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オルタナティブ・プラン

『初めの半年や一年の間は随分と暴れてご覧に入れよう』――山本五十六


 開戦から一年と少し経った四三年三月、日本軍はガダルカナルより撤退を完了。ついに守勢へとまわることになった。

 この方面で主力となった基地航空隊も損害が大きく、敵機の迎撃や対空砲火、長距離飛行による疲労によって消耗していった。堅牢で防御火力の大きい大攻隊といえど例外ではなく、特に対艦攻撃の際には大きな被害を受けた。

 最も被害が大きくなったのは低空雷撃の際で、八月の第二次ソロモン海戦では消耗率六〇パーセント、二月のレンネル島沖海戦では夜襲にもかかわらず五五パーセントの消耗となった。いくら四発機においては破格の運動性能を誇る二式大攻といえど、肉薄雷撃は事実上不可能となりつつあった。

 更に事態を悪化させたのが、米軍の新兵器が実戦投入されたことだ。VT信管、もしくはマジックヒューズと呼ばれるそれは、高角砲の弾頭に装備され、従来の時限式信管に比べて数倍の命中率を誇る代物だった。まだ纏まった数が投入された訳ではないとはいえ、図体の大きい大攻にとって対空砲火の充実は攻撃の難易度を押し上げることとなった。

 勿論、帝国海軍もこの問題に無策だった訳ではない。被弾面積が大きく機動性に劣る大攻に、単発機と同じような低空を這い寄る肉薄雷撃をさせる危険性は認めていた。何せ、諸外国の機体で言えば大きさはB-24リベレーターに比肩し、翼面積だけで言えばかのB-29スーパーフォートレスをも上回る。他国であればこの種の機体に雷撃させるなど考えもしなかっただろう。

 つまりは、雷撃には敵艦のそばまで接近する必要があるが、発射母機たる大攻を対空砲火圏まで突入させたくはないという矛盾した欲求があったといえる。この解決策は、意外にも一九三七年、空技厰にて既に実験されていた。


 K魚雷、あるいは空雷とも称されるグライダー魚雷の原型は、一九三七年に空技厰で開発された試製魚雷Kである。この時期、帝国海軍は航空魚雷の安定性不良に悩まされていた。改良前の九一式航空魚雷は、後に登場する改良型に比べて低速かつ低高度で静水面に対する投下でなければ迷走してしまう代物であった。中でも問題は投下速度制限で、当時の雷撃機の全速力に対して半速の速度制限がついているとあっては事実上航空雷撃は不可能であった。航空本部では、この問題に対し魚雷に簡単な安定器を取り付けることで解決した。この仕組みは後に真珠湾攻撃で用いられる浅海面魚雷に発展するのだが、また別のアプローチも存在した。それが試製K魚雷だ。

 K魚雷の基本システムは、魚雷本体とアタッチメント部からなる。魚雷本体は通常の航空魚雷または各部を投下用に補強した艦載魚雷に九一式航空魚雷改の安定器を発展させた空力制御フィンを取りつけたもので、この機構で魚雷の回転運動を抑制し針路を保つ。アタッチメント部は投下後に展開する滑空翼で、これがグライダーの役目をすることによって魚雷を遠くまで滑空させる仕組みである。

 ここまで書くと、何故この仕組みが戦前に考え出されていながら実用化されなかったのか疑問に思うだろう。だが、当時はまだ九一式航空魚雷の改造型は開発中で、魚雷がロール方向、つまり飛行機でいう翼を傾け旋回する動きを抑制する機構が完成しておらず、横風によって著しく散布界が広まり命中率が期待できないほどに下がるという問題があったのだ。これを解決するには数量の投射しかなかったが、戦艦一隻を沈めるのに当時最新鋭の九六式陸攻が数百機必要という試算結果を目の当たりにしては研究が進められないのも頷けるだろう。中攻は一機で一発の魚雷しか抱えられない。その魚雷も航空機用の威力の劣るものだ。いくら戦艦より飛行機や魚雷が安いとはいえ、数百の魚雷と機体、さらに何千もの搭乗員を用意するのは非現実的だったのだ。


挿絵(By みてみん)

      図1.試製K魚雷上面図

 K魚雷は滑空翼を折りたたまれた状態で母機に格納され戦場へ運ばれる。投下されると滑空翼を展開して飛行、針路を一定に保ちつつ照準点で海面に突入し爾後は通常の魚雷と同じくスクリューにて敵艦を目指す。


 だが、時代は進んで一九四二年。九一式航空魚雷改に資する研究により、魚雷の空力安定性は飛躍的に向上した。もはや横風により旋回しそうになっても自動でそれを検知して当て舵をして針路を保つことができる。川西飛行機の送り出した二式大攻は、四トン分の魚雷を陸攻より遠くへ、速く運ぶことができる。航空魚雷の運用思想もこの数年で大きく変わった。単機による必中を狙うものから編隊による統制雷撃により回避範囲を塗りつぶす方向に、つまり水上雷撃と同じ変化の道筋を辿った。

 こうして、二式大攻は自らの身を砲火に曝すことなく敵艦に打撃を与える術を得た。このK魚雷の登場により、二式大攻は敵艦の対空砲火に対してアウトレンジより攻撃する能力を獲得したことになる。大攻が米空母の空襲圏をはるかに上回る航続距離を持つことから、二式大攻は米機動艦隊に対して二重のアウトレンジ攻撃が可能ということになる。


