できる限りあの人と顔合わせないようにしてよ。もしうっかり会っちゃったら、適当に理由を付けて逃げるのよ」
「はいはい、わかってるよ」
「何かあったら、すぐにおねーさまを呼びなさいよ。すっ飛んでいくからね! あの人、本当に何を考えているかわからないもの……」
二人から少し離れたところで、ゼオンも小さく頷いた。シャロンがディオンにあれこれと注意することを伝えているところを見ていると、彼女の不安が伝わってきた。そりゃあ、不安にもなるだろう。ゼオンはシャロンにまだ伝えていない母の凶行を振り返ってみる。まだシャロンは具体的なことは何も知らないだろうが、毎度毎度母の敵意を真正面から受け止めていることを考えると、シャロンにもディオンには見せられない恐怖があるのだろう。
そう考えると、ディオンのこともたしかに心配だが、シャロンも十分危険な立場に置かれていると言える。将来当主の座を引き継ぐ可能性が高いディオンは母にとって最も陥れる価値がある人物だが、一方でシャロンは母にとって最も大きな障害であり真っ先に排除すべき邪魔者だ。
ゼオンは二人のやりとりを聞きながら、俯いて地面を見つめた。母はいずれ必ず兄と姉に報復するだろう。どちらに先に手を出すかはわからないが……兄と姉の微笑ましい関係はいつか必ず破壊される。そう考えると、震えが止まらなかった。
「何を考えているかわからない、か……。結局、未だにあの人のことについてわかっているのは、吸血鬼と魔術師のハーフだということと、デーヴィアの出身だということだけだよな。本当に、あの人は何者なんだ?」
ディオンはふとそんなことを言い出した。ディオンの疑問の答えはゼオンにもわからない。母は怪しげな薬や魔術書を持ちだしてゼオンを追い詰めることも多々あったが、それらの薬や魔術書の正体すら掴むことはできなかった。
シャロンは眉間に皺を寄せて、深く頷いた。
「全くだわ。種族的な特徴は本人をよく監視していれば必ずボロが出てくるけど、経歴については隠されたら本当に調べられないもの。困ったものだわ」
「父上もそれでよく結婚しようなんて思ったよな」
「『だから』、あの人を野放しにはしておけないのよ。素性を明かせないような人と結婚を決めたお父様が、果たして正気だったって言える?」
ディオンは顔をしかめた。ディオンにとっては受け入れがたいだろうが、真正面から否定しづらい推理だろう。
「……あの人は、父上にも何かしようとしてるって言いたいのか?」
「あるいは、『した』かもよ。過去形かも」
「それは……赦せないな」
兄や姉よりも母に近い位置にいたゼオンは二人の疑問の答えをある程度知っていたが、二人には一言もそのことを伝えずに黙って話を聞いていた。シャロンの推理はおそらく正しいだろう。母はゼオンを「父の精神を移植する器」にしようとしていたのだから、父に対しても何らかの仕込みを行っていたと考えるのが自然だ。
「結局、あの人が何者なのか。何が狙いでどういった手段を使ってくる気なのか。それがあからないと、いつまでもこんな状態だわ。私、あの人の部屋に忍び込んで、何か手がかりが無いか探ってこようかしら」
シャロンがそう言うと、ディオンが身を乗り出して即座に止めた。
「姉さん。それはいくらなんでも危険すぎる。素性を調べるなら別の手段を模索したほうがいい」
「そう? でも……」
「いいか、姉さん。俺の心配をしてくれるのはありがたいが、自分の身の心配もしてくれ。現状、どう考えてもあの人は俺より姉さんを敵視しているだろ。姉さんの身に何かあったら、その、俺は悲しいよ」
可愛い弟にここまで言われると、さすがにシャロンも聞き流すわけにはいかなかったようだ。頬を指でポリポリと掻きながら、シャロンは「しょーがないわね」と呟いた。
ゼオンは深い溜息をついた。ディオンとシャロン、どちらの読みも決して外れてはいない。だからこそ、危険だった。
「……二人共、俺がいる場でそういう話をして大丈夫なのか?」
