ある休日の記憶(前編)
目を醒ますと、鼻先数センチのところにベニヤ板が浮いていた。視界は真っ暗、頭を上げると板にぶつかるということだけはわかる。身体じゅうがズキズキと痛み、何故かシャツの襟元は引きちぎられていた。
7歳のゼオンの「休み」の日の朝のことだった。ゼオンは、自分が今どこに、なぜいるのかわからなかった。昨日のことが全く思い出せない。いつものように母に引きずり込まれ、痛くて、苦しくて、気持ち悪くて、ろくでもないことを沢山されたことだけは朧げに記憶に残っていた。
とにかく、この暗黒の場所から抜け出せなければ起床できない。ゼオンは二度、寝返りを打ってみる。すると布に手が触れたので、そのままそちらに転がってみた。
視界が晴れた瞬間、湿った空気と今にも吐きそうな匂いが襲ってきた。どうやらそこは母の部屋のようだった。そうだ、たしか途中でノックの音がして、悪い物を隠すかのようにベッドの下に放り込まれたような記憶がある。そのまま、ベッドの下で気絶していたということか。幸い、母は既に部屋から出ていったようだが、身体はズキズキと精神にまで恐怖を刻み続けていた。
──これだから、「休み」は嫌いだ。そう思いながら、ゼオンは重い身体を起こした。
「ゼオン様! 一体、今が何時だと思っていらっしゃるのですか!」
母の部屋を出た後、ふらふらと自分の部屋に行こうとしたところで、ゼオンは年配の使用人に呼び止められた。
時間を確認せずに部屋を出てしまったので、
「……わかりません」
と答えたところ、
「口答えするものではありません! もう9時を回っているのですよ。朝食の時間はとっくに終わっております! 旦那様が大変お怒りでしたよ! 『全く、これだから穢れた血を引く者は精神まで拗けて』いると……」
そこから10分程、説教が続いた。ゼオンは心を無にして相槌を打ち続けた。
「というわけで、本日の朝食は抜きです。反省し、節度を持って過ごすようにと旦那様からのご命令です。よろしいですね?」
ゼオンが頷くと、ようやく年配の使用人は姿を消した。普段から食欲旺盛なほうではないので、朝食を抜かれたところで然程苦しくはなかったが、理由を説明する暇も与えられないことは少し不満だった。
だがひとまずは着替えが先だろう。自室に向かってあるき始めた時。急に視界が色褪せ、斜めに傾いた。
「あら、おはよう、ゼオン……あら、ちょっと、ゼオン?」
誰かの声が聞こえたが、顔を確かめる間もなく、体中に力が入らなくなった。
「ゼオン、ちょっと! しっかりして、ゼオン!」
この家に、この一族に、この世に、声を張り上げて自分の名前を呼ぶ人なんていたっけ──ぼんやりとそう考えながら、ゼオンは瞼を下ろした。
再び瞼を上げると、今度は視界が揺れていた。顔を上げると、窓の外の景色が走っていた。馬の鳴き声が聞こえたあたりで、ようやくゼオンは自分が馬車の中にいることに気づいた。
「ゼオン、大丈夫?」
透き通るような声がした。自分が寝ていた座席の向かい側でシャロンが心配そうにこちらを見つめていた。
「起き上がって平気なの? まだ顔色が悪いわ、寒くない? 熱は?」
「大丈夫……どこに行くんだ?」
「お医者様よ」
徐々に意識がはっきりしてきて、ゼオンは目の前にシャロンがいることの危険性をようやく思い出した。
「姉貴……なんでこんなことした。俺にかまうなって、前にも言ったよな」
「弟が目の前で倒れて、放っておけるわけないでしょ!」
「ほうっておけばいい。ほかのひとはみんなそうしている……し……」
再び視界がふらついた。床に頭をぶつけそうになったところで、シャロンがゼオンを支えた。
「ほら、言わんこっちゃないわ。もう少し横になってなさい。よしよし」
シャロンはゼオンを再び寝かせると、毛布をかけて頭を撫でた。こんなことしてたら親父に怒られるんじゃないのか。伯父や伯母にもまた白い目で見られるぞ。何より、あの母親が黙っていない──言いたいことは山ほどあったが、
「赤ん坊じゃないんだから、そういうのはやめてくれ……」
頭を撫でられることが気恥ずかしくて、ゼオンは頭から毛布を被って隠れた。
「貧血ですな」
医者は一通りゼオンの具合を見た後、そう告げた。ゼオンは「まあ、そうだろうな」と思った。
