帰らぬ翼(剣号作戦)
第二次丹作戦終了後、陸攻部隊はいくつかの航空隊に再編された。大攻隊は新設の第七六五空に集約され、上陸近しと噂のあった沖縄から遠く離れた小松基地へと移動した。
移動の理由は三つ、一つはマリアナからの本土空襲が激しくなってきたことから地上において目立つ大攻を疎開させるため。もう一つは訓練が完了して沖縄近海の艦艇攻撃の任につく七六四空の一式陸攻に基地を譲るため。そして最後が、目の前にある“新兵器”の受領と訓練のためだった。
のっぺりとした機首には戦艦すら一撃で葬る徹甲弾が仕込まれ、そのままの大きさで続く胴体からは不自然に短い翼。特徴的な双尾翼の間からは初期のジェットエンジンが顔を覗かせる。白く塗られ、桜と日の丸があしらわれたそれは、ある一点を除けば今でいうスマート爆弾やミサイルとほとんど変わらない代物であった。人一人が乗る操縦席があることを除けば。
覆い布がのけられ、全容を現したそれの名は桜花三三型。人間を誘導装置として一発必中を期す特攻兵器であった。
既に新聞では神雷部隊として活躍が報じられていたが、赫々たる戦果をあげたとされる本機がベニヤの合板製だというのには驚いた。あんなちゃちな機体に乗って若人たちが散っていったのかと思うと、胸が締め付けられるような気分であった。
そんな胸中をよそに、中央から派遣されてきた参謀が目の前の機体の説明を始める。
曰く、この機体は盟邦ドイツよりもたらされたジェットエンジンを搭載しており、敵艦隊付近で母機から投下された後は装備した逆探を頼りに目標を探すのだそうだ。その後、敵艦を目視したら翼端を爆破して切り離すことにより加速、そのまま突入するとのことだった。
後で知ったことだが、このジェットエンジンは日独連絡潜水艦伊二十九によって運ばれたメッサーシュミットMe262シュワルベのエンジンを参考に日本で作られたものだった。何故国産ではなくドイツ製と言ったかは定かではないが、三大洋を押しわたり命懸けで運んできたエンジンが必死の人間爆弾に使われるとは、なんともいえないものを感じる。
さらには、現代のようにコンピューター制御など無い時代のことであるから、飛行中に翼形が変わる機体を操るのは並大抵の搭乗員には不可能だ。つまりこの桜花三三型の性能を十全に発揮するためには、テストパイロットすら務めうる熟練搭乗員の犠牲が必要というわけだ。通常攻撃でなぜいけないのか。
いずれにせよ、なんとも無茶なものを作ったものだ、というのが私たちの率直な感想だった。
翌日からただちに訓練が始まった。
とはいっても、母機たる我々にとっては大した話ではなかった。一式陸攻にとっては過大な二トンから大きく増えた三三型の重量も、一トン魚雷四本を抱えて飛ぶ大攻にとっては軽いものだ。懸念された空気抵抗の影響も軽微で、最高速度が二〇ノットの低下にとどまった。
隊員の訓練は零戦を用いた模擬訓練と実機を用いた本格的なものの二段階があるようで、模擬訓練を数回済ませた後に実機訓練を成功させれば技量Aとなる。
まず零戦でエンジンを絞って滑空したまま着陸する訓練を何度かやり、その後に弾頭をバラストに替えた桜花で大攻から発進する。実機での訓練は低高度からの発進訓練と高高度からの実戦的な訓練に分けられ、最終的に逆探を頼りに出発した飛行場に戻って無事着陸できれば合格という訳だ。
ここまで読んでお気付きになっただろうか。翼端を切り離す訓練は行っていないことに。
ある意味当然かもしれないが、必死の特攻兵器である以上は突入訓練を行うことができない。そのため翼端切り離し機構の使用は随時かつ任意とされていたが、活用できたのは一部の腕利きのみであっただろう。
その数少ない腕利きのなかで、唯一の士官搭乗員だったのが中村大尉であった。大尉は桜花隊の長で、初めてお会いしたのは実機での発進訓練の際だった。