ゼオンが口を開くと、シャロンがゼオンの頭を撫でながら言った。
「だって、ゼオンは別にあの人に従って私達を陥れたりするつもりはないでしょう? ゼオンも被害者だってことも、私たちのことを本当に心配してくれていることも、ちゃんとわかってるもの」
「……別に、そういうつもりで言ったわけじゃ」
いや、そういう問題ではない。つい反射的にこう言ってしまったが、問題はゼオン自身の意思ではない。この身体が、いつまでゼオンの意思に従ってくれるかという話だ。父が母との結婚を決めたことが本当に父自身の意思であったか疑わしいのだとしたら、その疑いはゼオンにも向けられるべきだ。
……暴力、薬、魔法。そういったもので、母に意識を奪われたことは何度もある。その時に母がゼオンに何をしたのか、それはゼオン自身にすらわからないのだから。
「ゼオン、その……お前が言いたいのは……」
ディオンが声をかけてきたが、その先の言葉を言うことはなかった。ディオンの顔は青ざめていた。ゼオンは自分の木刀を手に立ち上がり、鍛錬に行くふりをしてその場から素早く立ち去った。
「あ……ゼオン、待って!」
シャロンの声も無視して、ゼオンは逃げるように二人の前から姿を消した。
駄目だ、駄目だ……あの二人とは関わってはいけない。自分の首に、腕に、心臓に手を当てて、ゼオンは自分に言い聞かせた。
ゼオン自身がどれほど兄と姉の身を案じたとしても、母はいつか必ずゼオンの自我を奪い、二人を陥れるために利用する。ゼオンの意思に反して、スパイ紛いのことをさせられるかもしれない。あるいは二人を傷つけたり殺したりさせられるかもしれない。だとすれば、二人のためにゼオンができることは、できる限り関わらないようにすることだけだ。ゼオンは真新しい木刀を抱えたまま、俯き、立ち尽くした。
「俺は、何もできないのか……」
自分の身についてはいくらでも諦めることができた。だが、自分が兄と姉の関係を壊す為の道具にされるのを黙って待ち続けるしかないかとおもうと悔しくてしかたがなかった。
そうだ──『悔しい』。この胸に沸いた焦燥感と虚無感に名前を付けるなら、この言葉が適切だろう。そしてきっと、今自覚したこの感情は今晩母と会った際に、また記憶と共に刈り取られる。そのことも含めて『悔しい』と感じた。
その時、誰かに声をかけられた。
「ああ、君がゼオンか。たしかに、お兄さんとよく似てるね」
それは、先程までディオンに剣の稽古をつけていた講師だった。五十代ほどの色黒の男性で、片手にはゼオンと同じく木刀を持っている。
「今日から、私が剣の稽古をすることになる。よろしくね。それで……」
「……あの」
ゼオンはぼうっとした状態のまま、講師に尋ねた。
「剣の練習をしたら、強くなれますか」
講師はゼオンの質問を聞くと、しばらく考え込んだ。外から招かれている講師等はクロード家内部の人間ほど偏見やしがらみを持っておらず、ゼオンの言葉にも真摯に耳を傾けてくれた。
「そうだなあ、君の求める『強さ』がどういうものかはわからないけど……私が教えるのは敵を倒すというよりも身を護る術としての剣術だ。だから、どんな恐ろしい怪物にも打ち勝つことができるわけじゃあないけれど……」
風が吹いた。木の葉が一枚、ふわりと宙に浮いて飛んでいった。
「剣術をきちんと練習して身に付ければ、何も身を護る術を持たないよりは、自由でいられると思うよ」
その夜、ゼオンは木刀を持って母に呼ばれるよりも先に部屋に忍び込み、母の素性に関わる物を探した。戸棚、机の中、コートのポケット、考えられる場所は全て探した。魔法で鍵がかかっている場所が多かったため、探せる場所は限られていたが、「鍵がかかっている」ということも一つの手がかりだ。
「だめだ、どこも全然開かない……」
開かなかった場所をメモに書き留めながら、ゼオンは俯いた。
クローゼットからベッド横のチェストの引き出しまで、ありとあらゆる場所に魔法による鍵がかけられていた。母が魔法に秀でていることは知っていたが、これほど手あたり次第に鍵をかけていては、さすがに生活しづらくないだろうか。