「それ以外は特に異常は見当たりませんが……弟さん、あまり栄養状態がよろしくないようですが、何か事情でも?」
大貴族クロード家の子でありながら、栄養状態が良くないのは不自然だと感じたのだろう。医者はシャロンを訝しげにじろじろと見つめた。
「……元から、少食だっただけだ。よけいな口を出すな」
ゼオンは医者を睨んでボソリと呟いた。シャロンが慌てて「すみません」と謝った。
「ご家庭にどんな事情があるかは存じませぬが……まあ、栄養のあるものをお腹いっぱい食べさせて、ゆっくり休ませれば回復するでしょう」
「あの、それだけですか? この子、時々こういうことがあるから……身体が弱いのではないかと思っているのですが」
シャロンは不安を押さえきれないようだった。シャロンの言うとおり、こうして貧血を起こして倒れかけたり、傷は「見えない」のに足元がおぼつかなかったりすることは時々あった。ゼオン自身はその理由に心当たりがあったが、一言も伝えずに黙っていた。
「いえ、身体が弱いということはないでしょう。この栄養状態にもかかわらず目立った病気が見つからないあたり、むしろ丈夫かと思いますよ。原因は他にあるかと。弟さんの周りをよく観察してください」
「そうですか……」
体調不良の原因は全て外部的要因だと見抜かれていたようだ。なるほど、この医者は優秀だ。ゼオンが無言で感心していると、医者はシャロンにこう告げた。
「とはいえ、やはりしっかりと食事を取らねば免疫力も低下しますから、今日のところは美味いものをたらふく食べさせてください」
「そうですね、そうします。先生、ありがとうございました」
二人は医者に礼をして、診察室を出ていった。
病院を出た後、ゼオンはすぐにシャロンと別れて立ち去ろうとした。だが、案の定シャロンはゼオンの服を掴んで引き止めた。
「もう、一人でどこ行くのよ」
「診察は終わったんだから、もういいだろう」
「よくないわ。お医者様に言われたことを忘れたの? 今日のゼオンは美味しいものをお腹いーっぱい食べるのが義務なのよ。おねーさまがご馳走してあげるからついてきなさい」
突然「義務」という重い言葉が飛び出したので、ゼオンはなんとなく嫌な予感がしていた。なんだか面倒なことになりそうだ。一方で、シャロンは突然パチンと手を叩いて嬉しそうに言った。
「そうだわ、せっかくだからディオンも呼びましょう! 今日は休日だし、たまには姉弟三人でランチもいいじゃない!」
「なんでそうなるんだよ。大体……」
「そうとなれば早速呼びましょう。たらららーん、全自動ディオン召喚機ぃー!」
シャロンは右手の指輪を得意げに見せびらかした。指輪に付いた水晶を軽く叩くと、淡く光り始めた。
「これねぇ、最近ディオンが見つけてきた魔法具なの。同じタイプの指輪を持っている人達と通信もできるのよ。便利でしょ」
むしろその通信が本来の役割であって、決してディオン召喚機ではないだろう。だが、ゼオンは敢えて黙っていた。その間にシャロンは指輪に話しかけ、ディオンにああでもないこうでもないと命じていた。
十数分後、本当にディオンがやってきた。シャロンはディオンの姿を見つけると、助走を付けて飛び上がり、額にデコピンをして弾き飛ばした。ディオンは数歩分飛ばされた後、額を押さえながら怒鳴った。
「だ、だから姉さん、出会い頭に蹴ったりはたいたりデコピンしたりはやめてくれ!」
「あらぁ、だってディオンってば、呼んだのにすぐ来ないんだもの! この指輪、ディオン召喚機として失格だわ!」
「それは召喚機じゃなくて通信機だと何度……」
その時、ゼオンとディオンの目が合った。ゼオンは気まずそうに目を逸らした。
「あの、姉さん……ここで何を……」
「ゼオンが倒れたのよ。だからお医者様に連れてきたの」
「倒れた……?」
「そうよ。何、私がゼオンといるのが不満?」
「いや、別に。それより……体調は大丈夫なのか?」
ディオンがゼオンに尋ねると、ゼオンは冷たく言い放った。
「問題無い。それより用は済んだから、伯父や伯母に見つかる前に、さっさとこの口煩い姉貴を連れて帰れ。……姉貴が心配なんだろう?」