発進前に愛機の点検をして外に出ると、一人の士官に声をかけられた。それが中村大尉で、二言三言挨拶をかわして「今日は宜しく頼む。一刻も早く部隊練成を完了せねばならん」と言われたのが最初だった。その雰囲気に私は何かただならぬものを感じ、大尉も私が察したと気付いたのか声を潜めて教えてくれた。
「先日から海陸軍の総特攻が始まった。在九州の航空隊はもちろん艦隊も出たそうだ。『大和』も沖縄へ出撃したらしい」
それ以上は言ってくれなかったが、敵の待ち構える海域に出ていく以上いくらあの巨艦といえど無事ではすむまいと当時でも想像はついた。事実、戦史は『大和』以下第二艦隊は沖縄泊地への突入を期して米艦隊と交戦、壮絶な最期を遂げたと伝えている。
発進時刻になって、桜花を抱いた大攻が誘導路を抜け滑走路の端のコンクリートに乗り上げる。四基のエンジンが吼え、毎分二六〇〇回転の全開出力によりゆっくりと機体が動き出す。滑走路の中ほどで早くも機体が浮き上がり上昇を始めた。操縦桿が重いといったことはなく、むしろ普段より燃料を積んでいない分機体が軽いため快調とすら言えた。
特筆すべきこともなく高度三〇〇〇に到達、指揮官席に腕組みして座っていた大尉に合図すると、わかったと言うように右手を軽く上げて爆弾倉の桜花に通じる穴に姿を消した。暫し待つと操縦席から『準備よろし』の電信が送られてきた。高度三五〇〇で投下進路に入る。投下の瞬間、機体がふわりと浮き上がった。
母機から離れた桜花は真っ逆さまに地面へと吸い込まれていく。みるみる遠ざかる機体を、負けじと動力降下で追いかける。接地予定の小滑走路上空を何度か旋回していると、眼下に桜花が最終旋回に入るのが見てとれた。
大尉の操る桜花はかなりの高速を維持したまま接地点で足をつけ、胴体下のソリでもうもうと土埃を巻き上げながら停止した。何度か着陸事故を起こしている操縦の難しい機体を、初めてにも関わらず手足のように操る様はまさに熟練者のそれであった。
それから部隊各員の訓練も進み、桜花隊のほとんどが発進訓練修了という段階になってそれは起こった。着陸事故である。
私の機はちょうどその事故機の後に訓練を行う予定となっており、次の桜花を搭載するために所定の整備点に機をのせたところであった。整備点のコンクリートのくぼみーー桜花の高さが地面と大攻の腹の間よりわずかに大きいために掘り下げられたーーに大攻の爆弾槽をピタリと合わせる、という神経を使う作業を終えて一息ついていると、なにやらあたりが騒がしい。
懇意にしている整備員を捕まえて尋ねると、先に飛び立った機の落とした桜花が不時着事故を起こしたらしい。滑走路を延伸工事中だった不整地に突っ込んで転覆したそうだ。
その日の訓練が中止になった後、事故を見ていた連中の話を合わせると事故の顛末はこうであった。
その日、事故を起こした少尉は朝から顔色が良くなかったらしい。というのも、急な体調不良者が出て朝一番に桜花搭乗決まったのだという。精神的に余裕がない状態だったのだろう。
それは機内でも変わらず、一緒に上がった兵曹も同じようなことを言っていた。大攻から桜花に移乗するのは訓練では所定高度に移ってからなのだが、件の少尉は移乗に時間がかかり投下地点を過ぎてしまった。
なのでもう一回りしてから投下したそうなのだが、投下してしばらく経っても機首を下げたまま突っ込んでいくではないか。本来の桜花の機動は、投下後数秒自由落下した後に重い頭を下げて機速を増し、その後滑空飛行を始める。いつまで経っても滑空に入らないので、上では最悪の事態も覚悟したらしい。
幸いにも地面に突っ込む前に持ちなおしたのだが、今度は飛行場と逆の方向に滑空していくではないか。思わず、そっちは逆だ、と叫んだそうだ。
その叫びが通じたのか、機は反転して接地点へと向かいだした。しかし動力を持たない滑空機の悲しさ、無駄にした高度を取り戻す手段はない。
