4 貴族の恋愛事情
私を馬に乗せ、オルセードとネビアは歩く、という道のりだったけど、さすがにそれ以上は何事もなく公邸に帰宅することができた。
オルセードはすぐに官邸での仕事に戻り、夕方に改めて、いつもよりも早く帰ってきた。
「シオン、あれから体調は何ともないか」
彼は書斎で私を見つけるなり、足早に近寄ってくる。膝に本を載せていた私は、ソファに座ったまま彼を見上げた。
「私は大丈夫。薬関係の事件って、多いの?」
「いや。ただチェディスに比べれば、そういった薬物を使うことへの精神的垣根が低いかもしれない。合法のものもあるそうだから」
話しながら、彼はひざまずいて私の様子を観察する。
「君はしばらく出かけない方がいい」
「ちょっと待ってよ。それはまた別の話だよね」
「…………」
「どうして私を外に出したくないのか、説明してくれるんじゃなかった?」
私は顔を背けつつ、横目で彼を見た。
「貴族の奥方の仕事なんて、社交がメインなんじゃないの? 人間関係とかは勉強しないといけないけど、挨拶くらいできるのに。レビアナお祖母さんのところに行った時みたいじゃ、ダメだった?」
「いや、そんなことはない。シオンは立派だった」
「それなら、誰か来ても挨拶もしなくていい、町の人と交流するのもダメっていうのは、おかしい。どういうことか説明して」
オルセードは視線を泳がせる。
「それは……」
「あ」
唐突に思いついて、私はそれを口にした。
「もしかして、私の代わりに奥さん役をする女性がいるの?」
だってほら、オルセードのお父さんも奥さんがいなかったけど、新しい恋人が手伝ったとか何とか聞いたように思う。官邸に、そういう役割をする女性がいるのかもしれない。
「そういうことなら、私は目立たない方がいいけど。そうならそうと前もって説明し」
「待てシオン、俺にはシオンだけだ!」
必死の形相になるオルセード。
……何だか、変な感じ。私たちは形だけの夫婦で、つまり仮面夫婦ってやつで。そりゃ、オルセードが今さら恋人を作ったら、一応既婚者だし私に償うとか言ってたのはどうした? って思うだろうけど、そもそもチェディスでもオルセードが結婚した場合のこととか考えてたしなぁ。
……待って。逆はどう? 私がもし恋人を作ったら、オルセードはどう……え?
もしかして、オルセードが私を隠そうとしているのは、恋人を作るかもしれないと思ったから? ええと、何だっけ、「こちらの人間はチェディスより遠慮がない。いきなり距離を詰めてくるようなところがある」だっけ? それに、デルス議員さんのあのナチュラルなお誘い……
私はスパッと聞いた。
「オルセード。こっちってもしかして、恋愛に奔放なの?」
「……っ……」
彼は黙りこくってしまった。
こちらも口をつぐんでしばらく待っていると、やがて低い声。
「……こちらでは、貴族は恋人を持つのが普通らしい……夫も妻も、互いにそれを黙認すると……」
ははあ。
聞いたことがある。昔のフランス宮廷とか、そんな感じだったって。こっちもそうなんだ。
「じゃあ、今日私に声をかけてきた人は……」
「誰なんだ」
「言わない。でも、家に誘われた理由がこれでやっとわかった」
「誰なんだ」
「言わない」
夫が黙認しなきゃいけないような文化なら、生真面目なオルセードは知らない方がいいよ。トラブルの元だ。
「シオン、とにかくそれは『あなたの恋人に立候補する、自分を選んでくれ』という意味なんだ」
オルセード、眉間に深い皺。歯ぎしりしそうな様子だ。
彼にしてみたら、気が気じゃないんだろうな。彼の立場的には、私が恋人を作っても文句が言えない。こっちの国に来てさらに「それが普通」みたいになってしまったわけだから。
日本じゃ、不倫なんてしたらもう大変なんだけどな。離婚理由になるどころじゃなくて、社会的に抹殺される勢いというか。そういうものだと思って育ってきた私も、不倫する気なんかさらさらない。