「それだけ、警戒しているということか……ここまで鍵ばかりだと、場所を書き留めるのは無意味だな」
鍵の仕組みだけ確認して出直そうか。そう考えたが、すぐに無意味だと気づいた。おそらく、今日はまた記憶を消されるからだ。昼間、シャロンといるところを母に目撃されている。シャロンたちを敵視している母は、ゼオンの記憶を覗き見て、二人に関する記憶は全て消し去るだろう。現状を変えようと足掻いてみても、結局全て母に奪い去られる。そう思うと、自分がしていることが急に馬鹿馬鹿しく感じてしまい、ゼオンは膝を抱えて座り込んでしまった。
お守り程度のつもりで持ってきた木刀を見つめ、溜息をついた。
「馬鹿だな……どうせ、何をしても抑え込まれるだけなのに……」
誰も傷つかぬように足掻いてみても、力でねじ伏せられ、記憶を消されるだけだ。足掻くことをやめても、母はあの手この手でゼオンの精神だけを殺そうと痛めつける。どのような行動を起こそうと、母を止められないのだとしたら、いっそこの手で自分の命を絶ってしまったほうが得策かもしれない。
考えれば考えるほど、それが最適解のように思えてきた。自分が死んでしまえば、母の企みは永遠に実現できなくなる。自我を奪われ、姉と兄を陥れる道具にされることもない。
なんだ、これが一番簡単じゃないか……
「あら、ゼオン。珍しいわね。先に部屋にいるなんて」
母の声がした。同時に、頬を蹴られ、身体が地面に叩きつけられた。もう、抵抗することさえも馬鹿馬鹿しく思えてきて、ゼオンは床に倒れ込んだまま動かなかった。母の視線は、ゼオンの傍に転がっている木刀へと移った。
「なにコレ。ああ、昼間の稽古で使ったヤツね」
そう言うと、母は木刀を足で壁際へ追いやった。もはや、恐怖すらも朧気になってきた。何を言われても、何もされても、何も考えずに心を閉ざしてしまえばいい。それから、母はゼオンの脚の上に座り、首に手を添えて囁いた。
「そう、昼間の稽古といえば……ふふ、ゼオン。あなた、またあのクソガキ二人と一緒にいたわよね」
「……また、記憶を消すんですよね」
「それもあるけれど……二人がどんなことを話していたのか、教えてほしいのよ」
その時、昼間自分が危惧していたことは、もはや「いつか」の話ではなくなっていることに気がついた。他人の記憶を選んで消去することができるのなら、消去する記憶の内容を確認することができても不思議ではない。ゼオンは唇を噛みしめ、悔しさで震えた。望まないスパイをさせられ、その役割から逃げることすらできないなんて。
いつになく大人しいゼオンを見て、母はにやにやと嗤った。
「ふぅん。今日は随分利口なのね。前よりは少し大人になったってこと? 子供の成長って速いわね」
そう言うと、母は一度立ち上がり、戸棚から様々な本や薬を出し始めた。ゼオンはもう考えることすら止めて、ぼうっと暗闇を眺めていた。自分のことはどれだけ諦めてもいい。だが、姉と兄が、あの二人の穏やかな時間が壊されるかと思うと、胸が痛かった。
その時、ゼオンは自分の視界に白いものがあることに気づいた。ベッドの下だ。見たこともない紙切れがある。母に気づかれぬようにそっと手を伸ばし、それを引き寄せた。それは封筒だった。そして、封筒には宛名が書いてあった。「ローイエ・アポロン」という名が。そして、少し視線をずらすと、壁際に転がっている木刀が見えた。今しかない。そう思った。
「……っ!?」
ほぼ同時に母の視線がゼオンの手の中にある封筒を捉えた。反射的にゼオンは身体を起こし、床に落ちた木刀を拾い上げた。母は舌打ちして呪文を唱え始めた。脳裏に、昼間の講師の言葉が浮かんだ。「何も身を護る術を持たないよりは、自由でいられると思うよ」──ゼオンは木刀で母に向けて斬りかかった。母がその斬撃を避けた瞬間、詠唱が途切れた。ゼオンは即座に部屋の扉を開いて、廊下へと逃げ出した。
「……うそ、だろ……?」