正規のコースを省略して滑走路に侵入することはできたものの、逆に速度が残りすぎてオーバーラン。滑走路の先にあった砂利の山に機首を突っ込んでひっくり返ってしまった。
幸いにも、その少尉に命に関わる怪我はなかった。通常なら、機体が転覆すれば搭乗員の頭ごとキャノピーが押し潰されて大怪我は免れない。
だが、桜花は母機から発進する都合上双尾翼であるため、機体と地面の間で尾翼がつっかえ棒のようになり助かったのだ。とはいえそれなりの怪我は避けられず、しばらく戦列を離れて入院となったそうだ。
事故から数日して、飛行日誌をとりまとめていると長谷川大尉に呼び出しを受けた。
夜半の急な呼び出しであったが、長谷川大尉には木更津空で開戦後すぐから一年あまりつかえており、三分隊長と長機の操縦員という関係であったことから気心も知れていたので特に不安もなく士官室へと向かった。
「明朝、二個小隊を率いて松島に飛べ。詳しくは現地で知らせる」
すると、顔を会わせるなりこう命じられた。突然のことに驚いていると、耳を貸せ、というように手招きされた。
「なんでも、特別作戦の援護だそうだ。直属の指揮官は貴様も知っている人間だぞ」
ともかく命じられた以上は、と士官室を辞して洗面具程度の身支度を整えて指揮所に集合したときには空が白んでいた。あの口振りなら桜花母機の任務ではなかろうと、たかを括っていた節もあったかもしれない。集められた顔ぶれと機体は明らかに上等なものから選ばれたものだった。
そのまま滑走路を蹴って一路北へ、昼前には松島へ全機揃って降り立った。
指揮所に挨拶へ赴くと、そこには下田中尉が詰めていた。中尉とはマリアナの後に入院されて以来だからほぼ一年ぶりであったが、私のことを覚えておられたようで、よく来てくれた、と歓迎してくださった。まだ昼前であったが、移動の疲れもあるから今日のところは解散してよい、とのことだった。
それから、中尉のご厚意で私室での昼食の相伴に預かった。食後、初めてこの特別作戦である剣作戦の説明を受けることになった。
剣作戦とは、簡単に言えば北マリアナ諸島の航空基地に対する特攻作戦である。
先年のマリアナ沖海戦の後、激戦の末に占領されたサイパン、テニアン、グアムの飛行場はB-29の巣窟となっていた。当時は本土決戦が叫ばれており、その準備のために時間を稼ぐ必要があった。だが、飛来するB-29は『超空の要塞』の名に恥じぬ堅牢さと高高度性能を誇り、我が方の迎撃は困難であった。
ならば飛び立つ前に地上で破壊する他あるまい。そうして何度も硫黄島から攻撃を行ったが爆撃を中止させるには至らず、三月には硫黄島が陥落し通常の攻撃が不可能となった。
そこで、片道切符の空挺作戦によりB-29を地上破壊する作戦が立案された。作戦の概要としては、武装を撤去した一式陸攻を輸送機代わりに海軍陸戦隊を分乗させるというものだ。これは硫黄島陥落直後から立案されていたのだが、別の作戦に用いられる予定だった航空部隊や陸軍部隊も参加することとなったため、その支援と援護に再建途上の大攻隊も動員されることになったらしい。
後に聞いた話も合わせると、我々大攻隊は烈部隊という部隊に編入されたようだ。この烈部隊は、元々は銀河陸爆に地上攻撃用の散布爆弾や機銃を搭載して硫黄島を空襲する烈作戦のために編成された部隊であったが、紆余曲折あって目標をマリアナ諸島に変更して剣作戦と共同することになった。
本作戦における大攻の役目は、作戦参加機の誘導と戦果確認であった。実はもうひとつあったのだが、それは後で述べる。作戦は満月の近辺とはいえ夜間に行われる。加えて長距離を飛行する上にどちらの機種も乗員が少ないため大攻により誘導を行うのだ。
