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二式大攻開発史1

 二式陸上攻撃機は第二次世界大戦中の大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。海軍初の制式採用された陸上四発機であり、制式採用機中では最大級であることもあって二式大攻と通称される。

 開発は川西飛行機で、当時川西が開発中であった十三試飛行艇(後の二式飛行艇)を陸上機化したものでありH8K1-Gの略符号が与えられた。連合軍のコードネームは『Clariceクラリス』。


 敢えて紹介風に概要を書くとすればこうだろうか。

 その幅はゆうに零戦三機分にも及ぶ巨体であり、アメリカのB-24、イギリスのランカスターと並び称される大型爆撃機である。米英の同規模の機体と比べ、航続距離と運動性能に優れた設計で明確に対艦攻撃を志向していることを特徴とする。日本海軍にとってこの機体は、米英のように爆弾を積んで敵の都市を焼き払うものではなく、複数の魚雷を積んではるか遠くの敵艦隊に雷撃を仕掛けるものであったのだ。

 大型爆弾や航空魚雷を複数抱え込む太い胴体。大馬力の火星エンジンを四発取り付けた主翼。その威容は、陸上機と水上機という各所の際こそあれ確かに二式飛行艇の系譜を感じさせるものだった。

 旧川西飛行機、現新明和工業が世に送り出した二式陸上攻撃機は、飛行艇を陸上機に再設計するという方法で生み出された。その母体となったのはレシプロ飛行艇としては世界最高の性能を誇った同社の二式飛行艇であり、現在のUS-2救難飛行艇にもその血筋が受け継がれている名機の血を二式大攻もまた受け継いでいるのである。世界に目を向けてみれば、アメリカのコンソリデーテッド B-24 リベレーター、イギリスのショート スターリングの四発爆撃機もそれぞれコンソリデーテッド XP4Y コレヒドール、ショート サンダーランド飛行艇を設計母体としており、三大海軍国で同時期に飛行艇の設計を受け継いだ四発爆撃機が誕生していることは奇妙に感じるが、人間、国が違っても発想にそう違いはないということだろう。

 さて、それでは何故川西飛行機は飛行艇を陸上機化したのか。海軍の指示であろうか? それとも陸上機への野心故だろうか?

 先の例でいえば、英国ショート社は前者、米国コンソリデーテッド社は後者といえるだろう。ショート・ブラザーズ社は川西飛行機と同じく水上機や飛行艇に強いメーカーであり、四発機の設計経験があったことから四発爆撃機の試作命令が下った。コンソリデーテッド・エアクラフト社の場合は、同じく四発のB-17爆撃機をライセンス生産するよう持ち掛けられた際にそれを蹴って逆に後のB-24となる機体を売り込んだのだから野心ゆえといえると思う。それでは川西飛行機の場合はといえばどうなのかというと、おおよそ両方の理由半々づつだったといえよう。


 まずは海軍の指示からみてみよう。

 元々、川西飛行機はその技術的な師匠筋にあたるショート社共々水上機・飛行艇専門メーカーであった。飛行艇といえば非常に性能が低いものとされた当時において抜群の高性能を示した九七式大艇を送り出し、飛行艇メーカーとして不動の地位を築きあげていた川西飛行機にまずは十三試大艇の試作命令が下る。実は、同時期に中島飛行機に対して十三試陸攻の試作命令が下っており、この二機種の要求性能は機種が四発飛行艇と四発陸上機であった以外はほぼ同じものだった。

 この時期、海軍では軍縮条約で厳しく制限された艦隊戦力に代わり、基地航空隊の勢力増大及び遠距離作戦能力の向上によりその不利を補おうとしていた。だが、洋上を遠くへ飛ぼうと思えば単発機では困難であり、必然的に多発機の出番となる。双発陸上機の分野においては名機九六式陸攻(通称中攻)を生み出した三菱重工に十二試陸攻として発注され、後に一式陸攻として採用されることとなる。四発機は飛行艇を川西飛行機に十三試飛行艇として、陸上機を中島飛行機に十三試陸攻としてそれぞれ試作命令が下った。

