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攻撃目標敵戦艦1(第二次ソロモン海戦)

二式大攻出撃せよ ~海軍大攻隊空戦記~ 収録

長谷川大尉(当時)の手記より抜粋 (注1)

 一九四二年夏、ラバウルはブナカナウ飛行場へと進出したわが木更津海軍航空隊は風雲急を告げるガダルカナル方面への哨戒・爆撃に当たっていた。

 これ以前は内地での機種転換訓練や比較的安全な北方や内南洋での哨戒任務を主としていたわが隊にとってソロモンの戦闘に従事する先達の醸す空気は全く異質なものであり、その闘志がぎらつく眼差しと南方の日差しに黒く焼けた肌は嫌が応にも緊張感を掻き立てた。そこは最前線、潜った死線と踏んだ場数の差は我らとは大違いだった。


 わが木更津空の機体が経由地のサイパンを経てラバウルの上の飛行場に初めて脚をつけたころ、ちょうど第一次ソロモン海戦が起きていた。この海戦で外南洋艦隊がガダルカナル泊地に突入して戦果をあげたことは良く知られているが、陸攻隊もまた出撃して損害を被っていた。

 降り立った搭乗員待機所で私を迎えてくれた飛行学生同期の者は、黒く日焼けし痩せた頬に以前と変わらぬ人懐こそうな笑みを浮かべながら、「長谷川! 来てくれたか、会えて嬉しいぞ。貴様らがこんな立派な新鋭機を持ってきてくれて心強いぞ」と言って再会を喜んでくれた。ラバウルの先達である四空は度重なる出撃で既に壊滅状態であり、定数上では一個分隊が常用九機、補用三機で三個分隊分三十六機あったはずの機体が、全て寄せ集めて一個分隊分十二機もないほどに消耗していたのだから、喜びもひとしおだったのだろうと思う。

 わが木更津海軍航空隊は日本初の陸上攻撃機部隊であることは有名であるが、同時に日本で初めて四発陸攻を部隊運用した航空隊でもある。その名は二式陸上攻撃機、通称二式大攻だ。先に述べた機種転換訓練はこの機への転換訓練であったし、この後入れ替わるように木更津へと引き揚げた四空の沼倉大尉の言葉にあった新鋭機とはこの二式大攻のことだ。


 この二式陸上攻撃機という機体を初めて見たときの驚きは今も色あせることがない。それまでわが海軍航空隊が運用してきた陸上攻撃機は、双発の九六式陸上攻撃機(中攻)であった。四二年のはじめ、木更津で見た二式大攻はエンジンの数が倍、幅も中攻の一機半ぶんもあり、これ以前に存在した九五式大攻よりも一回り大きい巨体であった。初めて見たときは浜空の九七式飛行艇が陸地に打ち上げられたのかと荒唐無稽なことを思ったほどである。ただ、飛行艇のようだと思った直観は概ね正しかったことが後になってわかった。二式大攻は飛行艇専門メーカーである川西飛行機が送り出した野心作であり、同時に開発が進んでいた二式飛行艇を陸上機化したものであるからだ。

 その性能は前の中攻とは大違いであった。外観を見ると、その大きさもさることながら大面積の主翼と二枚から一枚に減った垂直尾翼が良く目立った。さらに、中攻ではエンジンナセルからでた大きな主脚と機体後部の小さな尾輪による迎え角を大きくとった地上姿勢であったのが、尾輪の代わりに機首部引き込み式の車輪があり飛行姿勢と変わらないような水平に近い地上姿勢をとっていたのが新鮮だった。川西の技師によれば、元が飛行艇であったために尾部に荷重がかかる設計になっておらず尾輪式に出来なかったためと離陸性能を向上させるための二つの理由があったそうだ。

 中攻では七人の乗員は操縦席の後ろに押し込められるように乗っていたが、大攻では操縦席が観光列車のように高い位置にあるお陰で機首のガラス張りになった偵察席から尾部銃座まで広く空間を使うことができ、乗員が十名まで増えたのに狭さは感じなかった。聞けば、大艇はもっと広い上に寝台まであったというから驚きだ。

 一番気になる武装と言えば、搭載量が中攻から四倍に増え、防御機銃も二十ミリ銃が針鼠のように増えていた。また、速力も巡航で一八〇ノット、最高速が二六〇ノットと中攻から数十ノットの向上を見ていた。さらに、燃料タンクには薄いゴムを貼り付け自動消火装置を装備するなど防御面でも格段の進歩をみた。