明けて翌日から訓練が始まった。といっても主に銀河隊の訓練であり、大攻は夜間の航法訓練に協力するのが精々であった。ここで、特に若い搭乗員から不満が出た。曰く、折角敵地へゆくというのに手ぶらで行くとは何事か、というのである。
確かに、大攻の航続距離は爆弾装備状態でも本土ーマリアナ間を余裕をもって往復できる。とはいえ、こんな少数機で爆弾を持っていっても仕方がないだろうとは思っていたが、改めて言われてみればできるのにやらないとは癪だ。そういう訳で、直談判すべく中尉のもとへ赴いた。
中尉の私室へ向かうと、部屋の前で中尉付きの従兵に止められた。航空本部からの来客中らしい。
なら出直すかと踵を返したところでドアが開き、ほんのり顔に赤みのさした中尉が顔を出した。
「分隊士、中佐が顔を見たいそうだ。入れ」
はて、そんな雲の上に知己はいないぞ、と思いながら入室すると、そこには木更津空時代の飛行隊長の姿があった。なんでも、千歳への視察のついでに寄ったそうだ。
「大攻乗りも、もう随分と少なくなってしまいましたからね」
皆で分けなさいと菓子の包みを渡された後、東京への帰路にここへ降り立った理由をそう仰った。
確かに、今の陣容を見渡しても開戦劈頭からの顔は数えるほどしかない。大攻は陸攻より頑丈ではあったが、弾幕に突っ込めば傷つくし、傷つけば還らないことも多かった。ソロモンの戦いやマリアナ沖海戦のような戦いでは、一気に半分以上の戦死者を出すことも珍しくはない。
幸運にも私とペアは生き残ることができたが、指揮官の立場では幸運などと言ってはいられなかったであろう。
戦後に聞いた話では、中佐は前線を離れた後内地勤務を経て航空本部で勤務されたそうだ。その時に桜花にも関わっておられたらしい。
だからだろうか、来るべき作戦に向けて不足な物があるなら遠慮なく言え、と帰り際に最大限の支援を約束してくださった。私はそのお言葉に甘えて、是非とも今時作戦において我々にも一矢報いさせて欲しいと訴えた。戦友が突っ込むというのにただ見て帰ってくるというわけにはいかない、というようなことも言ったと思う。すると、中佐はひとつ頷いて「よくわかった」とだけ言い残して基地を後にされた。
七月二六日、いよいよ作戦日を迎えた。
この基地に移動してから三ヶ月あまり、既に沖縄、硫黄島が玉砕し、東京、大阪、名古屋の三大都市は大規模な空襲により壊滅的な打撃を受けていた。他にも工業地帯や地方大都市にも空襲は及びつつあり、家族を地方に疎開させたという話もちらほらと聞こえるようになっていた。大攻隊員の間でも、次の大空襲は京都か広島かという話がおおっぴらにではないが話されることもあったようにおもう。
昼前、装具を整えて指揮所前に集合、訓示を受ける。
訓示のあと、軍医から搭乗員一同に栄養剤の注射を受けた。長距離作戦の際にはよく用いられたもので、今でいうヒロポンの類いである。別れの杯を交わしあった後、搭乗員たちはそれぞれの愛機へと走った。
今回我が愛機が抱えるのは新型の試製二〇〇〇瓩爆弾だ。制式名称もないこの二トンの大型爆弾は、幻となった次世代陸攻用に試作が進んでいたものを原中佐が手を回して送ってくれた代物である。これを各機二発づつ搭載した。
元々この機に搭載する設計ではなかったため、爆弾倉に収まりきらず扉を開け放しての進撃となる 。
発進前に信管の安全装置を解除。これで爆弾は活性化し、信管が作動すれば充填された一トン半の炸薬がエネルギーを開放することになる。私は灰色に塗られた鍛造鋼板の弾体を一撫でして必中と炸裂を祈した。
無事大攻隊は全機が離陸に成功、そのまま針路を南に取りつつ各地に分散していた作戦機と合同していった。
最終的に館山の沖合で木更津から飛び立った陸攻隊と空中集合し編隊を組んだ。
目指すはマリアナ諸島、敵手に堕ちた硫黄島を大きく迂回しての二四〇〇キロもの空路の果てだ。当然、道中に目印となる島は一切なく、行程のすべてを推測航法に頼ることとなる。
