独占欲
途中、彼視点が入ります。
カーテンの隙間から差し込んだ朝陽が反射して、私の顔に架かった。目隠しをするように伸びたそれは眩しくて
閉じた瞼をぎゅっとした。
「おはよう、いい朝だよ」
ふっと、耳元で声を訊く。優しい声だ。
「君にプレゼントがあるんだ」
ギシッと軋む音と同時に、少し遠退く彼の声。
なにかと思って身体を起こすと
首に腕を回されて
耳を掠めた吐息に一瞬、肩が跳ねる。
「…よく似合ってる」
額にあたる彼の唇と、首筋には冷たい感触。
空気が揺れて、微笑んだのが判った。
嬉しくて、顔が綻ぶ。
「今日はこれから行くところがあってね、やらなきゃいけないことがあるんだ」
髪を梳いて頬へと触れた掌が、
私に話すその声が。
何故か、哀しそうに訊こえて。
「だから今日1日、1人でお留守番してて?」
憂いげに、ゆっくりと離れていった。
衣擦れの音がした後、離れる体温。
何処へ行くのか不安になって、思わず袖を掴んでしまった。
「…あ、の」
いつもいつも、教えてくれない。
「…大事な用なんだ。でも、すぐ帰るから」
───だから、待ってて?
ちゅっと啄むキスをすると、また数回頭を撫でて。
バタンと閉まる音がした。
*
───翠。
私を呼ぶ声がする。とても落ち着く彼の声。
ずっと聴いていたいほど、安心する彼の声。
「……ただいま」
ゆっくりと意識が戻る。
日差しを感じて、先ほどまで鳥の囀りを聴いていた筈なのに。
今ではしんと静まっていて、辺りも暗く感じる。
───寝てしまったのか。
彼の帰りを待っているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
「遅くなってごめんね。これ、お土産に買ってきたんだ」
そう言うと、ベッドから身体を起こした私の隣に彼はゆったりと腰かけた。ふわっと一瞬、鉄の匂いが漂った。
そのまま私の口に何かを充てがうと、じわりと苺の甘味が広がった。ショートケーキ、私の大好物だ。
「美味しい?」
こくこくと頷きながら咀嚼していると
ふ、と彼の口許から吐息が漏れた。
「小さい子どもみたいに頷いて。可愛いな」
言っていつものように、優しい手つきで頭を撫でる。
笑いながら、他愛のない話をして。
この時間が、私の一番好きな時間だ。
何気ない会話のやり取りが嬉しくて、楽しくて。
いつまでも続いてほしいと願う、けれど──…。
外へ出かけることが多くなり、独りの時間が増えた私。淋しくないと言えば嘘になる。
だからこうして、彼と一緒に過ごせる時間は
とても貴重で、幸せで…。
頬を撫でる掌に、猫のように擦り寄った。
ふふっとまた漏れる声。
そのまま両腕が巻きついて、座った私を包み込む。
甘えるように顔を埋めて。可愛いな、って思った。
彼の体温、鼓動、
息遣いまでよく判る。
私の顔は、たぶん紅い。
「……今日は大変だったんだ。足の速いやつでさ、捕まえるのがやっとだったよ、」
ため息混じりに、不意に吐かれたその言葉。
いつもいつも、教えてくれない大事な用のことだろうか?頭に疑問符を浮かべつつ、こてんと首を傾げると
「君を知ってるやつがいたんだ。」
鼓膜を揺らす、いつもより低い彼の声に
背筋が震えた。
「驚いたよ、まだいたなんて」
淡々と呟きながら
指先で背中をなぞり、耳朶を食む。
「誰か、言い忘れてたんじゃない?」
張り詰めた空気の中で
一際低い声が、私を襲った。
「───ッ」
スイッチを切り替えたかのように、がらりと変わった彼の放つ雰囲気に
たまらなく恐くなった。
あぁ、また。まただ。また私は…──ッ
恐怖と困惑、そして動揺し、慌てて肩を押し返して離れようとすると、その行動が気に食わなかったのか。
強引にチェーンを後ろに引っ張ると首を絞められた。
「──ゔッ」
予期せぬ事態に動転して、私は抵抗する。
「……ッ、う、やッ」
「……翠にはさ、おれがいればいいじゃん」
「!!」───なんでっ
ぎちぎちと音がなる中で、必死になって外そうとするこれは、首輪であることが今になって判った。
「──ぅ、ぐッ」
喉に食い込むほどの力で引っ張られ、うまく息ができない私を気にもせず
人が変わったように
鋭く射るような視線を向けると
「なに、おれだけじゃ不満なの?」
そう、酷く冷たい声で言った。
「ねえ、答えてよ。」
「…あ、が…─ッ」
更に強まる締め付けに、声にならない声をあげ、苦しくなって、顔が歪む。
