8 二人だけのダンス
――アイドル歌手の真似をして踊ったり、運動会や文化祭でダンスをやったりした経験は、ある。
でも、『感謝の典礼』のダンスはそういうのとは全然違った。何しろ音楽からして、こんなリズムの曲なんて聞いたことない、という感じなのだ。おそらくこちらではそんなに難しくない踊りなのに、文化が違うということは大きい。
足に気を取られると、手の動きを忘れる。もちろんその逆も。
「あせらなくていいのよ、シオン。何度もやっているうちに、身体が覚えます」
メリーは根気よく教えてくれ、私は少しずつダンスを覚えていった。
一度身体を壊して回復してからこっち、運動らしい運動をしてこなかったので、最初は身体がしんどくて……でも、それも少しずつ平気になった。
一方、遠い記憶の中からかろうじて歌を何曲か思いだした私は、メリーにだいたいの歌詞の内容を教えて好きな歌を選んでもらった。
童謡から歌謡曲まであったけど、彼女が選んだのは二人組女性ユニットの歌。教科書にも載ったし合唱コンクールでも歌われているもので、未来へとまっすぐな眼差しを向けるような歌詞がメリーの心に響いたらしい。
「この歌は二人の女性が作ったんだけど、すごく仲のいい友人同士なの」
そう教えると、メリーは優しい笑みを浮かべた。
「素敵。私も、シオンがチェディスに帰っても忘れられないようなお友達になりたいわ」
……チェディスには、帰らないんだけどね……
でも、仲良くなりたい気持ちは私も一緒だった。
録音機器がないので、私はメリーの家に行くたびにその歌を歌った。恥ずかしかったけど、何度も何度も、歌った。メリーも熱心に練習してくれた。
歌には記憶が伴っている。時々、脳裏を日本の記憶がよぎっていく。それが辛くて、でもそれに触れていたくて、まるで氷の心に恐る恐る頬ずりでもするように、私は歌と触れ合った。
メリーの家に行くときはいつも、ネビアが付いてきてくれる。そして、終わるまで待っていてくれた。
メリーに挨拶をし、ネビアに付き添われて外に出る。公邸までは、歩いて十五分ほどの道のりだ。
石畳の道が、固い感触を伝えてくる。少し疲れてしまい、ゆっくり歩いていると、斜め後ろの方から声がした。
「シオン殿」
振り向くと、馬車がすぐ横に止まるところだった。扉が開き、顔を覗かせたのは――おおっと、デルスさん。
「乗ってください、お送りしましょう」
「ありがとうございます。でも、運動がてら歩いて帰るので」
「しかし、お疲れの様子だ……では私もお付き合いしましょう。何かあったらお助けできるようにね」
デルスさんは馬車を降りてきてしまった。
え、この人と一緒に歩くの、と思っていると、彼は軽く左腕の肘を出しながら言う。
「妻の授業はキツいでしょう、私も一曲教わったことがあるがヘトヘトになってね」
情けない表情を作るデルスさんに、私は少し警戒心を解いた。この人にとっての恐妻であるメリーの話をしながら歩くなら、それがストッパーになると思ったからだ。
ちょっと心配そうに私を見ているネビアにうなずいてから、私はデルスさんの肘に軽く手をかけた。女性が歩くとき男性にエスコートしてもらうのは、貴族の習慣だ。
「大丈夫です、なかなか覚えられない私に根気強く教えてくれます。優しい方に仲良くして頂いて嬉しい」
「そうですか、それならよかった。でも私には本当に厳しいんですよ」
デルスさんは歩きながら、小さくため息をつく。そして続けた。
「シオン殿と話をしていると、落ち着きます。失礼ながら、見た目よりずっと大人の女性なんだなと」
……それはどうかな……
「ああ、シオン殿、あそこを見て下さい」
不意にデルスさんが指差したので、私は顔を上げた。
この辺り一帯を囲む木々の向こうに、山が連なって見えている。その中腹に、突き出すようにして赤い屋根の屋敷が見えた。
デルスさんは微笑む。
「我が家の別荘なんです。天気がいいと、海の向こうにチェディスがうっすら見えますよ。この週末にでもご案内したいな」
うえっ、この人、諦めてなかったんだ。
この週末はチェディスから要人が来て舞踏会が開かれる関係で、メリーは王女様の付き添い、オルセードは要人警護で忙しい。デルスさんは議員だから知ってるはずだよ。その間に私と遊ぼう、って?