作戦に参加するのは、空挺隊員を輸送する剣部隊が一式陸攻六〇機、飛行場銃爆撃にあたる銀河陸爆が七二機。これに誘導の二式大攻が加わる。
陸攻も銀河も陸戦隊員や対地装備を積むために乗員を減らしており(陸攻が通常七名のところ五名、銀河が三名のところを二名もしくは単独)さらに旋回機銃の大半も降ろしているため我々の存在が文字通りの命綱であった。といっても、敵夜戦の前には二〇ミリ機関砲など螳螂の斧にすぎない(もっとも、多少小細工は施してあった)のだが。
松島を発って八時間近く、すっかり日も落ちて満月が海面を照らす。作戦の日取りは月齢に合わせて決められていた。
ここまでに全体の一割弱が引き返すか落伍していたが、幸い大攻はまだ一機も欠けずにたどり着いた。まもなくマリアナ諸島からの電探覆域に突入する。
全機、編隊をゆるく保ったまま海面近くまで高度を下げた。漆黒の海面と星空の間を突いて島影を目指す。既に逆探には敵の電波が捉えられている。
他の二島より一五〇キロほど南に位置するグアムを目標とする部隊と別れた後、テニアンとサイパンを目標とする我々はテニアン島の西方五〇キロの地点に到達した。
「時間だ。始めてくれ」
航空時計とチャートを交互に睨んでいた下田中尉が顔を上げて命じた。僚機と短く発光信号が交わされ、全機の準備が整った。我々のもうひとつの任務、突入する部隊のためのオトリ作戦の準備が、だ。
飛行場への強行着陸を行う陸攻や機銃と小型爆弾を装備した銀河と違い、大型爆弾を抱えた大攻は攻撃を行うためにある程度の高度を取る必要がある。当然、高度を取れば早期に発見されてしまうわけで、それを逆手に取って低空から侵入する味方機から目を逸らさせる役目を担うこととなっていた。
高度二五〇〇、既に敵のレーダーにはくっきりと姿が写っていることだろう。無線傍受から察するに、地上は空襲かと大騒ぎらしい。少なくとも作戦を事前に察知はされていないらしい。
中尉はさらに機上電探に火を入れるよう命じた。この上自ら電波を出して、敵機を吊り上げようという腹だろう。
その時、前方にぼわっと光が生じた。照明隊の吊光弾投下が始まったのだ。
パラシュートに揺られながら落ちる百万燭光のマグネシウム照明弾が二箇所の目標近辺をぼんやりと照らす。
本隊の目標はテニアン島中部の市街跡近辺にあるテニアン南飛行場と、島北端にあるテニアン北飛行場。これは不時着したB-29乗員に対する尋問の結果決定されており、西から滑走路へアプローチする。
我々はそこから目をそらすため南に大廻りしてから目標上空を縦断するコースをとる。爆弾の投下目標は格納庫、修理工場、燃料廠、在泊艦船――要するに滑走路以外の重要目標を適宜攻撃する。急に決まった爆撃でもあり、その判断は現場に任されていた。
と、飛行場の手前、テニアン港付近から対空砲火が上がった。いよいよ捕捉されたらしい。尾部銃座からは細長く切った錫箔がばらまかれる。レーダー波を撹乱するためだ。
大陸からソロモン、マリアナまで対空砲火に突っ込むこと数知れず。それでもついぞ慣れることはない。まだ昼間ほど正確な射撃ではないのが救いか。
それにしても、投下目標の最終決定はまだであろうか。出撃前の打ち合わせでは、一発はテニアン港もしくは南飛行場周辺施設、もう一発はテニアン北飛行場周辺施設に一斉投下と決まっていた。
実際にはバラバラに投下して滑走路に大穴を開けてしまっては困る(あくまで本命は強行着陸隊)からであるが、それだけ嚮導機たる我々の責任は重大だった。
「港内に艦影! 戦艦らしい!」
機首の偵察席から声があがった。戦艦! 大物ではないか。
ただちに中尉は攻撃を決めた。発光信号が短く交わされ、編隊全機が攻撃態勢をとった。もう投下まで間がない。間に合うか。
「ちょい左ー、宜候ー、そのままー」
