二式大攻開発史2
一九四一年、もはや制式化される以前から駄作機となることが決定づけられてしまった中島飛行機の十三試陸攻。それを補いうる川西飛行機の十三試大艇も離水能力に欠陥を抱えていた。どちらもものにならないという最悪の状態を防ぐべく、海軍航空本部は川西飛行機に対して十三試大艇の陸上機化を打診。川西飛行機側も決して人的資源に余裕がある状況ではないながらも様々な思惑から受け入れることとした。
さて、こうして川西飛行機へ四発陸攻の試作命令が下ったのだが、要求仕様の開示を受けた菊原静男技師はその内容に驚いた。この前の十三試大艇に対する海軍の要求水準はあまりに高すぎるものであり、到底達成不可能といえるものであった。実際、二式大艇はこの当時の型では速度性能などが要求性能を満たしていない。だというのに、今回の大攻への要求はそれをさらに上回るものだった。
「九七式大艇の時は、今から思えば海軍の要求はその時の技術水準に比べていくらか低かった。だから余裕をもって要求性能を満たすことができたわけです。ところが、二式大艇の時は性能要求のレベルが厳しいものとなり、その時分の技術レベルから考えておそらく精いっぱいの努力をしてようやく達成できるかといったものでした。元々うちと中島に来た大艇と大攻の要求はほとんど同じだったと聞いていましたから、二式大攻も同じ程度かと思っていたらこれがさらに厳しい要求でした」
菊原が述べたように、川西に提示された大攻の性能要求値は大艇に比べさらに引き上げられていた。具体的には、最高速度が大艇二四〇ノット(時速四四四キロ)に対し大攻二六〇ノット(時速四八〇キロ)、航続距離は両者変わらず四千カイリ(七四〇〇キロ)、搭載量は大艇二トンに対し大攻四トン。それでいて雷撃を容易とするための小型機並みの運動性能や防御機銃と防弾性能などの要求はそのままであった。
この難題を前に、菊原ら設計陣は考え込んだ。なお、この時点でまだ十三試大艇の離水問題は片付いていない。同時並行で作業は行われたことになる。
まず変更を加えるべきは胴体だろう。陸上機と飛行艇で最も異なるのが胴体形状だからだ。飛行艇の胴体はその名の通り船底のような形をしており、陸上機で言う脚の役目を果たす降着装置である。このため、一般的な陸上機より胴体の幅が広くなっている。これは、水上での安定性や離水時の挙動改善のためであるが、一旦飛び上がってしまえばそれは無用となるばかりか余分な空気抵抗となる。十三試大艇では九七式大艇に比べてさらに幅の狭い胴体を採用しており、空中性能の改善と離水性能の悪化の両方をもたらしていた。
とりあえず、船底部分は陸上機化する際にはいらないので切り落とす。機の高さでいうと下側三割のところにバッサリ赤線が引かれた。無線機や仮眠用ベッドが置いてあった床の下にあった燃料タンクも巻き添えで半分ほど切られた。真っ二つになった床下燃料タンクの部分が魚雷の高さに丁度良いので、このあたりに四トンもの爆弾・魚雷を収める爆弾倉を設けることにする。こうして胴体燃料タンクがすべて機内から追い出され、燃料搭載量が翼内タンクの分のみである三分の一になった。後でどこかに追い出した分のタンクを移設しなければならない。
次は主翼だ。飛行機の命は翼、この形状と面積がその機の性格を左右する根幹となる。大まかにいえば、空気抵抗のことを考えるなら翼の面積は小さい方が良く、航続距離を長くするなら長細くスパンの大きい翼が良く、翼面荷重(翼の面積あたりの機体重量)が大きいと失速速度が高くなって離着陸が難しくなる、といった具合だ。
この大攻は性格的には大艇とほぼ同じ性能が求められていることになる。菊原の脳裏に、中島の、既存機の翼を流用したがために全体がふやけた設計となった大攻の姿が浮かぶ。無駄な翼面積は無駄な重量と有害な抵抗を生み、それがエンジンの生み出す推力を食いつぶして性能を低下させる。だが、この大艇の翼は年単位で熟成された引き締まった翼だ。思い切ってそのまま流用することにした。翼に付属したフラップなどの高揚力装置も新規開発の時間はないのでそのまま大艇から流用した親子フラップとする。
尾翼も流用することとしたが、ここで翼の担当技師浜田栄が異議を唱える。曰く、胴体高さを大きく削ったので垂直尾翼を大きくしなければ横方向への安定性が不足する、と。確かにそれはもっともだが、尾翼の増積は重心から遠い位置での重量増加となるのであまり望ましくない。カウンターウェイトとして大艇のほうで実施した機首の延長をこちらでも実施する。大艇では波切りをよくして操縦席に飛沫がかからないようにだったが、機首まわりのレイアウトに余裕ができて良いだろう。