メリーの話をしたって、ストッパーになんかならないんだ。だってそういう文化だから。私の方がつい、日本の常識に引きずられて思い込んでしまった。逆に、ハッキリ断らないでいたら気を持たせることになって、私の方が不誠実なのかもしれない。
私は首を横に振った。
「ごめんなさい。私、夫の相手で精一杯なので、他の方とはお付き合いしません」
嘘はついてない。私とオルセードがお互いのことを考えるとき、一体どれだけの感情が入り混じることか。もうそれだけで精一杯で、他の異性がそこに入る余裕なんて、ない。
別に、今の私の言葉をデルスさんが性的なことだと解釈してくれたって構わない。彼は大人の会話をお望みのようだから。
「これは参ったな、武官殿は情熱的だ」
案の定、デルスさんは引きつったような笑いを浮かべて私に――私の身体に視線をやった。
「お身体を大切に」
余計なお世話だ。
公邸に戻り、部屋で少し眠って、目を覚ますと夕方だった。
最近、夕食前に庭を散歩するのが日課になっている。私は今日もぶらりと、公邸の庭に出た。
綺麗な花を眺め、風の運んで来る香りを感じて。デルスさんのことは心から追い出して、そのスペースを綺麗な花でいっぱいにする。
――気づくと、私は無意識にあの歌を口ずさんでいた。歌いすぎて、とうとう癖になってしまったみたい。
はっとして口をつぐみ、急いであたりを見回す。
すぐそこ、庭に面した外廊下でオルセードが足を止めていた。
帰って来てたんだ。
反射的にその場から逃げだそうとして、「シオン」と呼び止められた。オルセードが庭に降りてくる。
ああもう、やっとメリーの前で歌うのは恥ずかしくなくなってきたのに、オルセードに聞かれるなんて。
何か言おうとする彼をにらみつけて黙らせようとしたけれど、オルセードは私の視線をものともせずに微笑んだ。
「君の歌声は、柔らかくて、甘いな」
「やめて、忘れて」
目を逸らして言うと、オルセードは不意に私の手を取った。視線を戻すと、彼は微笑んだまま、言う。
「忘れるどころか……いや、君が恥ずかしがるからやめておこう」
……何かムカつく。
内心ぶすくれていると、オルセードは話を変えた。
「昨日、王宮でディメリア殿と会った」
メリーと? ……あっ。
後ろめたい気分になった私に、オルセードは続ける。
「シオンは、俺に何か言うのを忘れていないか? そろそろ言ってくれるかと待っているんだが」
「…………もう少し、練習してからと思って」
「早い方がいいと、彼女は言っていた。もう君は踊れるから、と」
彼はそういうと、すっ、と流れるような動作で、私の手を取ったままひざまずいた。そして、手の甲に口づけると、私を見上げる。
濃い緑の瞳が、私を求める。
「美しい方。俺と、踊ってほしい」
……ああ、失敗した。
典礼では人前でオルセードと踊るんだから、メリーに「武官殿とも練習してね」と言われていたんだけど、ついつい先延ばしにしていたのだ。私から淡々と「練習につきあって」と言えば、こんな芝居がかったシチュエーションにはならなかったのに、これじゃあよけいに恥ずかしい。
「……じゃあ、練習につきあって」
歌を聞かれた動揺も抜けきらないまま、ついぶっきらぼうに言うと、オルセードは立ち上がった。
「シオン、俺たちは『夫婦』で参加する。エスティスではごく普通の風景だ」
わかってる。エスティスの行事で夫婦が踊る、そんなの何も恥ずかしいことじゃない。自意識過剰はやめにしなくちゃ。
「踊ろう」
オルセードは私の手を握り直すと、もう片方の手で私の腰を引き寄せた。
緑の庭園は夕暮れに染まり、木々やあずまやの片側に濃い影を作っている。
その影をひとつひとつ渡るようにして、私たちは踊る。
……踊り出してしまえば、思ったより恥ずかしくないことに私は気づいた。
あまり踊らない文化で育った私にとって、踊るときに恥ずかしさを振り切るというのが、意外と難しい。思い切った動作ができないからだ。
考えすぎかもしれないけど、メリーが私に歌を歌わせたのは、恥ずかしさを振り切るためだったりして……?
それなら、私が彼女に歌を教えることさえダンスの授業の一環で、私はレッスン代を払っていないようなもの。あんまり遠慮しないでほしいのに。
オルセードのリードは巧みで、最初はちらちらと足下を気にしていた私も、いつしか顔を上げていた。
見つめ合って、体温を感じて、一緒に同じものを求めて。
普通じゃない私たちが、普通の夫婦でいられるひととき。
初めて、私は踊るのが好きだ、と思った。