 実際に操縦輪を握ってみると、大型の機体の割に機動性は良く、むしろ多少じゃじゃ馬な感すらあるほどであり、十分に雷撃可能であると思われた。しかしながら、機体の数がまだ十分に揃わない上に中攻と操縦特性が大きく異なるために時間をかけて練成を行うこととなった。特に離陸時の感覚が尾輪式と前輪式では大きく違い、地上での安定性という点では前輪式降着装置に軍配が上がるが、機体が大型であるために滑走距離が長くなるのには慣れるのに時間がかかった。


 そうして練成を進める折、ドゥリドル空襲があり木更津空も索敵に出動したが敵影を見ることはなかった。もっとも、この時点では機数もそろっておらず練度もまだまだであったため会敵しても攻撃できたかは疑わしい。空襲の後、わが大攻はその航続距離の長さを活かして練成の傍ら哨戒任務に就いていたが、その最中に一大海戦が起きた。ミッドウェー海戦である。

 この海戦で、開戦以来無敵を誇った第一航空艦隊が大損害を受け、ミッドウェー島の攻略は断念された。先の珊瑚海海戦と共に日本の攻勢が止められた戦いであり、戦局の転換点になったと言われることもある。その影響はわが隊にも当然降りかかり、本来であれば攻略後のミッドウェー島に進出するという噂であったものが立ち消えとなり、南鳥島へ進出して哨戒に当たっていたわが分隊もひと月かそこらで呼び戻されることとなった。その後、木更津に腰を落ち着ける暇もなく今度は木更津空へ八月一日づけでニューギニア方面はラバウルへの進出命令が下った。

 わが木更津空がラバウル進出の準備を進める最中、今度はソロモン方面で敵の反撃が始まった。八月七日、ソロモン諸島ガダルカナル島に建設中だったルンガ飛行場が米軍の奇襲上陸により奪取されてしまったのだ。この後、両軍はガダルカナルを巡り陸に、海に、空に死闘を繰り広げることとなる。


そんな折の八月二十日、ラバウルへ進出して三度目の爆撃行の最中に敵機動艦隊発見の報が飛び込んできた。偵察機からの情報によると敵艦隊はガダルカナル南東にあり、直ちに稼働全機をもって攻撃隊を編成することとなった。この頃ラバウル付近に展開していた陸攻隊はわが木更津空と三沢空、第四航空隊であったが、この三つの航空隊が毎回出撃するという訳ではなく、輪番で任務をこなしていた。この日は丁度わが木更津空がガ島攻撃の任にあたっており、奇しくも我々が滑走路を蹴った直後に機動艦隊発見の報が飛び込んでくる形となったのだ。この時の装備は一機当たり二十五番陸用爆弾十六発であった。この時期のガダルカナル飛行場は度重なる爆撃によって大きく稼働率を下げており、大した迎撃を受けることなく全行程をこなすことができた。

 敵機動艦隊への攻撃には待機中だった三沢空の一式陸攻で構成された中隊を中心に四空の中隊も出ての混成編成になった。当然全機魚雷を抱いての全力攻撃だ。八時間に及ぶ爆撃行の末に基地に帰り着いてそのことを聞いた時には、攻撃に参加できなかったことを地団駄を踏んで悔しがった若い搭乗員も居たし私も内心同じ気持ちだった。が、二分隊長の落合大尉が、「必ず機会はある、焦ってはならない」と、部下の若手搭乗員を諭していたのをよく覚えている。

 彼は飛行機乗りというよりも文学青年というような線の細い容貌で、実際よく詩などを嗜んでいたインテリだった。だが一方その芯に非常な勇敢さと粘り強さを秘めた人物であり、その細い体のどこにそんなガッツがあるのかと驚かされることがしばしばであったことが印象深い。

 わが隊が帰投して数時間後、敵機動艦隊攻撃に出た攻撃隊が帰還してきた。数えてみるとほとんど減っているように見えない。聞いたところだと、どうやら敵を発見できずに十時間も洋上を彷徨いつづけたらしい。そのことを聞いたとき、我々にもまだチャンスはあるのだと陸攻隊には申し訳ないが内心では心が躍っていたことを記憶している。


 明けて二十三日夜半、再びのガ島爆撃をこなして帰投した木更津空の大攻隊についに敵機動艦隊への攻撃命令が下った。今回は陸攻大攻の稼働機全てを集めた正真正銘の全力攻撃となったのだが、ここで問題が発生した。陸攻隊がついに攻撃任務に耐えないほど消耗してしまったのだ。