 ここまでの話だけをみると、大攻隊の活動が四三年になると不活性化するのは不自然に思えるかもしれない。実際、四二年八月にラバウルへ進出してから四三年のガダルカナル撤退までの間は活発な活動を見せていた。第二次ソロモン海戦では戦艦一、空母二を撃沈破、レンネル島沖海戦では護衛空母二、巡洋艦二を撃沈破してみせた。だがこれこそが不活性化の大きな理由の一つであった。

 前述のように、両海戦において大攻は大きな被害を出した。陸攻よりはマシとはいえ普段の爆撃でも被害は多少出るし、機材というものは飛ぶだけでも消耗する。では補充すればというが、ことはそう容易ではない。

 二式大攻は非常に大型の機体である。このようなエンジンの四つも付いた大型機は生産に非常に手間がかかる。生産の手間を簡便に評価するのは難しいが、一例として生産費を挙げてみよう。年度や形式によっても違うが、零戦の生産費は一機あたり十二万円ほどである。これが双発の一式陸攻になると、およそ零戦三機分の価格となる。では四発の二式大攻はどうかというと、なんと零戦八機分となる。値段は量産すると下がるし、零戦と陸攻ではエンジンも違うのだが、おおむね消費資源の目安と考えることができるだろう。また、二式大攻を生産しているのは川西飛行機と中島飛行機であるが、その巨体ゆえに大型の専用工場を必要とした。二社二工場では増産にも限界がある。つまり、機体の生産が消耗に追いついていなかったのだ。

 また、人員の養成も急務であったがこれも順調とはいえなかった。先程のように金額ベースだけで言えば、操縦者は一万円かそこらで一人養成できる。参考までにいうと、戦前実験されたラジコン式無人操縦装置の価格は七万円であった。これは当時の水偵とほぼ同じ値段であるが、機体と人員の最大の違いはその製造にかかる時間である。偵察員や整備員については陸攻と同じ課程でも対応できたし融通も利いたが、前輪式の四発機という前例のない形式ゆえに操縦者の養成は難航した。飛行艇のような他機種からの転換も進められたが、水上機と陸上機という機種の壁もあったし元々飛行艇乗りそのものが多くはないのにあまり引き抜くわけにもいかないという事情もあった。

 さらに、燃料や爆弾の補給も日本の貧弱な補給線に負担をかけた。この大喰らいが一度の出撃対艦で消費する燃料と弾薬は陸攻の三倍から四倍。さらに生存性が高いため連続で出撃でき、ラバウル~ガダルカナル間であれば爆弾の過積載も常態化していたのも手伝って補給される端から爆弾を喰い尽くし、機体が消耗して撤退した陸攻隊の分も平らげつくした後に今までの消耗と後述の事情も相まってついに出撃不能となった。

 最後に、陸攻隊が消耗に耐えきれず相次いでラバウルから後退し始めたころ、ソロモン諸島の戦線もまた崩壊の兆しを見せていた。ガダルカナルの戦いを支援するため前進拠点として建設され、一時は陸攻一個分隊と零戦数十機が駐屯していたニュージョージア島ムンダ基地も危険となり航空基地は北部ソロモン諸島まで後退した。また、ニューギニア方面からの圧力も日々強まっていき、ラバウルへの空襲も常態化するようになった。こうなると、滑走距離が長く機体重量の重い大攻は徐々に運用が困難になっていき、ついに四三年夏には最後の大攻隊がラバウルよりテニアンへと後退することになった。大攻の運用には大規模な飛行場と十分な整備能力が必要不可欠である。穴だらけの飛行場では脚に負担がかかり事故が多発するし、エンジン四つを同調させなければ稼働させられない四発機は整備員と補給に多大な負担をかける。もはや最前線となったラバウルで運用できる機体ではなく、後方へ下げるしかなかったのだ。


 その後、徐々に戦線を後退させながら大攻隊を含めた航空戦力の回復に努める日本軍と、その工業力により緒戦で失った戦力を再建し反攻を開始した米軍との間で小規模な戦いが連続した。その過程でソロモン諸島は完全に奪回され、マーシャル諸島もそれに続いた。防御の厚いラバウルは敵中に孤立し無力化された。この状況を踏まえ山本五十六GF司令長官は千島=小笠原=マリアナ=パラオ=西部ニューギニアを結ぶ絶対国防圏を制定、この線上のどこかに敵が来襲した場合決戦を行う"新Z号作戦"を策定した。母艦航空隊および基地航空隊の全力が作戦可能になるのは四四年夏頃とされ、それに備えて訓練と戦力再配置が急がれることとなる。決戦正面は第一がマリアナ、第二がパラオとされ、母艦航空隊は内地で訓練に励み、基地航空隊は練成が済み次第各地の飛行場へ進出していった。もちろん決戦兵器と期待されるK魚雷を携えた大攻隊もその中に含まれ、その長大な航続距離を活かすべくパラオ・硫黄島方面に分散配置されることとなった。


 こうして両軍は運命の四四年六月を迎えた。戦場となるのはマリアナ諸島。最新鋭爆撃機B-29フライングフォートレスをもってすれば日本本土のかなりの範囲を翼下に収めることのできる重要拠点である。

 侵攻する米軍の作戦名称は"フォレイジャー"、対して守る日本軍は"あ号作戦"。太平洋戦争最後にして最大の艦隊決戦が幕を開けようとしていた。ほとんどが開戦後竣工となる空母十二を主力として十二万の陸上兵力と六〇〇隻の揚陸艦艇を伴い攻め寄せる米軍と、同じく十二隻の空母と各地に配備された一千機の基地航空隊に八万の兵員をもってマリアナを死守せんとする日本軍の戦いは、サイパン島に対する米機動艦隊の激しい空襲によって幕をあけることになる。

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