海軍七六一空の死闘1(マリアナ沖海戦)
二式大攻出撃せよ ~海軍大攻隊空戦記~ 収録
北上上飛曹(当時)の手記より抜粋 (注1)
昭和十九年春、すでに先年中にはマーシャルが敵の手におち、マキン・タラワ守備隊の玉砕が報じられるなどアメリカ軍の攻勢はわが軍が絶対防衛線と定めた島嶼を圧迫しつつあった。その頃の私は一年弱勤めた内地での教官職を解かれ、再び実戦部隊の一員として前線への進出命令を待つ身であった。
私が配属された海軍第七六一航空隊は二式大攻の最新型ばかりを七二機装備しており、この巨体が鼻先を並べてずらりと並んでいる様はなかなかの壮観であった。二式大攻の最終量産型である三二型は初期量産型からエンジンを火星の最新型に交換して武装装甲を強化したもので、最高速度が二〇ノットほどあがり操縦席や尾部銃座に装甲板が追加されていた。爆弾槽も新兵器が運用できるよう改良され、一部には開発されたばかりの機上電探も装備されていた。緊急加速用のロケットブースターを取り付ける場所も最初から備えられていた。
また人員も開戦以来のベテラン勢や教官を中核に技量優秀者で固められていて、この部隊にかけられた期待の大きさがうかがえた。整列した要員たちの中には沼倉少佐を筆頭とする陸攻からの機種転換組や私のような大攻乗りがごろごろしており、見知った顔もちらほらとあった。我らはまさしく報道の言うところの精鋭部隊であったのだ。
そして、わが精鋭大攻隊が運用する新兵器こそがK魚雷であった。
K魚雷とは、帝国海軍の開発した滑空魚雷である。姿はその名の通り魚雷に滑空翼とベニヤの安っぽい板を取り付けただけの代物に見えたが、その制御に用いられた技術は非常に高度なものであった。それまでの魚雷にも飛行機の尾翼にあたる安定板が尾部に取り付けられてはいた。K魚雷はそこから一歩進んで、実際の飛行機の搭乗員が行うように横滑りや自転を検知して当て舵を行う機構が備えられており、横風の中でもまっすぐ飛ぶことができた。
この兵器の長所は、なんといっても遠距離から発射できるという点だ。それまでの航空雷撃は低空を這うように進み、敵艦の至近を低速直進する必要があった。当然非常に危険であり、運動性の良い小型機ですら「雷撃を三度やって生き残った者はいない」と言われるほどであった。さらに、無事投下した後にも大きな危険があった。
帝国海軍航空隊の雷撃射法は年を経るごとに洗練されていったことは当然だが、編隊雷撃の場合は敵艦の未来位置へ多方向から突入する。そうすると、魚雷を投下後敵艦の鼻先を通過することになるがその際に各機の進路が交錯するのだ。もちろん実戦なら対空砲火が指向されている。この運動は単発の艦攻でも危険で、演習でも何度も事故を生じていた。況や大攻をや、である。いくら運動性に優れる二式といえど襲撃訓練の際は恐怖を感じたものだ。もちろんペアの伊吹兵曹の腕前を信頼していたし、列機の練度を疑う訳ではなかったが、下は波頭上は大攻の腹というのは恐ろしいものだ。波頭をペラが叩かんばかりに低空を飛ぶ愛機、横合いからのし掛かるように近付く僚機。実戦なら曳光弾のシャワーと鼻につく火薬の匂いが追加される。その点K魚雷ならこのような心配は無用であった。
対空砲火の届かない距離から投下されたK魚雷は滑空翼を展開し飛翔を開始、母機は反転離脱する。K魚雷はそのまま敵防空圏を滑空突破し着水、その後は通常の魚雷と同じように水中を進み敵艦のドテッ腹をぶち抜くのだ。もちろん命中率は落ちるし、艦攻や中攻でやろうとすれば空気抵抗により母機の性能低下は免れ得ないが、鈍重で対空砲火に弱いが搭載量に余裕がある大攻にとっては最適の戦法だった。
私がこの兵器にはじめて触れたのは昭和十八年の中頃、七〇七航空隊から横須賀空へと転属になった時のことだ。七〇七空は木更津にて編成された日本最初の陸上攻撃機部隊であり、二式大攻を最初に装備した部隊でもあった。そこで分隊長機の爆撃手としてソロモン・ニューギニア方面の航空作戦に参加した後テニアンへと後退、部隊再編中に新任のペアと交代で横空へ転属となった。後に明らかになるが、私が横空へ転属となった理由はK魚雷運用部隊の中核となることを期待されてであったのだ。
横空で行われていた訓練業務は、新兵を一人前の大攻乗りに育て上げる通常のものに加えてもうひとつあった。それは、K魚雷運用のための研究である。もちろん軍の開発した兵器であるのだから開発中に机上で戦法を考えた上で制作が進められていたのだが、実戦に出して所定の効果が発揮されるかを確かめる必要がある。我々は後に続くものたちの範となることをも求められていた。