 この時ラバウルに居た陸攻隊はこれまで孤軍奮闘していた第四航空隊と我々より先に到着していた三沢航空隊の先遣隊であったが、前者は"死空"と呼ばれるほど消耗率が高く、三沢空は元々先遣隊ということもあり機数も人員も少なく、残った機材と搭乗員に負担のしわ寄せが行き戦病者や整備中の機体が多数出ていた。そこへ先日、無理を押しての長距離攻撃を敢行したため稼働機が一気に減ってしまい、両航空隊共に一個分隊九機すらも単独で揃えることができない状態にまで追い込まれてしまったのだ。このため、陸攻隊は大攻隊に先立ちそれぞれ単機で索敵線を形成、敵機動艦隊の発見に全力を尽くすこととされた。陸攻は爆装しなければ攻撃装備の大攻と同じ距離を飛べる。胴体下部の穴から燃料タンクをのぞかせた葉巻型の陸攻が勢ぞろいした。

 ここで問題が起こる。魚雷の準備が間に合わないことがわかったのだ。わが大攻はこの進出距離なら最大四トンの弾薬を搭載できる。大攻専用の大型魚雷は当時ラバウルにはなかったので、通常の一トン航空魚雷を四本積むものだと思っていたが、考えてみればこれは陸攻の搭載量の四倍にあたる。もし大攻すべてに雷装を施そうとすれば、完全編成の陸攻隊二つ分の魚雷が必要となるのだ。そういう訳で、魚雷が用意できなかったわが第三中隊の九機は爆装で出撃することになった。

 翌未明、いよいよ決戦の日を迎え、まずは索敵隊の出撃が始まった。燃料を満載した四空と三沢空の一式陸攻が滑走路を蹴ってゆっくりと浮かび上がっていく。手すきの要員が手を振って見送る。その数は僅かに八機。この消耗しきった陸攻隊が我々の目となって敵艦隊へと導いてくれるのだ。


 出撃直前、藤吉直四郎司令が全搭乗員に「千載一遇の好機である。全力を尽くしてやれ。靖国で会おう」と訓示された。この藤吉司令は風船(飛行船)乗りとして高名な人物で、ドイツの飛行船グラーフ・ツェッペリン号が世界一周した際に日本人としてただ一人同乗したとして新聞紙上を賑わせたものだった。開戦後は鹿屋空を率いて英国極東艦隊を撃滅したことでも知られる。大きく角ばった顔に五分刈りの頭で、寡黙で落ち着き払った物腰と共に西郷さんを思わせる大人物であった。

 一同、勿論一命を賭す覚悟はできていたが、一方でこの基地航空隊司令というのは実に辛い立場であると私は思う。海軍には指揮官先頭の伝統があるが、航空隊においてはそれは叶わない。司令が指揮を掌握できるのは攻撃隊発進までで、その後の指揮は隊司令任せとなる。攻撃隊が帰着するまでの数時間をただ待つことしかできないというのは辛いものだ。私には、空中指揮官として部下と共に出撃する方がずっと気が楽な気がする。ただ、だからと言って司令官が本当に陣頭にたってしまうとそれはそれで問題となるのだ。

 ここに一つの実例がある。中国戦線で爆撃作戦に従事していた中攻主体の部隊に、海軍部内でも勇猛と名高い司令官がいた。水雷出身で航空に関しては素人だったその司令官は、水雷戦隊と同じように指揮官先頭を率先実行し、各隊司令を飛び越して司令官自ら爆撃行に同乗したり、中攻のみで護衛なしの出撃を強行したりした。その結果、この司令官は中攻隊の士官搭乗員から総スカンを喰らってしまい、司令官が爆撃行に参加すると聞くと、わざわざ聞こえよがしに「今日は司令官殿がお乗りになるから爆弾二発おろせ」などとわざわざ搭載した爆弾を下ろさせた隊もあったくらいだ。他にも、後の零戦となる新機体の不具合を解消せんと尽力する操縦士を手酷く侮辱したとの話も伝え聞かれるなど、少なくとも我々現場の人間からは海軍中央のお偉方とは違う評価を得ていた、ということだ。


 ついに攻撃隊集合の命令が下った。愛機の下で車座を組んでいた搭乗員が一斉に駆け出してくる。集合した搭乗員の中から各機の機長が進み出て、分隊長に出撃準備よしの報告を行った。各分隊が準備を終えるのを見て取った原少佐が藤吉司令に出撃準備よしを報告した。その姿は両名とも堂々たるもので、すべてを現場に任せた司令と万事を引き受けた大隊長が敬礼をかわす。

「大攻隊はガダルカナル東方海上へ進出、敵艦隊を捕捉撃滅せよ!」

 司令より攻撃命令が下った。そのあと隊長よりこまごまとした注意事項が伝えられ、各分隊長で目標について軽く打ち合わせをした。

「攻撃隊出発!」

 三個中隊の搭乗員たちが一斉に指揮所へむかって敬礼し、一散に愛機へと駆け出した。



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