機首からのくぐもった声が目標の近いことを感じさせる。
「よーい、ってー」
投下索が引かれた瞬間、二トンの爆弾が機体から自由となり落下を開始する。
突然一割も軽くなって浮き上がる機体を押さえつつ、方角を微修正して針路を第二目標の北飛行場に向けた。
対空砲火はますます激しくなり、機内にも硝煙の匂いが流れ込んできた。時折、砲弾の破片か機銃弾が機体に刺さる音がする。
「次目標、北飛行場航空廠」
事前の図演では、テニアンを占領した米軍は我が方が建設した飛行場を工業力にものを言わせて大幅に拡張していると説明された。旧第一、第四飛行場を取り壊して滑走路四本を備える大基地を建設していたのだ。
号して一千機を数え、日本列島を焼き尽くさんとするB-29の群れを養うため、膨大な燃料弾薬の他に贅沢な修理工場まで持ち込んでいるらしい。次はそこを叩く。
そのとき、けたたましいブザーが鳴り響いた。
「敵機! 左下方!」
「欺瞞紙撒け! 」
いよいよ敵夜戦のお出ましだ。銃座が敵機を指向し、射撃準備を整える。
こちらからは撃たない。まだ引き付ける。
「撃ってきた! 斜め銃だ!」
聞こえるか早いか全銃座が火を吹いた。
この日のために弾倉を曳光弾でいっぱいにした二〇ミリ機関砲が敵機に光の雨を降らせる。
通常の一〇〇門ぶんの機関砲弾を浴びせられて肝を潰したのか、敵夜戦は翼を翻して離脱していった。
闇夜にぼんやりと浮かびあがった機影はずんぐりとした双発双胴で、見た目からは想像もできないほど機敏な動きだった。
おそらくP61ブラックウィドー夜間襲撃機だろう。
幸い敵機は少数機一航過で反復攻撃は無かったので、そのまま定針して投弾してしまった。
身軽になった愛機を離脱コースにのせていると、飛行場付近で次々と爆発が起こり、照明弾が打ち上げられ始めた。
「やった、挺身隊がやったぞ!」
あの爆発は烈部隊の銀河によるもので間違いないだろうし、盛んに打ち上げられる照明弾は剣部隊が強行着陸して戦闘を開始した証だろう。
我々の投じた爆弾も、初弾こそ命中を確認できなかったものの二発目は敵施設を派手に吹き飛ばすことに成功した。
「剣部隊の突入と烈部隊の攻撃成功を確認、これより帰投する」
中尉の命令に従い機首を北に向けた。
途中、対空砲火で一機を失い、発動機不調により一機がパガン島へと不時着したものの、他の機体はなんとか本土に辿り着くことができた。
かくして剣号作戦は完了した。
数日整備と休養を行って木更津から懐かしの母基地へと戻ると、長谷川大尉と参謀飾緒を吊った少佐が出迎えてくれた。
その晩は主計課による心づくしの慰労会が催され、久方ぶりの酒宴に一同酔いしれた。
私もしこたま飲んでよい気分になって厠に立ったのだが、その途中で飛行隊幹部のお歴々と参謀の少佐が立ち話をしているのを見かけてしまった。
一気に酔いが覚めた心持ちで、関わらない方が良いと踵を返したのだが一寸遅かったようだった。
翌朝、大尉に呼び出されて私室に向かうと、昨夜のことについて問われた。
私は正直に、何も聞いておりませんし酔っていたのでよくわかりません、と答えた。
信じて貰えたかはわからないが、大尉は「マア貴様にも無関係ではないしな」と呟いて昨夜の会合について教えてくれた。
内容をかいつまんで説明するとこうだ。
先日の剣作戦は、B-29の空襲が止まないことから効果は限定的と見られていた。
しかし、通信分析の結果から本国との長波通信が急増していることが判明した。これは将官クラスの死亡など何らかの重大な事が起こっていると推察できる。
また、今週に入ってB-29の活動が下火となってきており、ウルシー環礁を監視していた潜水艦から機動部隊出撃の報告が舞い込んでいることから、与えた損害は小さくなかったと思われる。
大攻隊は敵艦隊の来襲に備え、桜花隊の練成に励んでもらいたい。