我々がK魚雷の実物を目の当たりにしたのは異動から暫くたってからであった。それまでにも座学で要目は学んでいたし模型も見ていたが、本物の大きさには圧倒された。今まで扱ってきた九一式航空魚雷は口径四五センチ重量一トンであったが、大攻用のK魚雷は一回り大きく重量は二トン。その大きさゆえにさしもの大攻と言えど一度に二発までしか搭載できない。魚雷の燃料には従来の空気に替わって純酸素が用いられ、空気の泡を曳かないようにされていた。
懇意にしていた整備員によれば、このK魚雷というものはとにかく難物であったという。なにせ通常の魚雷と違って純酸素を推進材に用いるのだから、専用の特用空気発生装置(機密保持のためそう呼ばれた)の整備もこなさねばならないし、ちょっとした整備不良で大爆発の恐れがあった。僅かな油滴が配管に残っていただけでも容易に爆発がおこるという。魚雷本体については整備に慣れた艦艇乗組整備員の補助もあったが、新機軸である滑空翼や動翼の整備は前例もなく苦労したという。搭乗員のみならず整備員の教育も平行して行われていたことがうかがえる。
横空赴任後の昭和十八年は訓練業務と本土南方の哨戒に明け暮れた。とはいっても内線部隊であり、ラバウルやテニアンのようにバラックや宿舎暮らしということもなく下宿に住んでいた。その頃の私は、こう言ってはなんだが大変もてた。今から思えば、訓練飛行で南洋諸島や台湾へ飛ぶたびに持ち帰ってくる砂糖や果物など内地では既に入手できなくなっていた土産物のお裾分け目当てだったのかもしれない。だが、私はそんな下心はなしに下宿のおばさんや近所の奥さん方に気前よく配っていたし、町内の人々にちやほやされるのを無邪気に喜んでいた。そんなものだから、毎日のように夜の街に繰り出していた。なにせ私は独り身の飛行兵であるから同級のものより懐具合にだいぶん余裕があったためだ。
ところが、こうして遊び歩いていた私を心配したのか愛想を尽かしたのか、下宿のおばさんがしきりに見合いの話を持ってくるようになった。それについてはのらりくらりと躱し続けていたのだが、どこから聞き付けたのか親元から電報が届いた。曰く、内地に居るのなら一度顔を見せに帰って来いとのことだった。
まあ、その後の顛末は私事でもあるし手短に述べるが、故郷に着いたと思えば区長まで出張って来ての町を挙げての歓迎を受け、特定郵便局をやっている家にあげられての宴会が始まった。その時私に給仕してくれた女性が後の妻である。今の若い人が聞けば驚くかもしれないが、当時はこのような見合い結婚が普通であった。
それからは下宿の引き払いや新居探しとしばらく忙しくなった。戦時中といっても内地であったから、私の周りにも嫁さんを呼び寄せて一緒に暮らしている者が多く、そうでなかったのはごく少数だった。その少数には、地元の廣島に妻子を残してきたという村上兵曹と故郷に許嫁がいるらしい塩見兵曹の操偵ペアがいた。この二人はさんざん冷やかしてくれた上に新人をけしかけてくれたことを今も覚えている。
こうして平穏のうちにあった昭和十八年は過ぎ、私は年明けとともに第七六一航空隊へと異動となった。冒頭にもある通り、この航空隊は絶対国防圏の守りの要たる第一航空艦隊の主力対艦攻撃隊である。ここで、マリアナ決戦にむけての作戦である"あ号作戦"について簡単に説明しておこう。
あ号作戦の骨子は、航空戦力の素早い集中をもって行われる迎撃戦である。このために三つの部隊が用意され、それぞれが敵艦隊に対して集中攻撃を加え、敵侵攻部隊の撃滅をはかることになっていた。
基地航空隊の主力にして、マリアナ・パラオ方面に展開するのが第一航空艦隊である。この部隊は十二個の航空隊を擁し、これをマリアナ方面、ヤップ島、パラオ方面の三個攻撃集団に分けて展開していた。第一航空艦隊は敵の推定攻勢正面に配置されており、真っ先に戦闘に突入して敵部隊を拘束することが求められていた。私が当時所属していた第七六一航空隊もこの指揮下にある。
一方の機動戦力である第一機動艦隊は、稼動空母のほぼ全てたる大小十二隻の母艦と高速発揮可能な戦艦全てが編入された大部隊であった。部隊は甲乙丙の空母群と戦艦中心の前衛にわかれ、油の豊富なリンガ泊地にて訓練を重ねていた。敵艦隊来寇の報あらば、一斉に決戦海面に進出し攻撃を加える手はずであった。
最後に変わり種となるもう一つの航空部隊が存在した。八幡空襲部隊と命名されたこの部隊は、私の古巣であり海軍航空の最精鋭と名高い横須賀航空隊および在関東の航空隊を結集して編成された特別編成の部隊である。この部隊は教官やテストパイロットを多数擁する文字通りの最終予備部隊であったため内地に展開しており、機動部隊と同じく決戦海面に進出しての戦闘が予定されていた。