母の凶行から逃げ出すことができたのは、これが初めてだった。
自分で自分の現状が信じられなかった、まだ、姉と兄のやり取りが頭に残っている。まだ、今日は一つも傷を負っていない。ゼオンの手の中の封筒には「ローイエ・アポロン」という名前以外に何も書かれていなかった。だが、これは母にとっては知られてはいけない名前のようだった。
今日、ここから何ができる? 母に捕まるまでに、自分がすべきことは何だ? 廊下を駆けながら、ゼオンは必死で考えた。その時、正面にシャロンの姿が見え、ゼオンは慌てて立ち止まった。
「きゃあ! どうしたの、ゼオン。そんなに急いで」
「う、……ご、ごめん。その、急いでるから、じゃあ……」
その時、冷たく穏やかな声がゼオンの背に突き刺さった。
「ごきげんよう」
珍しく、母の表情、声色、仕草、全てから苛立ちが滲み出ていた。母の手がゼオンの腕に伸ばされようとした時……やはりというべきか、ペシンと渇いた音がした。シャロンは母・ゼルナの腕を払いのけながら、低い声で言った。
「ごきげんよう、お義母様。ゼオンに何をしていらっしゃるんです?」
「何って、もう寝る時間だから、部屋に連れていくところですのよ」
「本当ですか? そうとは思えないくらい、ゼオンは怯えているようでしたけど?」
「はぁ? 親が子供と一緒に寝て何がおかしいのよ」
そこからは、幾度も見た口論へと突入していった。母と姉は両者共に激しく怒鳴って威圧しあい、ゼオンはその間ずっと姉の後ろで立ちすくんでいた。
「シャロンさんってば、おかしなことなさるのね。ゼオンがそのように怯える一番の原因を作ったのはあなただというのに。どういう下心があるのか知りませんけど、もう少しご自分の罪を正しく反省なさったらどう?」
「下心とはどのような勘違いをなさっているのか知りませんけど、私は自分の幼さを自覚し、自分の過ちを繰り返さないように、自分にできることをしてるだけです」
「はぁ? 自分への慰めならうちの子を使うのはやめてくださらない? 気持ち悪いったらありゃしない」
二人の口論は激しくなる一方だった。もはや、母にとってシャロンは最も目障りな邪魔者と言うべき存在だった。昼間、ディオンが言っていたことが頭を過ぎる。その間にも、母はゼオンの手の中にある封筒をギラギラした目で睨みつけていた。どうにかこの場を切り抜けなきゃ。そして、母の目をシャロンから逸らさないと。そう考えたゼオンは、手の中の封筒を丸め、勢いよく宙に放り投げた。
「こンの……グズが……!」
母はこちらの狙いどおり宙を舞う封筒に手を伸ばし、その隙にゼオンは再び廊下を駆けだした。階段を駆け上がろうとしたところで、今度はディオンと鉢合わせした。
「わっ、どうしたんだ。そんなに急いで」
「兄貴、あっちであの母親と姉貴が喧嘩してる。行ってやってくれ。じゃあな」
「え? わかっ……って、ゼオン! お前はどこ行くんだ!?」
ディオンの声を後目に、ゼオンは無我夢中で階段を駆けあがった。母が封筒を取り戻したら、次の狙いは間違いなくゼオンの記憶だ。ゼオンは頭に残っている僅かな記憶を頼りに書庫へと駆けこんだ。内側からしっかりと鍵をかけた途端、思わず脚の力が抜け、床に座り込んでしまった。
「逃げ……れてる……まだ……こんな、ことが?」
母の怒りは高まる一方だったが、ゼオンの心はなぜか高揚感で満ちていた。これまで、毎晩のように繰り返される凶行から逃げられたことはなかった。あらゆる抵抗は封じられ、モノのように母のされるがままになっているしかなかった。だが今日は、自分の力で母に抵抗し、まだ逃げている。
「できるのか……俺にも……」
ゼオンは自分の腕の中にある木刀を見つめた。理不尽に抵抗する力は、自由を得る力でもある。今、それを確かに実感することができた。昼間、シャロンが言ったことを思い出してみる。「ゼオンは、何かやってみたいことはある?」────自分にやりたいことがあるとすれば、それは「母親を止めること」だ。
