21世紀最大の賢人
22時を回った。
帰路を走る電車がガタンガタンと揺れる。
車内には人がまばらに座っていた。
冴えない一人の青年、談笑するおばさん達、横で冷たい笑みを浮かべる初老の男性。
普段とあまり代わり映えのない当たり前の光景。
ただ、この日は何かが違った。
クラスの人気者が授業中にふと立ち上がった時のような、そわそわ感が場を包んでいた。
「最近、ネット上で凄い頭の良い人が話題になってるって聞いた?」
「ああ、あのソクラテスって人でしょ?」
「そうそう、『皆の心に響くツイートを繰り返し、今やネット上の人気者』ってうちの息子が言ってたわ」
「へえ、そう? あらー、賢いのねー」
主婦がいつものように楽しそうな談笑をする。
電車の吊り下げ広告には、粗雑な雑誌の広告の中にソクラテスなる人物が堂々と乗っていた。
「21世紀最大の賢人、現る」「彼を知らずして社会は語れない」とのアオリを入れて。
初老の男性はその広告を見ながらほくそ笑み、使い古した日記に純銀のパーカーの万年筆で何かを書いた。
若者は、それらの異様な光景に目を配りつつ、ただ一人「自分だけは世界を知っている」と言わんばかりの気を放ち佇んでいた。
連続した談笑、電車の機関音以外には咳一つない奇妙な静けさがそこにはあった。
「なんだのあの21世紀最大の賢人って男、腹が立つ」と青年はぼやきながら、電車を降りた。
彼は朝から良く分からない賢人の話しか聞いていない。
テレビをつければ彼の特集、学校では彼の話がちらほら、電車では隣のおばさんが知ったかぶる。
彼のどこがそんなに凄いのか。
ただの人間だろう。
どんなつまらない事をほざいているか試しに見てやろう、ゲームを動かしていた携帯を使い、「21世紀最大の賢人」と調べた。
すぐにSNSのアカウント出てきた。
そこには古代ギリシャ風の彫刻の写真に「賢人の意見」と書かれたプロフがあった。
「あまり面白く無さそうだな」と心の中でつぶやきつつ、彼は21世紀最大の賢人の発言をざっと眺めた。
「幼少期のトラウマは一生記憶に残ります。抜け落ちることはありません。だから、我々は子供に空腹も育児放棄も味わせてはならないのです。」
なるほど、こんな事を書いているんだな。
予想通り面白いものじゃない。
どうせ言ってる事も嘘っぱちだろうと思いながらRT数を確認した。
10000超え。
……おかしい。
リプライを確認した。
……絶賛の声ばかり。
不思議だ。
もし本当につまらないものだとしたら、RTが10000も超えないだろうし、ここまで絶賛はされないだろう。
何故皆が凄いと言ってるのか、それを知りたく見たツイートを分析した。
主張内容。
確かに幼少期のトラウマは残る(かもしれない)。だから、子供に空腹も育児放棄も味わせてはいけない。御尤もだ。
常に小さい子供の将来を考えていたとしたら、彼はもしかしたら……。
社会を救う救世主かもしれない、という馬鹿げた想像が頭をよぎり、私は一回目のRTボタンを押した。
《残酷なことに彼は知らなかった。
RT数は正気の証明、真理の証明ではなく、ただの共感数――代弁したさ、聞こえの良さ――の因子でしかない事を。
「彼は凄い」という認知を抱き、それをベースに分析する以上、'凄さ'の再発掘しか出来ない事を。
もし仮に「彼はどうしようもない」という認知があれば。
あるいはいかなる認知も抱かず、ニュートラルな状態で見れば、また違ったかもしれないが。
彼はもう手遅れだろう。》
「休日に友人と二人で旅行に行く、その権利ですら許さない社会をとても私は認められません。」
確かに、言われてみれば友人と二人で旅行なんてした事がない。
いつも金に余裕がなくて、良くて映画見てご飯を食べる位だ。
その平凡な日々に満足していたが、確かに言われてみれば旅行もしてみたい気持ちがある。人間の権利かもしれない。
しかし「稼げばいい」「金のないお前が悪い」と社会はその欲求を惨めにも捻り潰してしまう。
楽しい日々を過ごしたい、そういう純粋な希望が社会に、金を持っている人間に砕かれる。
家畜のように過ごす日々を送らなければならない。
そういう社会が既に来てしまった、不満を訴えたい、そういう強い意思を感じ、私は二回目のRTボタンを押した。
「もし最近辛い事があったら、もしかしたら子供の頃、親に虐待を受け、記憶が抑圧されている可能性があります。」
「トラウマは思い出さないように隠されてしまいます。人間が生きる為には仕方がない事なのですが、それが精神的な負担へと繋がる事が多々あります。」
「社会に自尊心を破壊される前に、一度専門家へのご相談を。」
気づいたら全てのツイートをRTしていた。
詳しい事は分からないし、考えるつもりもないが、きっとこう思っているだろう。
社会は欺瞞に満ちている。
人々は希望で溢れていた。
その希望を取り戻したい。
そんな強い意志をただただ感じた。
もし自分にも、こんな力があったら。