第一航空艦隊が敵の攻勢を受け止めている間に、艦隊泊地から機動部隊が、内地から八幡部隊がそれぞれ駆けつけ米艦隊を撃滅するのだ。
四四年五月、あ号作戦発令に伴う第一航空艦隊出師命令によりわが七六一空も編成地の鹿屋を出て一路南方へと向かった。目指すパラオ諸島は戦前から南洋庁が置かれた重要拠点で、ペリリュー島の飛行場は決戦準備により拡張され、大攻の発着できる滑走路が二本整備されるなど一種の航空要塞となっていた。上空から見ると、鬱蒼とした密林を切り開いて滑走路が島の端まで十字に伸び、海岸線は色鮮やかなリーフに囲まれグリーンの外海から隔たれていた。
この他に、若干の偵察機がペリリュー島に、近隣のアンガウル島には戦闘機隊が分派されて駐屯していた。
着任間もない五月中旬、早速我々に出動命令が下った。ラバウルを迂回してニューギニアを海岸線沿いに進んできたマッカーサーの軍団が絶対国防圏外縁のホーランジャへと侵攻してきたのだ。
出撃するのは大攻二七機。戦闘機の護衛はつかない。残念ながらこの攻撃に私は参加せず、第二波以降に回るよう命じられた。この時点ではまだK魚雷の整備が完了しておらず、二五番爆弾を抱えての出撃だったように記憶している。
ところが、これ以降わが隊はしばらく出撃することがなかった。当時は機材の不備(酸素発生装置の立ち上がりが遅れていたとあとで聞いた)と思っていたのだが、実はそうではなかったらしい。
この当時は預かり知らぬことだが、GF司令部は第一航空艦隊に対して決戦までの戦力温存を指示していた。この時攻めこまれた北部ニューギニアは絶対国防圏の外側であり、悪く言えば見捨てられることが決まっていた。
だが、一航艦の司令長官はそれをよしとせず、あ号作戦発令を拡大解釈して南へと兵力を動かした。これが、七六一空への攻撃命令の原因である。攻撃がこの一回であった理由は簡単で、一航艦の暴走が露呈して作戦中止命令が出たためだ。
見敵必戦の猛将と言えば聞こえはいいが、ひたすら目の前の敵に突っ込む猪武者では闘牛士に翻弄される猛牛と変わらないではないか。
それからというもの、ひたすら周辺海域の哨戒と警報が出た際の空中退避に明け暮れた。我々が進出して来る前に何度か空襲があったのだが、掩体壕の不足により損害を被ってしまったとのことだ。それ以来掩体の建設も進められていたが、機体そのものが大型であることや滑走路の拡張・修復に資源を取られたことから十分な掩体が建設できず、空襲が予想される場合は空に逃げることになっていた。
空中退避というのは空襲が予想される際に機体を地上に隠すのではなく空に逃がしてしまうというもので、支那戦線では国府軍にこれをやられて捕捉撃滅に苦労したものだ。少なくも空中なら爆弾にやられることはない。だが、太平洋は大陸と違って敵機を事前に発見する監視所を設けるのは難しいし、滑走路がやられたからその辺の平地に降りるという訳にもいかない。太平洋戦線で空中退避が可能になったのは、飛行場補修速度の向上と電探や哨戒網の整備によるところが大きい。誤報も多々あったとはいえ、だ。
空襲警報が鳴る度に搭乗員が機体に駆け寄り、軽荷の大攻が次々滑走して行く。こうして度々集合しなければならないので自然と機体のまわりにたむろするようになり、機内にハンモックを持ち込み午睡としゃれこむ剛の者もあらわれた。かくいう私もチャート台を簡易寝台として昼寝を決め込んでいたのであまり大きなことは言えないのだが。
明けて六月十日、敵機動部隊総出撃との報に接しGF司令部よりあ号作戦決戦準備が発令、内地やリンガ泊地にて訓練に励んでいた機動部隊の各艦が集結を開始した。我が方の戦力は開戦以来歴戦の空母『赤城』『翔鶴』『瑞鶴』に新造の『大鳳』『雲龍』、改装空母群もあわせて十二隻。戦艦は当時秘密兵器であった『大和』『武蔵』にカルタにも日本の誉れと詠まれた『長門』『陸奥』など合計八隻。史上最大級の大艦隊であった。
そして六月十五日、ついにあ号作戦の発動が命じられた。マリアナ諸島の各基地が数日前から断続的に空襲を受けており、上陸近しか単なる機動空襲か、上層部の間でも意見が別れていたところに輸送船団発見の報告が舞い込み決戦の発令と相成った。
作戦の発令を受けて全参加部隊が動き出した。機動艦隊は集結地であるフィリピンはリンガエン湾や沖縄中城湾を抜錨、洋上集結しマリアナを目指す。関東一円に展開していた航空隊も硫黄島へと前進配置についた。我々基地航空隊も隠匿配置にあった弾薬類を運び出しすぐさま出撃できる体制に移行した。在マリアナの航空隊は防空戦闘に出動するが、ヤップやパラオに展開する隊は機動部隊の到着を待つ。敵艦隊に対し飽和攻撃を仕掛けるためだ。