その為には、まず今自分の中に浮かんだ決意と、そこに至るまでの記憶を絶対に母に渡してはならない。ゼオンは書庫の本の中から、忘却術に関する本を探し出した。魔法に関してはまだきちんと教わったことはなかったが、本を頼りに自分である程度勉強したので、基本的な魔法はひととおり使える。忘却術を使ったことはまだなかったが、母が普段使っている魔法を思い出しながら、ゼオンは呪文を唱え始めた。
「存在を構築する数多の時間の欠片よ……我が手より虚無へと還れ……メール・ドゥ・オヴリオ!」
自分の周囲に魔法陣が浮かぶ。脚に力が入らなくなり、ゼオンは床に倒れ込んだ。灯りの無い部屋に星空のように自分の記憶が浮かび、煌めいた。次から次へと自分の頭から抜けていく記憶を見つめ、消すべき記憶に狙いを定め、撃ち抜いていった。
「大丈夫、これで……」
これで、シャロンとディオンを陥れずに済む。何も憶えていなければ、誰にも奪われない。
ゼオンの胸の内は達成感で満ちていた。生まれて初めて、母を出し抜いた。
「ざまあ……みろ……」
そう呟いた瞬間、記憶の消去は完了した。全身に力が入らず、意識も朧気になってきた。
もう、今日はここで寝てしまおうかな……そう思った時、外が騒がしくなった。
「たしか、こっちのほうに……いた、ゼオン!」
兄貴の声がする……「なんだよ」と答えようとした瞬間に、意識が途切れた。
◇ ◇ ◇
幼い頃、母の傀儡としてされるがままになっていたゼオンを辛うじてつなぎ留めていたものは、兄や姉への憧憬と、「いつか必ず母を止められるほどに強くなる」という小さな夢だった。
だが、憧憬は妬みと紙一重、小さな夢の裏には抑圧された怒りが存在していたのかもしれない。どれほど感情を抑圧されようと、他人に向けないように消し去ろうとしても、ゼオンがヒトである限り、喜怒哀楽全ての感情を殺し尽くすことはできやしない。
そのことを、七年前のあの日──あの杖を手にして、街一つ焼き尽くした日に、ゼオンは思い知らされた。
『ああ、愉快愉快愉快!! 何も知らない子供に悪いことを教えこむのって何て楽しいのかしら!!!』
頭の中で妖艶な女の声がした。ゼオンたちが暮らしてきた屋敷は灼熱の炎に飲み込まれていた。ゼオンの腕には、炎と同じ真紅の宝石が付いた杖が握られている。既に身体の自由は奪われ、意識は朦朧としていた。
『アイツもコイツも、あなたを虐げたんだから。あなたにはこの屋敷にいるヤツら全てを憎み、殺すべきなのよ。アッハハハハハハハハ!!!』
頭の中の声はゼオンの身体を自在に操り、屋敷の人間を次々と殺していった。止めようとすればするほど、声は甘く囁き、心を溶かす。
『イヤ? あなた、感情を抑えつけられた奴隷の分際で何を良い人ぶってるの。まさか自分が誰も憎まない特別な人だとでも思っていたわけ? なら、優しい私がちゃあんと自覚させてあげるわ。あなたの憎悪を』
意識がぼやけ、過去の自分の記憶が次々と浮かび上がってきた。母に殴られ、薬で昏睡させられ、魔術の実験台にもされ……様々な暴力を受けた記憶が一度に呼び覚まされた。
『辛かったでしょう? 赦せないでしょう?』
声は優しくゼオンの心を導く。
『だからこそ、いつか母親を止めると決めたんでしょう?』
身体は奪われ、心は麻痺したゼオンは声に導かれるまま、「憎悪」を胸にあの人のもとへと向かった。
『さあ。今こそ、あなたの夢を叶えて、兄と姉を護る時よ』
視線の先には、身体中を斬られて傷を負った母・ゼルナがいた。脚の傷は特に深く、もはや一人では立ち上がれないことは明らかだった。ゼルナはゼオンの顔を見据えると汚い表情で呟いた。
「全く……親として情けないわ」
母の目は涙で濡れており、弱々しい目でこちらを見上げていた。ドレスが破けて露わになった脚をこちらに差し出すような姿勢で座り、豊満な胸を腕で抱えながら泣き崩れた。
「なんて恐ろしい子なのかしら。あたくしは『悪いことをしてはいけません』って一生懸命躾けたのに。あなたのことを想わない日はなかったわ。母として精一杯愛してあげたのに、どうしてあなたはこんな酷いことをするの?」