ディオンは黙り込み、ゼオンはそのまま背を向けた。クソ兄貴は俺より姉貴を気遣っている。なら、共に食事など取るべきではない──ゼオンはそう考えて、一人で屋敷に帰ろうとした。姉弟で休日を過ごすなら、シャロンとディオンの二人で過ごすべきだ。シャロンは甲斐甲斐しくゼオンの世話を焼いているように見えているが、だからこそ伝わってくる。シャロンの優しさは、気遣いだ。つまり、ゼオンとシャロンの間には気を遣わなければならない距離があり、シャロンが真に気兼ねなく話せる相手はゼオンではなくディオンだ。
結局あの二人の姉弟の間に、俺が入る余地なんてない──そう思った瞬間、ゼオンは肩を掴まれて引き止められた。
「こーらーっ! 勝手にいなくならないの! 今日は三人でごはんなのよ! おねーさま命令よ、勝手に帰ったら駄目なのよ!」
シャロンは二人を無理矢理抱きしめながら、右手でゼオンを撫で、左手でディオンの髪を引っ張っていた。こうして捕まってしまうと、ゼオンはなんとなく逃げられない気分になってしまい、黙って頭を撫でられるしかなくなるのだった。三人でごはん。それが一体どんなものか想像がつかなくて、ゼオンはぼうっとしたままディオンと一緒に無理矢理馬車に連れ込まれた。
無事にゼオンとディオンの誘拐に成功すると、シャロンはウキウキしながら二人に言った。
「さあて、何を食べましょうか。さあディオン、いいお店を紹介しなさい?」
「いや、そんな都合よくいい店があるわけないだろ。というか姉さん、ゼオンは具合が悪いんだろ。外食なんてして大丈夫なのか?」
「だって貧血だし、栄養が足りてないから、美味しいものをお腹いっぱい食べさせなさいってお医者様が言うんだもの。家に帰ったら、どうせすぐにゼオンとは引き離されちゃうし、外食の方がまだ邪魔が入らなくていいわよ」
シャロンがそう説明すると、ディオンは急に黙り込んだ。
「何よ。あなたまで、私にゼオンと関わるなって言いたいの?」
「いや、そうじゃない。納得しただけだ。確かに、栄養を取らせるならむしろ外の方がいいな。とはいえ、このあたりだと父上や伯父伯母の息がかかった者も多くいるだろうから……そうだ。少し遠いが、いっそのことアズュールまで行かないか? あのあたりなら店の質は文句無いだろうし…………姉さん?」
ディオンの語りに、シャロンは多少圧倒されたようだった。だが、すぐにシャロンは暖かく微笑んだ。
「ふふ。あなたって、素直よね」
「そ、そうか……?」
「まあいいわ。それなら早速アズュールまで行くわよ!」
その声と共に、馬の声が高らかに響き、三人を載せた馬車はアズュールに向けて駆け出していった。
アズュールの城下町に入ったのはそれから30分程経った後だった。シャロンおすすめの店の前で、ディオンとゼオンは言葉を失っていた。
金だ。ひたすらに金色だ。店の壁から窓ガラスまで金箔に覆われており、店が視界に入るだけで眩しくて仕方がなかった。えへん、と胸を張るシャロンに対して、ディオンはため息をついて尋ねた。
「……なあ、姉さん。これ、本当に食べ物の店か?」
「当たり前よう。すっごく豪華で美味しいんだから!」
「ちなみに、何の料理の店なんだ?」
「霜降りステーキのフルコースよ! 元気が無い時は肉よ! 肉は全てを解決するわ!」
ディオンは頭を抱えながら、深い深い溜息をついた。
「だから姉さん。ゼオンは具合が悪いんだろ? いきなりステーキのフルコースは重いんじゃないか? 空きっ腹に大量に脂っこいものを食べさせたら、胃を悪くするかもしれないだろ」
「ええぇ? 男の子って、肉とステーキとハンバーグでできているんじゃないの?」
「姉さん。それは全部、肉だ。確かにそういう男子もたくさんいるが、ゼオンの体調を考えると、今は身体に負担をかけずにしっかり栄養を取れるものの方がいいんじゃないか?」
「えぇ、じゃあディオンは何がいいって言うのよう」
ディオンは周りをぐるりと見回して考え込み、こう提案した。
「隣の通りに、極東の民族料理の料理人の知り合いがいるんだ。油分も控えめだし、肉に野菜に豆や海藻類が少量ずつバランス良く入っているから、胃にもいいし、栄養もしっかり取れるよ」
「えー、慣れない物食べさせる方が身体に悪いんじゃないの? というか、色んな物を少量ずつ食べられるヘルシー料理って……ディオン、あなたの趣向は女子なの?」
