1 エスティスへの渡航
エスティスの港から公邸に向かって、馬車は出発した。
私は、窓を開けて外を眺める。
道の両側には、船員たちが利用するための基本的な施設――銀行、郵便局、服飾雑貨の店など――や魚料理の店が軒を連ねていた。そこを抜けると、すらりと背の高い街路樹が続いた先に緩やかな丘が見える。
チェディスとは空気が違い、暖かくてカラッとしている。植物の緑の濃さや、土の色まで少し違うような気がした。
「急に、春真っ盛りになったような感じだな……」
私の肩越しに外を眺めながら、オルセードがつぶやいた。チェディスはまだまだ寒かったから、私と同じ印象を受けたようだ。
彼は耳元に話しかけてくる。
「どうかな、第一印象は」
私は景色を眺めながら、正直なところを答えた。
「何だか……呼吸が楽になったみたいな、身体が軽くなったみたいな感じがする」
まあ、チェディスを離れたから、余計そう思うのかもしれないけれど。
「君の身体にいい気候だと思う。美味しいものを食べて、健やかに過ごしてほしい」
彼の声が、暖かな風と一緒に耳をくすぐった。
途中で休憩をとったりしながら、馬車はエスティスの王都に入った。チェディスは灰色の石で作られた建物が多かったけど、こちらは産出される鉱物が違うのか暖色の建物が多く、気候と相まって町が明るく見えた。
そしてたどり着いた、私たちの暮らす駐在武官公邸は、こぢんまりしたクリーム色の建物だった。植物をモチーフにした彫刻がしてあって、どこか女性的で、居心地が良さそうだ。
玄関ホールに使用人さんたちが集まっていて、オルセードと私を出迎えてくれた。
「オルセード様、シオン様、エスティスにようこそいらっしゃいました。精一杯、お仕えさせていただきます」
初老の執事さんが挨拶し、全員を紹介してくれる。お国柄なのか、陽気な気質の人が多いみたい。荷物を運んだり給仕をしたりする従僕さんの一人と、馬車の御者さんは、チェディスの屋敷にいた人なので元々顔見知り。それ以外の人は、この公邸での仕事が長いベテランさんたちだ。
初日から、何の不自由もなかった。
到着早々の翌日、オルセードが最初にしたのは、私のお世話をする新しいメイドさんの面接だった。駐在武官官邸の職員さんに頼んで募集をかけ、面接をこの日にできるようにしておいたらしい。
「シオンに不快な思いをさせる人物を、まず弾きたい。俺にやらせてくれ」
オルセードはそう言い張って、最初は面接を自分一人でやった。彼は、私たち「夫婦」の奇妙な関係――いつも一緒にいるくせに寝室は別だったりとか、そういう――に好奇の目を向けられると、私が嫌がると考えたのだ。
でも、はっきりと異色の存在である私に好奇の目を向けずに済む人なんて、なかなかいないと思うけどな。……と、私は思っていたんだけど。
さすが、軍団長まで上り詰めた男。条件に合う、面白い人を選び出した。
「旦那様はいつも、奥様第一なのですね!」
私より少し年下のメイドであるネビアは、顎で切りそろえた栗色の天然パーマをふわふわさせ、眼鏡の奥の目をキラキラさせて言う。
私はもそもそと答えた。
「奥様はやめて……名前で……」
「あっ、失礼いたしました! でも私、シオン様にお仕えしていると、まるでお姫様付きの侍女になったような気がします!」
「そ、そう……」
「それでは、ご用があったらお呼びくださいね!」
ネビアが部屋から退出し、扉が閉まると、私は横目でオルセードを見た。彼は微笑んで言う。
「彼女はどうだろう、シオン。俺たちの様子に何か疑問を持ったとしても、全て『いい方』に解釈する女性を選んだつもりだ」
「……ある意味、あなたに似てるよ」
私が答えると、「そうか?」と戸惑ったように顎を撫でていたオルセード。さんざん私を天女か何かのように扱う発言をしてきたくせに、自分じゃわからないのかな。
それはともかく、私付きのメイドはネビアにお願いすることになった。
現在ネビアがいてくれて、とても助かっている。キキョウと離れて本当はすごく寂しかったから、ネビアくらい賑やかで明るい人がいると気が紛れた。
しばらくはオルセードが挨拶回りで忙しく、数日、私は一人で夕食を食べた。四日目にようやく、オルセードが深夜ではなく夕方に帰宅する。
「私、挨拶回りに一緒に行ってないけど、大丈夫なの?」
夕食を共にしながら一応聞くと、彼はうなずいた。
「エスティスに着く直前に船酔いした話をして、生活が落ち着くまでゆっくりさせたいと言ってある」
……私が病弱に聞こえるように印象操作してるな。実際にはもう、季節の変わり目に体調を崩す程度なのに。
オルセードは嘘はつかないけど、巧みな言い回しがしたたかだな、と最近思う。まあ、そうでなきゃ出世はできなかったか。
食事が終わって席を立つと、彼は私の手をそっと取った。
「会う人の皆が、シオンについて話をするとき『奥様』と呼んでいた。君がそれを喜ばないのはわかっているのに、俺は……嬉しくてたまらない」
「形だけなのに」
「ああ。それでもだ」
捧げるように持ち上げられた、私の手。オルセードの唇が触れ、離れる。
私を見つめる瞳の中に、ためらいと、それを上回ろうとしている熱がせめぎ合っていた。
他人事のように観察している自分がちょっと可笑しくなって、口元が綻んでしまった、かもしれない。
瞬間的に、オルセードの瞳の中で「熱」が勝った。引き寄せられて、口づけられる。そのまま、広い胸に抱き込まれた。
オルセードのキスは、いつも切なさを帯びている。キスしないではいられない、という風に強く深く唇を重ね、私はそれを嫌がったりしないのに、それ以上求めることなくそっと離れるのだ。まるで、悪い事でもしたかのように。
きっと彼は、キスするたびに思い出している。私とオルセードの間にあったことを。私たちがどうして、この国に来ることになったのかを。
今もオルセードは手を緩めて私を離したけれど、私の手を握り直した。
「酒が用意してある。どうかな」
「食前酒、少し飲んだじゃない」
「新生活の祝いにと、執事が別の酒を用意してくれていたんだ」
……じゃあ、せっかくだから。
私がうなずくと、オルセードは微笑んで私の手を引いた。