どうして?──なんで……いつから、私は…こんなこと…。
もだえる私の首からは、首輪で擦れた紅い痕、
足掻いてできた引っ掻き傷に、血が滲んでいた。
その最中、もがく指先に触れた布を無意識にぎゅっと掴むと、何かが落ちた。
鈍い音をたてて、
ごろんと転がる 肉の塊。
「翠、おれだけじゃだめなの?翠を知ってるのはおれだけでいいじゃん」
……だからまた、殺ってきたよ。
嗤いながら、ぐぐっと力を込められる。
そして痛みや苦しさで歪む顔を上げさせて、私を見つめる。
普段と違う、まるで別人のように豹変した彼が。
怖くて 恐くて。
身体が一気に冷えていくのがわかる。
大好きな彼なのに、震えが止まらない。
知らない人みたいで、こわい。
凍てつくような、殺伐とした雰囲気の中。なんともいえない異質な匂いが支配して、口にするのも悍ましい事件を思い出す。
「……うぅ、」
狂気に似た視線を感じ、ぞっと身を竦ませて
涙があふれた。
彼はいつから。こんなふうになってしまったんだろうか。本当に…いつから、だろう。
瞼の裏に浮かんだ彼の
優しい笑顔が、歪んで消えた。
すると「──あぁ…、翠」って
震えた声が、降ってきた。
戦慄く私にうろたえて
…怯えないで、
……逃げないで、って。
壊れ物を扱うように、大きな手が伸びてきて
優しくそっと、抱き竦める。
そうした彼は、いつもの優しい彼だった。
「翠──、ごめん。泣かないで」
泣かせたい訳じゃない。優しくしたいんだ。そう思うのに
「好き、好きなんだ…ッだから、翠を知ってるやつらが嫌で、許せなくて…」
誰よりも大切だから。大事にしたいから。守りたいから。なのに…
どうしようもなく、自分でも抑えきれないほどの欲に駆られるときがある。
翠を知る全ての人間を、排除したくなる。
…あの日、あの時。
初めて君を見たとき、一目で分かったんだ。
───あぁ…おれは、この子と結ばれるんだって。
なんとなく、直感的に。そう思ったんだ。
それからはもう、なんでもしてあげたんだよ。
それなのに、両想いになれたあとでも、君はずっと、誰にでも優しくて。その素敵な笑顔を、おれにだけみせてくれればいいものを、他のやつにもみせるから…。
勘違いして寄ってくる、虫どもを消していくのは大変だったんだよ?
だからこれは、全て君を想ってやったこと。
守るためにやったこと。
そうすればもう、おれだけをみてくれるって思ったから…。
ずっとずっと、欲しかった。やっとおれをみてくれたんだ。こんな気持ちになったのは初めてで。止まらない。
だからおれから離れられないようにって。縛り付けて、押さえ付けて。閉じ込めたくなってしまう。
何処へも行けないように、
酷い事、したくなってしまう。
「………ッみどり、」
細く白い身体を。壊さないように。ぎゅうっと抱き締めた。
本当に、ごめん。ごめんね。
こんなことが、したい訳じゃないんだよ。
優しく、したいんだ。大事にしたいんだ。
けど、こうしておかないと、どこかへ行ってしまうような気がして。
歯止めがきかなくなってしまって、泣かせてしまう。
なのにそんな君をみて、昂ぶっているおれもいて…。
自分でもわけがわからなくなる。
一体おれは、どこで間違えたんだろう───。
「お願い……みどり、」
本当はね、痛みや恐怖なんかじゃなくて
「泣かないで……じゃないと、おれ」
もっとちゃんとした、愛とか感謝とかで縛りたいのに。
「酷い事、したくなっちゃうよ…。」
おれには、それが出来なくて。こうしてしまう。
ひっ、と息を呑む音がして。小さい肩が、揺れた。
それから怯えるように、嗚咽の声が漏れる。
「愛してるんだ…、だから。泣くなよ」
細い肩を抱いて言う。
こんなことでしか繋ぎとめられないおれを
どうか…、どうか
嫌いにならないでほしい。見捨てないでほしい。
酷い事しているのを解っているのに、やめられない。
馬鹿で最低なおれの
ずっと傍にいてほしい、なんて。
我儘すぎる、おれの願い。
───おれから離れられないようにってしているけれど、君に依存して、君なしでは生きていけないようなのは、おれのほうなのかもしれないな…。
自嘲の笑みを浮かべては、こんな自分に嫌気がさす。
けど、それでもこんなおれを。受け入れてくれるのなら、おれは
死ぬまでずっと。翠を愛し続けるから。
だから翠、お願いだから──…
「 」
そう、強く願いながら
おれは 翠を抱き締めていた。