 この両十三試は、初期においては中島飛行機の陸攻が先んじて開発を進めていた。中島飛行機が大型機の経験が浅かったにもかかわらず先行できていたのは、発注時期の差もあるが、なにより現物の見本が与えられていたためだと考えられる。その原型機となったのはアメリカより輸入されたダグラスDC-4E四発旅客機で、この機体から主翼と動力艤装を流用し胴体と尾翼を再設計するという方針で設計が進められた。しかし、購入したDC-4Eは死重が多く整備性に欠ける欠陥機であり、これを参考にした十三試陸攻も中島飛行機の経験不足もあって設計時点で重量のかさんだ駄作機となることが明らかになってしまった。このことは十三試陸攻が初飛行した一九四〇年暮れには明白になっており、中島飛行機の一社に製作を命じていた航空本部は焦りを深めていた。

 一方で、後発の十三試大艇の進捗にも問題が発生していた。一九四〇年末には十三試大艇も初飛行に成功し、飛行艇に似合わぬ高性能を発揮する見込みが立っていた。だが、飛行艇ならではの問題、離水時のプロペラ損傷が発生していた。飛行艇というものは、水面を滑走路として使用する。十三試大艇はその離水滑走時に艇首から生じる波しぶきが大きく、プロペラを直撃して破損させてしまうという欠陥が見つかったのだ。空中性能を良くするために前の九七式大艇よりも幅の狭い胴体と低い翼の位置を採用したことが仇となり、燃料弾薬を満載した際の喫水の下がり方が大きく、プロペラの位置も下がってしまっていたのだ。このままでは、魚雷を搭載しての雷撃や燃料を満載しての長距離哨戒ができないことになってしまう。致命的な欠陥であり、設計陣も顔面を蒼白にして原因究明と対策に奔走する事態となった。

 この二つの事案が海軍航空本部にとある計画を立案させることとなる。海軍としても、まさか次世代大型機の試作機がかたや話にならない低性能、かたや性能はいいが満載で飛び上がれないでは話にならない。大攻・大艇用の兵器開発も進めており、国際情勢も英独の戦争が既に始まっている現状、一刻も早く対策を打つ必要があった。

 一九四一年初頭、航空本部は三菱飛行機・川西飛行機の両社に短期間での四発機陸攻開発を打診した。この二社を選んだ理由としては、両社ともにかたや陸攻、かたや飛行艇と大型機の設計経験が豊富だったことがあげられる。また、個別の理由としては、三菱が十二試陸攻試作の際に四発機案を逆提案してきたことから、川西が既に良好な性能を示している十三試大艇の改造により良好な性能が見込めると考えたからであった。

 しかし、最初は両社とも難色を示した。

 三菱が難色を示したのは、当時十二試艦戦や十二試陸攻の設計が佳境を迎えており設計班に余力が無かったためと、一度蹴ったものをやれと言ってきたことへの感情的な反発があったと思われる。この間は話も聞かず断ったのに今更なんだ、といった感じだろうか。

 もう一方の川西も決して乗り気だった訳ではない。川西飛行機の設計に関わる人間は部長からトレーサーの女工まで二四〇名程度だったが、この内九割が十三試大艇に関わっており、まだ大艇が完成したとは言えない現状とても短期での大攻開発は難しいと言えた。川西飛行機は航空機メーカーとしてはそこまで規模が大きい訳ではない。人的資源のほとんどをつぎ込んだのがこの十三試大艇だったのだ。

 そして、この状況を変えたのが、後述の理由による川西龍三社長の鶴の一声であった。


 川西飛行機の社長川西龍三とその父、清兵衛は実業家であると同時に空に魅せられた者であった。空を飛ぶことがまだ冒険であった時代から飛行機製作に心血を注いできたのだ。だが、その途上、当時の川西財閥トップであった清兵衛がショックのあまり一旦航空機製作から離れてしまうほどの出来事があった。