母がそう言った途端、頭の中で誰かが大笑いした。
『アッハハハハ、傑作! なんて卑しい女! ひょっとしてギャグでも言ってるのかしら? 』
声の主はゼオンの身体を操り、問答無用で母を蹴り飛ばし、脚で押さえつけた。母は啜り泣きながらゼオンに訴えかけた。
「ごめんなさい、母さんが悪かったわ。あなたにも何か事情があったのよね? だからもうこんなことはやめて。このままだと、あなたの大事なお姉さんやお兄さんまで巻き込まれてしまうわよ」
姉や兄の話が出た途端、ゼオンは一瞬我に返った。だが、すぐに思考に靄がかかり、手足に糸を括り付けられたかのように身体が勝手に動いた。
『すっごぉい。ヒトってこんなにも卑しさを極められるのね! 私、コイツ気に入っちゃった!!』
声の主がそう言うと、ゼオンの身体が勝手に剣を振るい、腕と脚を何度も斬りつけた。
「ひどい、あんまりだわ……どうしてわかってくれないの……」
いつかの母と子の立場が逆転したかのように、ゼルナは地面に倒れ込んだまま泣いていた……が、突然、ゼルナの手がゼオンの足を掴んだ。
「……なんでわからないのよ。早く死ねって!!!」
足を掴んだ手を払い除けようとした瞬間に、ゼオンはぐらりと体勢を崩した。ゼルナはゼオンの髪を掴み、耳元で怒鳴った。
「ワイングラスが動くんじゃないわよ! 人の腹勝手に使って生まれておいて、どうして親の言うことを聞くっていう当たり前のことができないのよ!!!」
母は、どこまでも母だった。本来は整った顔立ちなのだろうが、眉間や鼻筋に無数の皺を寄せながらこちらを罵倒する時の顔は「醜悪」としか呼べなかった。全身を負傷しても尚、これまでの自分の行いを一切反省しないどころか、まるでこちらが悪いかのような物言いをする──頭に響く声の主は、そんなところを「卑しい」と言っているのだろう。
「なんでお前は、あたくしの言うとおりにしないのよ! なんでさっさとあたくしの旦那様にならないのよ……っ!!!!」
その瞬間、ゼオンは母から解放された。
『おめでとう、ゼオン。あなたの夢は叶ったわ』
母・ゼルナの腹には銀色に煌めく剣が深く突き刺さっていた。ゼオンの髪を掴んでいた手はだらしなく垂れ下がり、剣を抜いた瞬間、ゼルナは母からモノへと成り下がった。
ゼオンは身体も心も奪われた状態のまま、事の顛末をぼうっと眺めていた。怒ることも悲しむこともできず、ただ声の主の器と成り果てていた。
『アッハハハハ、最高のエンターテイメントだったわ。安心して、あなたのワイングラスは私が代わりに可愛がってあげるから。まあ、最後は捨てちゃうけど』
声の主は楽しそうに笑いながら、ゼオンの身体を次の獲物の場所へと導いていった。
『そうそう、ゼオン。思い出してみてほしいのだけど、母があれほどまでにあなたにキツく当たるようになったきっかけは、誰が作ったんだったかしら?』
ゼオンの視線の先には髪の長い女性がいた。華やかなドレスは破れ、腕には火傷の跡があった。これまで何度もゼオンを支え、救ってくれた姉の声を思い出した。その姉──シャロンが、ゼオンの剣の先にいた。
「ゼオン……何だか様子がおかしいわね。何があったの」
自分の全てを投げ売ってでも、「やめろ」と叫びたかった。だが、身体も心も他者に操られた状態では、声を発することすらできなかった。
『ウフフ、何も怖くないわ。楽しいだけよ。さあ、もっともっと燃やしましょ』
誰かが甘く囁いた。途端にゼオンの意識は薄れ、ゆっくりと眠りに堕ちていった。
◇ ◇ ◇
幼い頃は、母親がいない未来など考えたこともなかった。それほどまでに、母の存在はゼオンの心に暗い影を落としていたし、母を倒すことなどできるわけがないと思い込んでいた。
だが実際はあの日を境に母の存在もクロード家という檻も消え失せた。そして七年経った今……ゼオンは兄と姉のもとを離れて、辺境のロアル村のキラの家で、宿題の進捗を見ていた。