でも、それを懇切丁寧に説明してオルセードを安心させてあげるのも、何だか違う。それじゃあまるで、愛し合ってる夫婦みたいじゃない。
「忘れないで、オルセード」
私は少し前屈みになって、オルセードに顔を近づけた。
「私はまだ、あなたを罰し終えてないんだよ。……まだ、あなたから、全部断ち切ってない」
オルセードは今、チェディスからやってきた駐在武官。まだ、チェディスとつながっている。
「任期が終わったら、あなたは私と別の国に行く。あなたに恋人ができていても、私に恋人ができていても、関係ない」
軽く、唇を合わせた。私にとって、キスは彼を縛るもの。
唇を離して、続ける。
「全部捨てて、私と二人で行くの。その時に面倒なことになるの、私は嫌なんだけど」
「シオン」
私しか映っていないオルセードの瞳を見て、少しいじめたくなった。
「その時にすっぱり別れられるような、割り切った関係なら、アリかもしれないけど」
「シオン……」
微妙に涙目になったオルセードが可哀想で、少し愛おしくて。
さっきはなかなか格好良かったのに、こんな文化のこの国にいる間ずっと、彼は可哀想であり続けるんだ。
そう思うと、愛おしい一方でうんざりするような……とても面倒くさいような、変な気持ちだった。
それから数日経って、私はオルセードと一緒に、エスティスの王宮に行くことになった。国王夫妻にご挨拶するためだ。
昼食を共にするということで緊張したけど、国王夫妻はオルセードの前任者、つまりオルセードのお父さんのセヴィアスさんと親しかったそうで、その息子夫妻である私たちにもフレンドリーに接して下さった。私については、オルセードが任務中に出会った人物でチェディスの国家機密に関わるため、生い立ちなどは詳しく話せない……みたいなことになっている。おかげで、根ほり葉ほり聞かれずに済んで、ホッとした。
ものすごい色男の国王陛下と、逆に割と清楚なタイプの王妃陛下は、「王宮内をゆっくりご覧になっていって下さい」と言って次の公務に向かっていった。
「シオン、疲れてはいないか」
オルセードが私の顔をのぞき込む。私は首を横に振った。
「大丈夫。何だかすごく、気を使っていただいたみたい」
ホッとしたせいか、私は少し饒舌になる。
「私みたいな変わった人間をちゃんと扱って下さって、逆に悪いような……。でもせっかくだから、王宮の中も少し見てみたいな」
「そうか。俺もこの先の建物に少し用事があるから、ぐるっと回って帰ろう」
オルセードは微笑んで、左の肘を差し出した。私はそこに右手をかける。
舞踏会の行われる大広間や、絵画の飾られた回廊を見学させてもらい、それから渡り廊下を渡って隣の建物に入った。そこには立派な議事堂や議員会館があって、何人かの人が出入りしている。
……ん? 議員?
「シオン」
オルセードが私を見た。
「外相と打ち合わせがある。すぐに済ませるから、一緒に来てくれるか」
「え……と」
私は迷った。
数日前、書店で会った人が議員のデルスさんだってことは、オルセードには話していない。出くわしたら嫌だから、あの人がいそうな場所にはあまり行きたくない。
窓の外に庭園が見えたので、私は言った。
「あそこにあずまやがあるから、あそこで待っててもいいかな」
私が何か頼んだとき、オルセードはそれに否ということはほとんどない。だからって、それをガンガン利用してはしていないつもりだけど、今回は……できれば議員会館はスルーしたい。
「君がそうしたいなら。しかし、離れるのは心配だ」
本当に心配そうに私を見るオルセード。相変わらずの過保護だ。
「王宮の中で何があるっていうの? 私はあずまやから離れない。約束する」
彼の肘から手を離すと、ようやくオルセードはうなずいた。
「気をつけて」
私もうなずき返し、議事堂の正面玄関から外に出た。