あやすように私の背中を摩っていると
彼の息が漏れて
……ひとりに、しないで。と
小さく、絞り出した声が。静かに消えた。
腐臭が漂い始める部屋で、微かに聞こえたその言葉。
その言葉と音で、しおらしく、子犬みたいな表情をしているのが判る。
あぁ、彼は。私を必要としているんだ。
私に、囚われてしまっているんだ。
毒されてしまった頭で、ぼんやりと。そう思った。
時々、とても穏やかで、なんの他意も含みもない
優しさと愛しさだけを表した、聴いているこっちが恥ずかしくなるような、とても心地好い音で私を呼ぶときがある。
そして私に触れる、その指先は少し、震えていて
傷つけないようにって、宝物を扱うように、大事に大事に、大切に、私に触れていく。
これが彼の、本当の姿。私は知ってる。
無機質で、声を張っているわけではないのに
有無を言わせない現在の冷たい声色と雰囲気とでは、全然違う。
薄れていって、あまり感じることのできない
あの頃の、彼の音。私は覚えている。
だからいつも、そう思うと、そう思っただけで。
私の身体の中で、何かが。きゅうっとなる。
痛いのは嫌だし、酷い事されるのはもっと嫌なのに。
彼の、この声を訊いてしまうと。もう、どうでもよくなってしまうなんて。
私も大概…おかしくなってきているのかもしれない。
「翠はずっと、おれだけを見てればいい。おれだけを見ていてよ。」
甘い言葉を囁きながら
縋るように、祈るように、懇願される。
「その可愛い唇も、心も身体も。全部全部おれのもの」
いつからだろう……
彼が家を空けるようになったのは。
「触って感じて考えていいのは、おれだけだからね?」
いつからだろう
……私の周りに、人が居なくなったのは。
眩しくて、優しくて、懐かしい。
あの頃の記憶が、思い出せない。
今日は何日?何曜日?
私の顔って、どんなふう、だっけ…?
自分の顔も思い出せない。
彼と目を合わせたのは? いつ───?
記憶が曖昧になって、ぐちゃぐちゃになって
「わた、しは…ッ」
ぐしゃりと頭を抱えた。
いつの日か、鉄の匂いを纏うようになった彼。
帰りが遅くなった彼。
いつからだろう、
光が視えなくなったのは。
目が、みえなくなったのは……。
わからない、わからないわからない…ッ!
震える私を、今にでも発狂しそうな私を、優しい手つきで押し倒す。
そして唇があたる位の感覚で。
彼の吐息が、私にかかる。
「おれには翠が必要なんだ、何処にも行かせない。放さない。ずっとずっと、おれと居るんだ。」
囁かれ、紅く染まった首を舐めあげ、
胸から腰へと滑り落ちた掌は、太ももへと這わせて。
「だから、他のものに目移りしないように。翠の眼は貰ったよ」
神経が研ぎ澄まされて、敏感になった私の身体。
彼の放つものすべてに意識が集中して、彼なしでは生きてゆけない程に愛されて。
視えなくなって。
考えることすら放棄して、どろどろに溶かされて…。
私は徐々に、壊れていった──。
*****
あの日、声が欲しいと言ったら、君はそれを拒んだ。
優しくて、穏やかで、可愛らしい。
透き通るような、きれいな音。
おれの好きな声。
どうして?と聞けば、おれと話せなくなるのが嫌だと言った。おれも君と話せなくなるのは嫌だから、声を貰うのはやめた。
代わりに耳が欲しいと言えば、声が聞こえなくなるのが怖いと言った。これもやめた。
顎に手をあて少しばかり考える。
すると君は外を見た。何かを目で追っている。
───あぁ、これだ。
これだけは譲れない、許さない。
おれ以外を映す目に、嫉妬した。
薬を溶かした水を含むと、顎を掬ってこちらに向けた。急なことに驚く君は身体をよじる。
逃さないと両手で顔を抑えて少し強引に飲ませれば、諦めたのか素直に応じた。
「っはぁ、」
銀色の糸が切れた後、口許を拭う君は艶めいていて。こくりと喉が鳴った。
「けほっ、なに、飲ませたの?」
不安そうにおれを見上げる、可愛い翠。
大きな瞳を、掌で覆う。
「……内緒。でも大丈夫、怖くないよ」
そう言い聞かせれば安心したのか、力が抜けて
ゆっくりと眠りに落ちていった。
大丈夫、これからはおれが目になるからさ
おれが世界を教えてあげる。
だからどうか、おれ以外は知らないで。
ベッドで眠る翠の頬を撫でながら
「次は何を奪おうか。」
今度は君の、足を触った。
───愛しい愛しい、おれの恋人。
※後ほど文章の書き足し、修正をさせて頂きます。