「うえぇん、宿題ぜんぜんわかんない……」
キラは頭を抱えながら机に突っ伏していた。
七年前のゼオンは、今の自分の姿を見たら何を想うだろう。今のゼオンは、問題集と白いノートを見つめながら唖然としていた。
「これ、明日提出だろ。何をどうしたら一行も書けないなんてことが起きるんだ」
「だってぜんぜんわかんないんだもん。ボウキョクジュツの魔法陣なんてもう何がなんだかさっぱりなんだもん」
「ボウキョクジュツじゃなくて忘却術だ。全く……間抜けな奴だな」
キラは顔をあげて「ぶーっ」と頬を膨らせた。風船みたいで面白かった。
「……しかたないな。ほら、何がわからないんだよ。教えてやるから」
そう言うと、キラは太陽のように笑った。
「やったあ! ゼオン、ありがとー!」
キラの笑顔を見ると、毎回どこかくすぐったいような気分になり、思わず視線を逸らしてしまうのだった。
「そーだ、ゼオン。喉乾かない? 昨日ね、ばーちゃんが美味しい葡萄が採れたからって、葡萄ジュース作ってくれたんだ! それ飲みながら宿題しようよ!」
「別にいいけど……」
「わーい! あのね、台所のほうにグラスがあってね、ジュースはあそこ。氷水で冷やしてあるから!」
ゼオンは言われたとおり、台所に向かった。硝子のコップを手に取り、氷水の中に入った陶器の器を持ち上げた。光を受けて煌めく器に、血のように真っ赤な液体が満たされる。ちょうど今が旬の時期だからかもしれない。ふわりと葡萄の甘い香りが辺りに広がった。
ジュースを注ぎ終えると、ゼオンはキラのところに戻り、グラスを渡した。
「ほら」
キラは手渡されたグラスを見つめて、声をあげた。
「えー、ゼオン。なんであたしの分しか持ってこなかったの?」
「お前が飲みたいってことかと……」
「『喉乾かない?』って言ったでしょ。一緒に飲もうよってことだよ。ちょっと待ってて!」
キラはぴょんと椅子から飛び降りると台所に向かった。そしてもう一つグラスを手に取ると、ゼオンが手渡したものとほぼ同じ量のジュースを注いで戻ってきた。
「はい、どーぞ!」
「……あり、がとう」
ゼオンは言われるがままにグラスを受け取り、ジュースを一口飲んだ。甘酸っぱくて、少し渋くて、クセになりそうな味だった。
丁度、キラも同じようにジュースを一口飲んだところだった。赤い液体を口に含み、嚥下した瞬間、いつにも増して瞳がきらきらと煌めき、幸せそうに微笑んだ。ただジュースを飲んでいるだけのはずなのに、ゼオンはキラから目が離せなかった。よくそこまでころころと表情を変えながら飲めるものだ。そう思いながら、手が届かないものでも見るような目でキラの横顔を見つめていた。
「むひゃー、おいしー」
キラの笑顔はまるで万華鏡だった。ころころと表情が変わり、ずっと見つめていると、このまま時が止まるのではないかとさえ思ってしまう。
そして、同時に恐ろしくなる。キラの笑顔を見つめている時に、自分の胸に湧き上がるこの想いは、かつて母が父に抱いたものと何がどのように違うのだろうか。違いなどあるのか。いつかこの想いは、キラを傷つけ、苦しめるのではないか。……好意の無い人から一方的に愛情を注がれることほど、悍ましいことは無い。
そんな恐怖を抱く度に、ゼオンは自分に言い聞かせた。大丈夫、我慢は得意だ。この笑顔を護りとおすためならば──なんだって諦められる。
「んじゃんじゃ、ゼオン。早速宿題教えて!」
ゼオンの想いなど知らずに、キラは今日も金平糖のように愛らしい笑顔を振りまく。ゼオンは「それでいい」と思い、恐怖と恋情を封じ込めて傍らに居続ける。
たとえこのまま二人の関係が何一つ変わらなかったとしても、ゼオンは満足してしまうのだろう。もしもこの関係を悲惨な方向へと変えてしまおうとする者が現れたら、何としてでもキラの盾となり、彼女の純真さを護り通そう。キラの微笑みに癒されるたびに、ゼオンはそう誓った。
そう。たとえ、身も心も、捧げてでも。