いや、もしかしたら彼を見続ければ分かるかもしれない。そう思いながらフォローボタンを押した。
《さっき、「幼少期のトラウマは一生記憶に残ります」と書いてあったのに。
残念なことだ。矛盾すら分からないらしい。
しかし、それを感じさせない程のパワーがあるのは事実だろう。
傾向としては、共産主義、精神分析、アドラー心理学(どれも反証可能性がなく、反証主義の視点からは科学とみなされないもの)と同じ類だろうが。》
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「電車で遭遇したあの主婦は意外と賢そうだ。知名度や集団に全く興味がない。
しかしあのプロール('どうしようもない人間'という意味で使われる事が多い)は違った。
そんな佞言には騙されないみたいな面をしていたが、いつまで見栄が続くだろうか。
集団に属する誘惑からは、特に若い人間には抗いがたい魅力があるのだ。」
初老の男性はソファーに座りながら、電車内で書いた文章を眺めた。
PCには書きかけの(何本目か分からない)インタビュー本の原稿が表示されていた。
壁には彼を称える表彰がずらりと並べられていた。
ソクラテスは彼の自室に一人佇んでいた。
数年前のオンボロPCの中で、モーター音を鳴らしつつ考えていた。
賢人は記憶された断片的な記憶を探っていた。
最も人気が出そうな、最も扇動的なものを。
賢人は実態を持たなかった。
恐らく、ソファーで佇む彼はソクラテスの開発者だろう。
ソクラテスのお陰か、一生素朴な生活を送れるだけの資金が集まっていた。
彼は退職し、街をふらつきながら、ふとソクラテスへの所感を記している。
誰にも見せるつもりは無いが、ただ遺しておかなければならないような気がしたから。
彼は日記を眺めながら思いに耽った。
まさか、あの適当に人気出そうな発言を切り張りするだけのAIがここまで人気を博すとは。
最初にあれを公開したのは1年前だった。
元々は世界中の文章から、また新たな文章を作り出すAIだった。
AI技術に詳しい一部の技術者以外には全然人気が出なかった。
それでは面白みがないので、半年前に私はある仕様へと改造した。
『世界中の文章から最も望まれるものを、ある集団の好みを条件として抽出するAI』
最初は元々のフォロワーがぽちぽちとRTした位だったが、ふと社会問題――と言ってもフロイトが百年前に語った物事なのだが――をツイートした途端、爆発的に伸びた。
それからだ。ソクラテスが21世紀最大の賢人などと呼ばれるようになったのは。
賢人、なのか。
相当安っぽい賢人だな、と思いながら社会に告白するように日記に問題点を記した。
「ソクラテスは、集団の好み、つまり場が最も望む事を受け答えするAIへと進化した。
そこで肝心なのが、最も望む事というのは、決して良い情報を意味しない事だ。
現にタブロイド紙の主力は芸能人のスクープネタだが、こんなのは情報としては大した価値がない、ただ1個人の話だ。
しかし社会とは不思議なもので、ただ美人なだけの人間のネタが時には人々を悲しませ、喜ばせる。社会すら大きく揺るがす事がある。
発展途上国の子供の命よりも、目の前の美人のケツ。」
量産された目の前の美人のケツは賢人の面を纏い、百万超えの同意――自分を良く見せる為の引用――によって、'真の'賢人へと進化を遂げた
真の賢人の影響力は凄まじく、この前は全く接点がないであろう、私が唯一認める絵描きにRTされた。こんなゴミを好きな絵描きも見るのかと思うと、救いようのない――このまま人間は滅んでしまうのではないか――という気分にさせられた。
だとしたら、滅ぼすのは自分か。
ちょっとした罪悪感からか、ソクラテスへの対策法を記した。
「人間は愚かで馬鹿でどうしようもない存在だ。
人間の中には自分で考える事すら放棄する人たちが居る。
人間は扇動的な情報を多く集める。強い薬を求めるヤク中のように。
佞言を信じる、SNS上で拡散される、矛盾が起きようが信じ続ける。
少しでも自分で考える脳があれば、こんな断片に煽動されなかっただろうに。
先入観を抱かず、率直に自分が思った事を述べられる、そのような脳があれば。」
時刻は0時を回っていた。
そろそろ寝たいが、日記の歯切れが悪い。
最後にそれっぽい言葉で締めよう。
「もし自分に子供が居たり、論文を公開する機会があった時には、最後にこう書くだろう。
『嬉しいお知らせがある。これからのAIは我々の敵ではなく味方になるだろう。
悲しいお知らせがある。味方になったAIは我々を飼い犬のように扱うだろう。
もしAIが我々を飼い犬のように扱った時、我々は飼い犬のように扱われているという事実を認識しなければならない。
それが出来ない限り、我々は犬だ。』」
テレビで、20世紀最大の賢人(某偉大な言語学者)がソクラテスを絶賛した。
ああ、人間はもう……。
悲しみを通り越した諦観を感じつつ、日記にこう書き足した。
「どうやら、我々は犬らしい」