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13 涙が溶かすもの

 ベッドは私のものより一回り大きくて、天蓋からは赤い天鵞絨のカーテンがかかっていた。


 カーテンに包まれた広いシーツの海に、オルセードと私は沈み込む。

 私の顔の横に両手を突いているオルセードが、戸惑った声で言った。

「俺は君を、愛していいのか?」

「私、愛し合えない人と結婚なんかしない」

 答える私の声まで、少しかすれた。オルセードは眉根を寄せる。

「しかし……まだ思い出していないのに」


 ……私も、考えなかったわけじゃない。もしも後でオルセードの記憶が戻って、記憶がない間に自分が私と結ばれたなんて知ったら、彼は……

 でも、もう後戻りはしない。私との関係を疑う彼を、魂以外でもつなぎ止めないと、遠くまで連れ去ることはできない。

 私たちはずっと、一緒だ。チェディスには帰さない。


「思い出すまで、待たせる気?」

 私は少し、強い調子で言う。

「オルセード。私の望みを叶えて」

 手を伸ばして、彼の頬に触れた。命令するのは嫌だったけど、彼は私の言葉に逆らえないはずだ。

「私の名前、呼んで」

「シオン」

 オルセードの瞳が、熱に支配される。


 私たちは深く口づけ合った。彼の大きな手が、私の首筋を辿って降りる。ボタンが外れ、素肌に指が触れて、反射的に私は身体を固くした。

 ちゃんと、彼を受け入れなくては。

「シオン」

 オルセードは何度も、吐息と共に私の名前をつぶやいた。そして、彼の顔が私の胸元に……


「……う……っ」

 うめき声がした。


 はっ、と私は身体を起こした。

 オルセードが私の横に転がる。彼は右手で、自分の頭をつかむように押さえた。

「オルセード」

「だめだシオン……俺はこんな風に……ぐっ」

 いけない、無理をさせてしまった?

「頭が痛いの? 待って、今お医者さんを」

 胸元をかきあわせながらベッドを降りようとした瞬間。


 彼の左手が私の腕をつかみ、強く引いた。


「あ」

 大きな身体の下に引きずりこまれた。

 ベッドが大きく軋み、組み敷かれる。

 息が止まるほど、強く抱きしめられた。


 動けない。

 ――時間が、止まったような感覚。


 一瞬後、ふっ、と力が緩んだ。


 私は喘ぎながら、オルセードの胸に手を突っ張るようにして上半身を離させた。

 オルセードは、信じられないといった表情で、目を見開いている。

「シオン」

「……オルセード?」

 胸元を押さえながら探るように見つめると、彼はがばっと身体を起こした。

「なぜこんな……君から離れたつもりだったのに。シオン、まさか俺は君に乱暴を」

「してない、してないから」

 続いて起きあがりながら急いで否定すると、オルセードは額を押さえた。

「どうして飲むとき、あんな薬に気づかなかったのか……済まないシオン、俺はまた(・・)、君から大事なものを奪うところだった」


 私は少し呆然となり――


 ――急に視界がぼやけたと思ったら、頰を涙が伝っていた。


「シオン」   

「……よかった」

「済まないシオン、怖かっただろう。本当に悪かった」

 オルセードは私が、間一髪で恐怖から免れて泣いているのだと思っているらしい。私の肩に手を置き、焦りを含んだ声で必死に謝っている。


 私は何とか涙を止めようとしたけれど、まさに蛇口の壊れた水道のように、こぼれ落ちるものを止められない。一体、どうしちゃったんだろう。

 オルセードに文句を言う声も、少し震えた。

「全く、どんだけ真面目なの? 私を抱きたくないから記憶を失って、私を抱きたくないから記憶が戻るなんて。ばかみたい」

「シオン……こんなに泣いて、やはり俺が何か」

「違う! いいから一応、お医者さんに診てもらって。呼ぶから。話はそれから」

 私は片手で顔を隠すようにしながら、素早くベッドをすべり降りた。

 だめだ、どうしても涙が止まらない。とにかく一度、逃げよう。


「シオン、待ってくれ」

 オルセードはすぐに私を追ってきた。ベッドの横で捕まり、彼の方を向かされ、抱きしめられる。

「……離して」

「君が泣き止むまで、離さない」

「私の言うこと、聞いて」

「俺のせいで泣く君を、一人になどできない」


 この生真面目男め。

 私は彼の肩のあたりで、冷たく言った。

「じゃあ何か拭くものちょうだい。ぐしゃぐしゃの顔を晒したくない」


「わかった」

 今度は彼はすぐに言うことを聞き、私を気にしながらもベッドの横のチェストにハンカチを取りに行った。

 その隙に、素早く部屋を脱出する。

「シオン?」

 オルセードのあわてた声が、閉まる扉に遮られた。


 自分の部屋に逃げ込み、閉めた扉に寄りかかった。何とか涙を止めようとしながら、私はつぶやく。

「……よかった」 

 涙の雫と、氷がわずかに融ける雫が、瞼の裏で七色に光った気がした。



 

 それからしばらくの間、オルセードはうっとうしいくらい大反省の日々を送った。

 まず、自分が私を一時的にでも忘れていたことを知って愕然とし、次に私との関係を疑ったと知って真っ青になり、土下座しそうな勢いで私に謝罪。そして、ソファに座った私の前にひざまずき、真剣な顔で言った。