私はこれを聞かされて胸のすくような気分になった。
なにせ、帰還直後の木更津では碌な戦果もなくおめおめ逃げ戻ってきたかのような気分で針のむしろに座っている心持ちだったからだ。
直接どうこう言われた訳ではないが、あまり長居したいとは思わなかった。
その日から飛行訓練が再開された。
剣作戦に参加する前に練成していた組は既に出撃しており、今ここに居るのはその二期後の組だった。
風の噂によると、この組で三三型の練成は終了されるらしかった。
本土決戦が迫るなか地上発進型の桜花が開発されており、手間のかかる大攻母機型の生産がそちらに振り向けられるとのことだ。
もはや長駆進撃して敵を探し求める必要がなくなる以上道理ではあった。
戦後知った話だが、その基地のひとつが比叡山に置かれていた。
観光用のケーブルカーを徴用して資材を運び、発進用の大型のカタパルトが完成間近だったという。
本土決戦に備えて各地に発射基地が建設されていたが、終戦までに形になっていたのはここを含めて数カ所であった。
話がそれたが、練成は順調に進んで実機訓練が半ばというところまで来た。
忘れもしない八月九日のことだった。
ソ連邦参戦す。
この報を聞き及び、ついに来るときが来たか、との思いが胸中をよぎった。
七月末、奇しくも剣号作戦と同日の二六日に発表されたポツダム宣言は米英中の首脳による無条件降伏要求であったが、二月のヤルタ会談でも分かる通りソ連は間違いなく連合国の一員であった。
第一、ソ連からしてみれば西のドイツが片付いた以上、東に目を向けるのは必然であろう。
ソ連参戦の報により、長谷川大尉はただちにウラジオ攻撃を企図したが、爆弾の集積が間に合わず一二日まで出撃がずれ込んだ。
さらに機体も遠距離攻撃に耐えうる機体は少なくなっており、やっと五機の攻撃隊を送り出すにとどまった。
当然熾烈な迎撃が予想され、また護衛のつかない攻撃行に全滅すら覚悟して臨んだのだが、予想に反して一切迎撃を受けることはなかった。
高角砲などは我が方が港湾施設目掛けて投弾してから撃ち始める始末で、まったく攻撃を予見していなかったと思われる。
このように拍子抜けしながら基地へ帰還すると、滑走路や駐機場は穴だらけになっており、建物からは火の手が上がっていた。
しばらく上空待機した末に着陸すると、どうやら我々の出発と入れ違いに艦上機による空襲を受けたらしい。
この空襲により第二次攻撃は中止され、この出撃が我々の最後の出撃となった。
以降、一五日正午の玉音放送をにより戦闘を停止。
二〇日の小澤治三郎司令長官の解隊の訓示を受けて二二日をもって七六五飛行隊は解隊した。
搭乗員は出身地ごとに機体に分乗し、機体を飛行不能処分としたのちに各自の郷里へと復員した。
かくして私の戦争は終わったのだが、この剣号作戦にはちょっとした後日談がある。
戦後しばらくして、郷里に帰った私はGHQから呼び出しを受けた。
すわ戦犯の指定かと覚悟を決めながら出頭すると、戦略爆撃調査団の陸軍少佐と日系人の通訳に出迎えられ、剣号作戦に関する聴取を受けた。
その過程で私の軍歴にも話が及び、私が参加したソロモンやマリアナの海戦について述べるといたく驚いた様子で、君は本物の英雄の一人だ、との賛辞を頂いた。
帰り際、何か質問はあるかと問われたので心残りだったことについて尋ねた。
剣号作戦でテニアンを空襲した際、たしかに戦艦を照準して投弾したはずだがあれはどうなったのか、と。
件の少佐は、本来は軍機だがあなたに敬意を表してお教えする、と前置いて、あなた方の爆弾は命中こそしなかったが至近弾により大破着底した、と答えてくれた。
もっともそれは戦艦ではありませんでした、と続けた彼に対しさらに、艦名は、と尋ねると、僅かに逡巡した後にこう答えた。
「重巡洋艦インディアナポリス、それがあなた方帝国海軍が最後に沈めた合衆国艦の名前です」