ここまではマァ順調に仕様が決定したといえるだろう。こういってはなんだが、翼や胴体そのものは大艇も大攻も基本は変わらない。もちろん飛ばしてみて不具合を潰す必要はあるだろうが、既に大艇が飛んでいる以上手直しで済む見込みだ。なお、ここまでの間に大艇の離水不良問題はその理論的原因が解明され、その防止法を実験する段階まで進展していた。少し後の話となるが、この実験の結果採用されたのが艇首底面の『かつおぶし』と呼ばれる波抑え装置と端に取り付けられたスカート状の板であり、これは戦後の救難飛行艇にも受け継がれている画期的なシステムであった。
話がそれたが、川西の技術者たちを悩ませたのが着陸機構の問題であった。なにしろ彼らは飛行艇屋、地上に降り立つための脚など設計したことはない。また、この大攻の最大離陸重量はおよそ三十トン。当時実戦配備が進みつつあった一式陸攻はおよそ十三トンである。このような大重量を支える脚など日本では誰も造ったことが無かったのだ。さらには十三試大艇は高翼といって胴体の上に翼が乗る設計だ。つまり、地面と翼の間の空間が非常に大きい。これは海面からエンジンを離す必要のある飛行艇ではプラスに働くのだが、脚を翼につける場合は非常に不利に働く。着陸脚が長すぎて収納できなくなるのだ。設計作業は行き詰りつつあった。
ここで、十三試大艇から解放された菊原が設計作業に本格加入する。彼の後輩曰く、菊原技師はアイデアの人だった。何か行き詰ったことがあっても、翌日には何か新しい案を考えてきていた。ここで菊原は脚を伸縮させてエンジンナセルに格納することを思いつく。だが、この伸縮式主脚案はとても強度を確保できないとして沙汰やみとなった。また、単に長さを短くしてもこの重さの機体を支えるのに必要な車輪は非常に大きなものとなり、このままでは翼に入りきらない上に特注のものとなって高くつきそうだった。これは、彼のポリシーである"軽く、安く、強く"にも反している。彼の哲学では、よい飛行機というのは価格が安く、丈夫で、何より軽いものでなければならなかった。
解決策は、ある意味で非常に簡単だった。「翼が高くて困るのなら、翼の位置を下げよう」「車輪が大きくて収まらないなら、小さいのを二つつけよう」まさに逆転の発想である。主翼の位置は胴体の爆弾倉の上あたりまで下げられ、中翼配置となった。そして主脚のタイヤは中攻のものを横に二つ束ねて一本の主脚にまとめる形となり、大きな緩衝装置を仕込んで巨体の重量を支えるものとした。
また、当初は着陸脚の形式を零戦や一式陸攻と同じように大きな主脚と小さな尾輪で構成される尾輪式にする予定であったが、飛行艇の尾部は荷重をかけられる設計になっておらずこのままでは相当な強化が必要になると予想されたため、艤装担当の足立技師の提案で前輪式と呼ばれるあまり大きさの変わらない脚を機首につける方式を採用することになった。この方式なら、着水の衝撃がかかるために強度のある元艇首部分に前脚を置けるため強度が無駄にならずにすむのだ。
この前輪式着陸装置はこれまた制式機では本機が日本初の採用となるが、尾輪式の機に比べて滑走距離が短くなる、地上操作が格段に容易となるなどの利点があった。しかし、前述のように日本では採用された前例がなく、強度計算の式が確立されていなかったため試験飛行の時に改良を施されることになる。
そして、先だって胴体床下から追い出した燃料タンクは爆弾倉上の胴体に移設した。胴体タンクはアルミを溶接した筒状の大きなもので、中央に通路を残し両脇に並べた。仮眠用のベッドがいくつか犠牲となったが、陸攻は大艇より長距離哨戒の機会は少ないだろうとして折り畳み式寝台を後部に設置することとした。
大艇からの変更点をおおまかにまとめると以下の通り。
・艇体の高さを大幅削減
・爆弾倉の設置を含む胴体再設計
・垂直尾翼の増積
・主翼の低翼化
・前輪式着陸装置の追加
・それに伴い内側エンジンの装備位置変更
こうして、十三試大艇に遅れること数か月。兵庫県西宮にある川西飛行機鳴尾工場で試作一号機が完成、隣接して造成中の海軍鳴尾飛行場で初飛行の時を迎えた。この工場は飛行艇製作の為に建設されたもので、広い工場内には柱が全くない大型機製作にうってつけのものだった。工場の格納庫から誘導路をまわってきた大攻が、海に向かって開かれた滑走路の先端に向かって停止した。いよいよこの巨体が空へ飛び上がる時がきたのだ。
操縦輪を握るのは海軍に依頼して派遣してもらった原真弓少佐。川西飛行機は本機が大艇改造の大攻ということで、陸上機と飛行艇両方の操縦経験がある人物を希望したのだ。コックピットで正操縦席に座るのが原少佐、副操縦席には十三試大艇の初飛行にも搭乗した大田与助操縦士がつき、菊原がその後ろについた。