「俺に何かあった時のために遺書は用意しているが、こんな事態は想定していなかった。もし記憶が戻らなかったら、どうなっていたか。本当に済まない」


「わかったから、とにかく座って。……私も、謝らなくちゃと思ってた。デルスさんに誘われてたこと、言わなかったから。……ごめんなさい」

 ようやくオルセードに言うと、彼は私の隣に腰かけ、私の手を取る。

「謝らないでくれ。君が言い出せなかったのは俺のせいだとも言える。……確かにそれを知っていれば、俺の方からデルス伯爵を牽制することもできたかもしれないが」


 いや、だから、その『牽制』のために何をするかわからなくて言えなかったんだって。


「剣で報復とか、しないでよね」

 一応、釘をさす。正直、議員に決闘を申し込みかねないと私は思っていた。

 オルセードは首を横に振る。

「もう、俺は謝罪を受け入れたのだろう? 今後の付き合いで報いてもらう、と。それに、議員は剣の扱いができる人物ではないようだ。そんな彼に剣で何かすることはない」

 そうだった、そういうところは彼は真面目なのだった。


 オルセードは、私の手をきゅっと握った。

「また君を辛い目に遭わせた。不安だっただろう」

「……少し」

 そう言ってみたものの、「少し」なんかじゃなかったのはバレバレらしい。オルセードは私を包むように抱きしめる。

「俺が君の足手まといになるようだったら、切り捨ててくれ……と、本当なら言うべきなのだろう。それでも俺は……」


 うん。記憶を失っても、あなたは私を愛そうとしていたよね。

 私は彼の胸に頭を預け、頬にオルセードの体温を感じながら、こっそり涙を拭いた。

 あの夜以来、ものすごく涙もろくなっていて、ちょっとしたきっかけですぐにこうなってしまう。オルセードは気づいてるだろうか。

 氷がどんどん溶けてしまうようで、私を守るものがなくなってしまうようで、少し怖い。でも、嫌な感じはしなかった。


 気を取り直すように、私は抱きしめられたままで言った。

「記憶が戻る前、メリーに少し、話した」

「何を?」

「私が、チェディスに戻るつもりがないこと。だから、記憶を失ったオルセードがチェディスに帰るなら、私たち夫婦は離れることになるって」



 オルセードの記憶が戻ったことを伝えると、メリーは涙ぐんで喜んだ。

「良かったわ……! 夫の事で、あなたたちの夫婦関係を壊すことにでもなったら、もうどうしていいかと。エスティスでも最大のタブーよ、もちろん」

 私は答える。

「もしあのままだったら、私は夫も、友達も失うところだった。あんなことがあったら、メリーは悪くないのに、私と友達関係なんて続けてくれないんじゃないかって。だから、本当に良かった」

「シオン……これからも友達でいてくれるのね」

 メリーはハンカチで目元を拭きながら微笑み、でもすぐに表情を改めた。

「でも、起こったことは起こったこと。私たち夫婦は、あなた方夫婦に償いをしなくてはならないわ」

「デルスさんがちゃんと謝りに来てくれたから。これからオルセードを助けてくれるって……だから、それでいいんです」

 私は答え、そして続ける。

「償うことって、お互いにしんどくなってしまうことがあるから……私はメリーとは、元通りの関係になれるなら、そっちの方がいいの」

 メリーは私の手を握って、強い視線で答えた。

「それでは、友達として。シオン、私は、あなたと武官殿のためになることなら、何でも力を貸すと約束しましょう」



「ディメリア殿はそう言ったのか」

 触れ合う身体から、オルセードの低い声が響いてくる。私はうなずいた。

「オルセードは、ティグシアを候補に考えているんでしょ」

「ああ」

「ティグシアにするなら、私たちが行方をくらますときにも、メリーが助けてくれると思う」


 霧にぼやけていた未来への道筋が、ゆっくりと晴れていく。

 あと二年……でもその間に、私もメリーにダンスのお礼をしなくちゃね。


「せっかくできた友人と、また離れることになってしまうな。……今まで以上に、俺が君を守る」

 オルセードは私をいっそう強く抱き締め、私の頭に頬を寄せた。

「愛してる。君と一緒にいるためなら、俺は何でもするだろう」

 温もりが、私を包む。その温かさに、また涙が滲む。私は涙を隠すために、オルセードの胸に顔を埋めた。


 心がままならない私にとって、何か行動に移すことは、心を動かすために必要なことでもある。ダンスをきっかけに、前向きになれたように。

私はあの日、オルセードと結ばれようとした。私たちの『普通じゃない』関係は、今のままではとても脆いとわかったから。深く結ばれることは必要なことなんだと、わかったから。彼となら……


 でも、事あるごとにいちいちボロボロ泣くのは嫌だ。


 私は顔を伏せたまま、言った。

「……ティグシアに行ったら、もう少しだけ『普通の夫婦』になりたい」

 オルセードは不思議そうに聞き返した。

「どういう意味だ?」

「行ったら、教える」


 その頃にはきっと、この涙も落ち着いていると思うから。



【冷たい彼女は、手負いの騎士を手放さない 完】

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― 新着の感想 ―
[一言] 前作「ひざまずく騎士に、彼女は冷たい」から一気に読みました! 前作はラブ的な要素がほぼシオンから感じられなかったので、今作は甘みを感じられ、にやにやしました。 オルセードの愛は重いけど生真面…
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