「いや、そういうわけじゃないが、体調に合わせた料理を選ぶのは大切だろ」
シャロンとディオンが白熱した議論をしている横で、ゼオンは心を無にしながら馬車の窓から外を見つめていた。アズュールの城下町は華やかな看板の店が所狭しと並んでいた。アズュールに来慣れていないゼオンには、まるで別世界のように見えた。
しばらくして、シャロンとディオンは唐突にこう言い出した。
「そうだ、まだゼオンの食べたい物を聞いてなかったわ!」
「そういえばそうだな。ゼオン、何か食べたい物はあるか?」
ゼオンは全く生気の無い声で言った。
「なんかもう、食べられればなんでもいい……」
「ええーっ、遠慮せずに好きな物を言っていいのよ?」
「好きな物なんて思いつかないし、もうなんか……単純に腹が減ったから、何でもいいから早く食べたい……」
そう呟くと、ゼオンは毛布に包まって丸くなった。その様子を見て、ディオンが言った。
「ゼオンは、いつから食べてないんだ?」
「昨日の夜からよぅ。ゼオンってば、今日の朝ごはん食べてないもの」
「……いや、昨日の昼」
ゼオンがそう呟くと、シャロンとディオンの顔が青ざめた。
「昨日の昼ってことは、昨日の晩御飯も食べてないの!?」
「そうだな。こう……色々あって、食べられなかった。ここ最近、一日一食だ」
昨日はたしか、帰ったらすぐに母親に呼び出されたような──そうだ、たしかそれで今朝の状況になったのだ。
「なかなかゼオンに会わせてもらえないから普段の様子がわからないとはいえ……まさかそんなことになっていたとは……」
「貧血になるわけだわ……」
それと貧血とはおそらく別問題なのだが、ゼオンはそれを説明することを諦めていた。
「とにかく、早く決めてほしい。兄貴と姉貴の好きな店でいいから。あと、具合が悪いとは言っても、貧血以外に目立った症状は無いからそこまで気にしなくていい」
ゼオンとしては「早く決まればなんでもいい」という想いで言ったのだが、二人に任せればそう安易に決まるものでもないようだった。
「そう言われてもね……」
「俺は姉さんに合わせるよ」
「そうすると、このステーキフルコースになるわよ?」
「……それはちょっと」
その時、馬車の傍に一人の少年が近寄ってきた。どうやら獣人族のようで、頭にはキツネのような黄土色の耳があり、綿毛のような尻尾が生えていた。
少年は馬車の様子を見て、ディオンに声をかけた。
「あれ、旦那。こんなとこで何してるんっすか?」
「イヴァン? お前こそ何してるんだ?」
「殿下のおやつ調達っす!」
ゼオンとシャロンは、イヴァンとは初対面だった。ディオンは二人にこう説明する。
「城の見習い兵士のイヴァンだ。サバト王子のご友人でもあるんだ」
「よろしくっす!」
「そういえばイヴァン、お前、このあたりで昼飯に良い店を知らないか?」
「良いお店っすか? いろいろあるっすけど、どんなのがいいっすかね」
ディオンとシャロンが事情を説明すると、イヴァンはうんうんと相槌を打ちながら考え、こう答えた。
「それだったら、あっちの通りの奥にあるお店がおすすめっすよ! 獣人の店主がやってるお店で、旦那が言ってた極東の食材を取り入れたエンディルス料理っす! 民族料理そのまんまよりかは食べ慣れた味かと思うっすよ。店主が獣人な分、味付けが若干ウィゼート寄りっす」
「エンディルスの料理も、たしかフルコースが主流じゃなかったか?」
「いやいや、ランチ向けのお手軽メニューがあるっす。メインディッシュと、パンとサラダ。あと、追加料金でスープやデザートが付けられるっす。メインは肉と魚が選べるっすよ」
シャロンとディオンはしばらくあれこれと話し合い、最終的に「それでいいんじゃない?」という結論になった。だが、シャロンは最後に少し寂しそうに、
「でも、なかなか無い機会だから、ゼオンの食べたいものを思いっきり食べさせてあげたいのよねえ……」
と呟いた。ゼオンは横目でシャロンの様子をじっと見つめていた。それから、ゼオンは一言、イヴァンに尋ねた。
「……なあ、狐耳」
「俺はワンちゃんの獣人っす!」
「その店、デザートは美味いか?」
イヴァンはニカッと歯を見せて笑った。
「チョコレートのムースとか、どうっすか?」
その一言で、行き先は決定した。