川西飛行機の全社員と海軍の担当者が見守る中、滑走路端でアイドリングしていた大攻が四基のエンジンを一斉に全開にあげた。一五〇〇馬力の火星エンジンが咆哮し、軽荷状態の大攻が猛然と加速する。この大攻のために重コンクリートで舗装された滑走路を進む大攻が、ついにふわりと浮かび上がった。大攻を見つめていた集団から歓声と拍手が巻き起こる。以前に目の前の海で初飛行を行った大艇と比べてもその挙動は軽快だ。
一通りの旋回や上昇下降を繰り返した原少佐は、今度は急な旋回や襲撃運動のような初飛行には似つかわしくない運動をして下で見ている人々を軽く心配させながら三十分ほど飛び回り再び地上へ戻ってきた。戻ってきた少佐がいうことには、「空中安定性の不足、特に横安定性の改善が必要。他の細かい点はその後」とのことだった。菊原にとっては大艇の時と同じような指摘だったが、あれだけ胴体を削った以上横安定性が下がることは予想されたことであった。
早速、その日から改良作業が始められ、風洞試験と並行して尾翼の増積工事が行われた。第二回の飛行は順調に行われ、飛行を終えて戻ってきた原少佐は「この飛行機はモノになりそうですね」と満足そうに述べた。菊原ら設計者にとって何よりの言葉だった。
だが、問題は過荷重状態での試験後に起きた。着陸時に胴体後部で異音が発生、調べてみるとなんと亀裂が発見されたのだ。破断一歩手前の大きな亀裂が生じた原因は、前述のように前輪式機に対する知見不足だった。不採用となった中島の十三試大攻でも前輪式を採用していたが、これは原型機の設計を流用していたのでこのような問題は起こらなかった。しかし、この後中島飛行機が製作した大攻は試験中に胴体が切断される事故を起こしていることから、何事も自力でやってみなければ本質はわからないものだといえるだろう。
また、降着装置にも破損がみられた。その場所は前輪支柱と主脚の緩衝装置で、これまた川西飛行機設計陣にとって経験が薄い箇所であった。これらの箇所は補強と若干の設計変更により対処されることとして、初号機は補修工事の上ふたたび試験に供されることとなった。その結果、不整地での運用に問題があることも判明したが、脚部の補強と共にこの大攻が運用できる飛行場は結局大飛行場であり前線の不整地飛行場では運用不可能であるため実用上の問題は少ないと考えられた。
そして、空技廠に移管されての公式計測で最大速度二五八ノット(時速四七七キロ)を記録、燃料消費量から航続距離は三八八八カイリ(七二〇〇キロ)と算定された。いずれの値も海軍の出した要求にわずかに及ばなかったが、海軍はこの成果に満足した。急遽命じられた製作にもかかわらず川西飛行機は短期間で設計を完了させた上に、ほぼ要求通りの性能をたたき出したからだ。この成果は、この大攻開発に川西飛行機の全精力をつぎ込んだ川西龍三の英断の賜物といえよう。
なお、この影響でこの時期川西が手掛けていた十三試大艇、十四試高速水偵、十五試水戦の生産開始・部隊配備が一か月から半年遅延したといわれるが、いずれも生産数の限られる水上機であり戦局への影響は無かったとする見解が一般的だ。とはいえ、十三試大艇あらため二式大艇は初の実戦参加となった四二年五月のK作戦にてハワイ・ミッドウェー方面の偵察を成功させ南雲機動艦隊の側面支援を行い、後の連合艦隊乙参謀によって「K作戦が無ければ南雲機動艦隊はまったく情報のない中、基地航空隊と母艦航空隊の二正面作戦を強いられたであろう。そうなれば被害はあの程度では済まず、最悪の場合四空母全滅もあり得た」とまで評されている。また、十五試水戦は水戦としては振るわなかったものの、低翼の局地戦闘機『紫電』の母体となって活躍、戦後その活躍は漫画として親しまれることとなった。この頃は間違いなく川西飛行機の黄金期であったのだ。
十三試陸上攻撃機は一九四二年四月に制式採用されると、海軍の命名基準に従い二式陸上攻撃機と命名され生産が開始された。生産工場には飛行艇用に建設された川西飛行機の鳴尾工場が割り当てられたほか、川西だけでは十分な生産数を賄えないとして、中島飛行機が自社のLX(中島十三試大攻の社内名称)用に新規建設していた大工場でも生産が開始されることとなった。かつて工場を奪われ、他社飛行機のライセンス生産で糊口を凌いでいた川西飛行機が、中島飛行機一社指定の十三試大攻を横から奪い取り、しかもより高性能の機体を提出し、さらにそれを中島飛行機にライセンシーさせる。まさに復仇成就の瞬間であった。
この知らせを社長に伝えたある社員は、扉の閉まった社長室から長いこと川西龍三の高笑いが響いていた、と証言している。
参考文献:最後の二式大艇 碇義朗 2009/4 光人社
最期のシーンはリスペクトというかオマージュというか