夏の蝉
最初の部分が説明文で長いですが、気長にお付き合いください!
放課後の図書室、カウンター席を挟んで置かれた椅子が私たちの指定席だ。殆ど人の出入りがない、この空間に2人。正確には一年と四ヶ月と三日。
時より楽しそうに零す相席からの笑い声をお供に私は今日も本のページをめくる。活字で埋まった視界の隅で、明るい髪色が射し込む窓からの光を纏ってウェーブを描いている。彼はカウンターの冷たい机で両手を枕に音楽を聴いている。パーマをあてたのではないナチュラルな癖っ毛は彼によく似合う。ブレザーをさらりと着こなす高い背の天辺で柔らかそうに跳ねている。とても綺麗な髪、いや髪だけではない。つま先から頭の先まで、繊細に縁取られた瞳を飾るまつげの一本までも美しい。
無意識に本からその彫刻のような横顔に魅入っていると、高くスッと通った鼻筋の下で薄い唇がふっと弧を描く。理由を聞けば、イヤホンから聴こえてくるハイテンションなアップテンポが、耳の奥をくすぐるから訳も無く笑出したくなったのだと。使い古されたウォークマンがカウンターの上で同調するように光る。覗かせた白い歯の間から吐息が零れた。目に見えないはずなのに、低く、掠れる聞き慣れてしまった音は空気の一部みたいに消えていくのが分かる。彼はそんな調子で良く笑う。一連の動作、瞬きに落ちる瞼の陰りまで、すべてが艶やかに甘く辺りを満たす。
容姿端麗な人は得だろうという認識を改めたのは、何時だっただろう。少なくとも彼に会うまで、そんなことを考えもしなかったはずだ。自分の容姿を気にしたり、リボンを綺麗に結んだり、誰かに声をかけたり。すべて、彼と話すようになってから知った気がする。
これを、人は恋と呼ぶのだろうか。初恋は叶わないと聞く。望みのない想いと望んではならない願いなら、どちらが苦しいのだろう。
思考に支配された視界の中で、彼がゆっくりと立ち上がるのが分かる。
恋を叶えるつもりも望むつもりもなかったが、見上げた先に浮かぶ笑みに胸が軋んだ。
「もう6時だね。図書室、閉めようか。」
長い手でぐっと空を押し上げながら軽くストレッチをして、彼が言った。
「うん、書庫の勝手口は開けたままにしておいて。二号館に用があるの。」
「古書の運搬?昨日、やっぱり終わらなかったんだ。手伝うよ。」
「ありがとう、でも大丈夫。あと少しだし、それに早く帰った方が良いよ。塀の向こうが混みだすから。」
本を閉じる。椅子から立ち上がる。名残り惜しい気持ちを隠して、いつも彼が出て行く方を見る。
彼と初めて遭遇し、会話した場所。高い塀を軽々と超えていくあの日の彼を鮮明に思い出した。同じ季節が、また巡って来たからだろうか。それとも、過去に戻ってやり直したい、そんな願望が見せたのだろうか。出会わなければ、私は今も昔のような私でいられたのだろうか。
それまで気にもしていなかったセミの声が、酷く耳につく。
【命短し恋せよ乙女】
あと数日で終わる私の恋は、蝉のようだ。夏の短い間だけしか生きることのない命を、それでも燃やし続ける。唯一の違いは、蝉たちは必死で生きていると叫んでいること。私はきっと、この想いを伝えることはないだろう。誰にも知られず、誰にも教えず、密やかに終えるのだ。
彼は、秀でた人間だ。もし人をその人の魅力や能力で並べたとしたら、彼はきっと頭一つ飛びたしているのだろう。造形から頭の作りまで、綺麗に丁寧に繊細に作られた人。誰もが妬み焦がれる、そんな人だ。
誰からも愛される、それ故に誰も愛することが出来ない。その哀しみはどれほど深く暗いのか、私には想像もつかない。ただ、彼に愛を求めてはいけないことだけが確かなことだ。彼が私に請うのは、気兼ねなく穏やかな時間。だから、このままでいいのだ。このままが、いいのだ。
「嘘つき。あと100冊以上は残っているだろう?」
それなのに、どうしてだろうか。嘘つき。その四文字に心臓が跳ねた。
いや、本当は知っている。私には彼に告白する勇気もなければ、諦めるような潔さもない。
「暴露てましたか、じゃあお願いしますね。」
戯けて返せば、くすくす笑いながら彼がウォークマンをポケットにしまう。
「・・・あと1週間経ったら、お別れだね。」
背中を向けて歩き出した彼が言った。
「ねぇ、少しは寂しいって思ってくれたりする?」
あと、1週間後、彼は海外へ留学するのだ。私の知らない異国の地へ旅立つのだ。
「そう、だね・・・寂しい、かな。」
もっと広い世界に旅立って、もっと彼にふさわしい人たちに囲まれて、そしていつか誰かを愛するのだろう。この孤独な人から、私ではない誰が愛されるのだろう。けれどそれは私ではない。
だから、寂しいとは断言できない。寂しさではなく、切なさと、苦しさの方がはるかに強いのだ。
遠くで蝉が鳴いていた。彼らが鳴きやむ頃、ここに彼はいないのだ。