12 心の代わりに
「呼び出したりして、ごめんなさい」
外出着姿のメリーには、あの華やかなオーラが感じられなかった。
私たちは、王都の国立公園の中を歩いていた。
いつもならメリーの家に私がお邪魔しているところなんだけど、デルス議員の家でもある場所に招くのは……と、メリーが気にしたのだ。それなら外で会おう、ということになった。
公園は自然を模して作られていて、丘があり、林があり、その合間に花に囲まれた小川が流れている。果樹が何本も植えられ、青い実をいくつもつけて収穫の季節を待っていた。
「オルセード殿の様子は、いかが……?」
「怪我はもうほとんど。記憶は、相変わらずです」
「そう……」
日傘を差したメリーは、打ちひしがれた様子で続ける。
「お詫びの言葉もないわ……どう償っていいのか」
「ううん、メリーのせいじゃないから気に病まないで」
最近、このセリフばかり言っているな……と思いながら、私は続ける。
「デルスさんにも、予測できなかったことだというのはわかっています。オルセードの仕事には、大きな影響はなかったみたい」
「でも、シオンが」
メリーは足を止め、私を見る。
「私、ずっと気になっていたの。オルセード殿がシオンを愛しているのは傍目にも明らかだったわ、でも……。ねぇシオン、結婚するまでに色々あった、と言っていたわよね? あなたは大丈夫? チェディスに帰る前に私に何かできることがあれば」
「帰らないから」
思わず、言ってしまった。
メリーが目を見張る。
「帰らない……?」
誰かに、話したかったのかもしれない。
私は気持ちを抑えながら、ほんの少しだけ、事情を吐露した。
「私、チェディスで嫌な事件に巻き込まれて……オルセードも、その件に関わっていて。彼は私に償うために、エスティスに連れ出してくれたの」
メリーは一瞬、絶句してしまった。でもすぐに、あわてたように話し出す。
「待って、それではあなたは、エスティスに来るために形としての結婚を? だからあなたの方は……でもオルセード殿は、本当にシオンを愛しているのでしょう?」
「そう思ってた。でも、彼は私を忘れてしまった」
声がかすれて、私は咳ばらいをする。
「忘れているから、任期が終わったら妻の私とチェディスに帰るつもりでいると思う。でも私には、どうしても、それはできないの。たとえ、今のオルセードにそのことを理解してもらえなかったとしても」
「私がいるわ」
メリーはすぐさま言った。
「オルセード殿が帰ることになっても、あなたがこちらに残りたいなら、私が色々手配します」
「でも、駐在の任期が終わって以降も妻だけ残るなんて、許されないんじゃ」
「そんなこと、夫に言えば何とでもします。オルセード殿がチェディスに帰った後でシオンとのことを思い出したら、改めてエスティスに来ればいい。ね?」
そうするしか、ないのかな。
オルセードにはあの腕輪を「私の思い出として肌身離さず持っていて」と頼めば……彼は私を思い出せないことに罪悪感を抱いているから、きっと言われたとおりにするだろう。
でも、とにかく一度、私とオルセードの道は別れてしまう。
途方にくれて俯くと、私を見つめたまましばらく黙っていたメリーが、口を開いた。
「シオン……あなたが、オルセード殿と離れたくないのね」
私はメリーの顔を見た。
メリーは私の手を握る。
「ごめんなさい、私ったら察しが良くなくて。あなたの方も、オルセード殿を愛しているのでしょう。とても、深く」
表情があまり出ない私の気持ちを察せる方が、むしろすごい。そう言いたかったけど、私は言葉に詰まってしまった。
メリーは続ける。
「その気持ちを、オルセード殿に伝えて。今までの二人の時間が消えてしまったとしても、今の二人の気持ちが近づけば、これからどうすればいいか定まってくるかもしれないわ。未来の事を考えるのよ、シオン」
「……うん……」
でも、過去を伝えることなしに未来をどうにかしようとしたところで、オルセードは混乱するばかりじゃないだろうか。
「あ……シオン」
ふとメリーが振り向いたので、彼女の視線を追うと――
公園の小道を、オルセードがこちらに歩いて来るところだった。
仕事のない日の彼は軍服ではなく、こちら風にシャツとベストとズボンという服装だ。とても似合っている。
メリーは私に視線を戻した。
「私、馬車を拾って帰るわ。何かあったらぜひ頼ってね。事態が好転することを祈っています。また会って下さる?」
「もちろん……私からも誘います」
「嬉しい」
彼女は微笑み、オルセードの方に会釈すると、先に一人で歩み去って行った。
オルセードが私に追いつき、立ち止まる。私は彼を見上げた。
「どうしたの?」
「君が一人で出かけたと聞いて……なぜか、心配になった」
私を見つけたオルセードの眼差しは、戸惑いを含みながらも優しい。
……こういう、私に対して過保護なところはそのままなのに……
「友達と会っていただけ。一緒に帰りましょう」
「ああ」
オルセードが肘を差し出し、私はそこに手をかける。
二人で歩いていく公園の散策路、その先が二つに分かれている。何だか意味ありげに見えて、嫌になった。
「こっちの道がいい」
私はオルセードの顔を見ながら、腕を引っ張った。彼は少し目を見開いたけれど、うなずいてそちらに足を向ける。
私が惑っている間に、オルセードの方も惑いながら、答えを探し続けている。
その先には、どんな答えが待ち受けているんだろう?