 一九一七年、川西が資本金の三分の二を出資した日本飛行機製作所が発足した。これは実業家川西清兵衛の夢の始まりといえるものであったが、その事業が軌道に乗り始めた矢先に役員の手酷い裏切りにより挫折を味わうこととなったのだ。

 その顛末はこうだ。

 事件はその役員が社長やほかの役員に無断で航空機エンジン百台の買い付け契約を結んでしまったことが発端となった。その金額は当時の金で三百万円。資本金七十五万円の会社にとってはあまりに無謀な買い物だった。社長に一言の断りもなく行われた発注に当然清兵衛は激怒。しかし、その役員は不遜な態度を崩さない。両者の溝は決定的となり、もはやどちらかが会社を去るしかなくなった。

 このことがきっかけとなり、工場をその男に十二万円で売り渡して川西側の役員技術者十名は会社を去ることとなった。この後、会社を去った技術者の残した機体を元にこの会社は発展を遂げ、その発展を横目に清兵衛・龍三らは川西飛行機を立ち上げ水上機・飛行艇メーカーとして歩んでいくこととなる。

 会社を乗っ取ったその男の名は中島知久平。彼が乗っ取った日本飛行機製作所は後に中島飛行機となり、一九二七年の競争試作では陸海軍の戦闘機の座を独占するまでに成長した。当然、川西としては面白くない。イギリスはショート社との技術提携、兵庫県鳴尾への新工場設立、海軍との連携強化など、牙を研ぎ続けた。そして、いよいよ雪辱を晴らす時がやって来たのだった。


 航空本部から四発陸攻の早期開発について打診があったとき、難色を示す菊原静雄ら設計技師たちに反して川西龍三社長は大変乗り気であったと伝えらえれる。すでに日本飛行機製作所時代を知る技術者は少なく、十三試大艇の設計で中核を担う技師たちは中島との確執を直接は知らない世代だった。

 海軍からの打診を受けて開かれた会議上で社長の龍三は熱弁を振るった。なんとしてもこの打診を受け入れたい、と。もちろん中島への仇討ちという感情的な理由もある。だが、それだけではなかった。経営上の理由だ。確かに、航空機の黎明においては水上機が陸上機を性能面で凌駕することも多かった。だが、今や黄昏を迎えつつある水上機に大量発注は見込めない。可能ならば海軍の主力たる艦上機に進出したかったが、構造が特殊で難易度の高い艦上機のノウハウが無い以上いきなりの艦上機設計は困難といえた。そんな折に舞い込んできたのが今回の打診だったのだ。これなら十三試大艇のノウハウがある程度流用できる。こういっては何だが川西飛行機のように規模の大きくない会社でもなんとかリソースを捻出できるだろう。もし中島との件が無くても否はなかった。だからこそ、海軍の側からやってくれと言ってきているこの機会は逃すべきはない。

 こう言われては、菊原ら設計班主力らも単純に反対することは困難だった。彼は後にこう語る。

「私は、前々からこのような三十~四十トンの大型飛行機では、陸上機の同じクラスの飛行機に比べてむしろ飛行艇の方が高性能にできると考えていました。だから、二式大艇のときはそれを実証してみせると意気込んでいた訳です。それに、中島の飛行機が不良と聞いて、私はそれに対して、出来あいの旅客機をよそから買ってきて、ちょっと改造して軍の要求を満たそうなんてとしたからだ、と思っておりました。だから、そのあるものを改造する仕事をやれと社長に言われたときは、こりゃとんでもないことになったわい、と思いました」

 それでも、設計能力を超えていることは明白だったため現状のままでは陸攻の新規開発は困難であることは表明した。陸上機は経験の浅い分野であったし、乗り越えるべき技術的ハードルもいくつかあった。

 だが、この時期十三試大艇は前述のように致命的な問題が未解決であった。いくら高性能が約束されていようとも、満載で飛び立てない飛行機に意味などない。結局、この件に関しては社長の主張が通り、川西飛行機は航空本部の打診を受諾したのであった。


 

 

参考文献:最後の二式大艇 碇義朗 2009/4 光人社

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