それから一週間ほど経ったある夜、一緒に夕食をとったオルセードは無口だった。
少し不自然さが消えてきたかと思ったのに、今日は記憶をなくした直後のようにぎこちない。
食事が終わり、席を立つと、彼は私を呼び止める。
「話がしたい」
その改まった様子に、私は少し怖くなった。
彼は何か、私たちの未来に関わることを話そうとしている。
書斎のソファで向かい合って座った、その距離が、遠く感じられた。隣に座って一緒にお酒を飲んだのが、ずいぶん昔のことのようだ。
硬い表情のオルセードは、視線を落としながら言った。
「シオン。しばらく公邸で君と過ごして、俺なりにわかってきたことがある。俺はやはり、君を、深く愛して結婚したんだろうということだ」
「…………うん。愛されてると、私も感じてた」
静かに答えると、彼は顔をわずかに歪めた。
「しかし、おそらく……君の方は、そうじゃなかった」
「そんなことは」
「君が俺に好意を持ってくれているのは感じている。ただ、俺が君に向ける気持ちとは違うものじゃないかと思う。……間違っているかな」
私は、黙り込んだ。
メリーにも見抜かれた、私とオルセードの表面の温度差を、オルセードも感じ取ったんだろう。
二人で葛藤した日々があったからこそ、オルセードは私が彼に向けている気持ちを理解していたと、今はそう思う。でも、その日々が消えてしまったら……私の凍った心の奥に光を届けてくれる人は、いない。いびつでも、私が彼を愛おしく思っていることに、彼は気づかないのだ。
オルセードは急に、別の話を始めた。
「昨日、君は手紙を出そうとして、ネビアに預けただろう」
「……? 預けたけど」
「彼女は階段を下りる途中、つまずいて手紙を落としてしまい、俺が拾って彼女に渡した。そのとき、差出人の名前が見えた。君は、偽名を書いていた」
「それは」
私は息を呑む。
チェディスで私付きのメイドをしていたキキョウ宛の手紙は、ハルウェルに知られたくないのでいつも偽名で出していた。それを見てしまったなら、オルセードは一体どう思っただろう。
何と答えればいいのか迷っていると、彼は私を見つめて言った。
「もしかして、君には……俺よりも愛している人がいるんじゃないのか?」
「……は?」
びっくりして、私は思わず聞き返す。
「何でそんな風に」
「……寝室が、別だからだ」
言いにくそうに続けるオルセード。
「操を立てたい相手がいるからだろう、と思った。その人物に手紙を出しているのだろう。でも、俺が君を深く愛していて――細かいいきさつはわからないが、チェディスを離れてエスティスに君を連れてきたなら、俺はもしかしてその男性と君を無理に引き離したんじゃないかと、そう思っている」
私はオルセードの言葉の途中から、強く首を横に振っていた。
「それは誤解。完全に、誤解」
新婚夫婦なのに、寝室が最初から別なのが普通じゃないってことは、私もわかってる。何かあったからそうなんだろうと思うのは当然だ。そして、彼が私との生活から拾い上げたピースを繋ぎ合わせれば、確かにそういう画に見えてしまうかもしれない。
「本当か? 今なら、俺はいきさつを忘れている」
オルセードの目に、情熱と苦悩が満ちた。
「このまま君と過ごしていれば、俺はきっと、君を愛するようになる。手放せなくなる。だから、その前に……俺の元を離れるなら今だと、思う」
ふと、思った。
魔石を使って離れることを選ぶなら、これ以上そばにいちゃいけない。二人とも辛くなるだけだ。
でも、私はオルセードを愛していて、オルセードもこうしてまた、私を愛そうとしている。
それなら、私たちはもっと深く結びつかなくちゃいけない。凍った心の代わりに、私たちを結びつけるものがあるとすれば……
一生を共にすると、決めた相手。何も、ためらうことなんてない。
私は立ち上がった。
オルセードはハッとして、私を見上げる。
私は彼のそばまで行くと、屈み込んで彼の手を取った。そっと引いて、立ち上がらせる。
そして、オルセードの広い胸に顔を寄せると、言った。
「……寝室に、連れて行って」
オルセードの声がかすれた。
「シオン」
「オルセードに疑われたくない。私たちは本当に夫婦だって、教えたいから」
そうささやいて、私は彼を見上げ――微笑んだ。
あの日、一晩中私と踊りたいと言ったオルセードと。
今日は一晩中、一緒にいよう。




