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聖都の守護者  作者: 新一
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聖都の守護者 第一章(1)

第一章 少年王の戴冠



 六月の初夏の輝く陽射しが窓ガラスを透けて床に光の模様を描いている。視界には間近に迫った総大司教のみが纏うことを許される、金刺繍が施された豪奢な白のローブが揺れ、室内にいる大勢の人々がどのような表情をしているのか、ボードゥアンには確認することが出来ない。

 聖都エルサレムの小高い丘の上に建つ聖墳墓教会。そこで今、神聖な儀式が執り行われている最中であった。

(ほとんどが不安そうな顔をしているに違いない。トロン将軍はきっと嬉しそうにしているだろうけど。トリポリ伯は何を考えているかわからないところがあるから、表情だけじゃ読み取れないかも)

 途端、真面目なトリポリ伯の気難しい顔が思い浮かんで、ボードゥアンは思わずくすりと笑ってしまった。あっ、と思った時には遅く、今まさに王冠を頭上に載せようとしている総大司教アマルリックの咎めるような視線を額のあたりに強く感じた。表情を即座に正すと総大司教の尊大な咳払いが一つ聞こえた。

「汝、エルサレム王国の正統な血筋、ボードゥアン四世よ」

 朗々たる声が教会内に響いた――と言いたいところだが、出始めから総大司教の声はうわずって震えていた。そのことに誰しもが気付いたが、新王即位の儀である。教会内の張りつめた緊張感に、さすがの諸侯らも身じろぎすらせずに次の言葉を待った。

「教皇の神聖なる御名のもと、今ここに汝を新たなエルサレム王に任ずる。神の加護を受け、良き治世を行え」

 小刻みに震える両手に抱えられた王冠がゆっくりとボードゥアンの頭上に降りてくる。

(緊張のせいか、年のせいか。いや、どちらもか)

 まるで他人事のように王冠が自らの額にはめられる瞬間を、ボードゥアンは至極くだらないことを考えながら待ち受けていた。彼にとって戴冠の儀とはそれほどの意味しか持っていない。王国の民を導き、聖都を異教徒から守る。その行為と結果こそが王たる資格であり、血統により受け継がれた冠に、王の資質があるか否かを判断することなどできないはずだと考えているからだった。無論、思ってはいるものの、そのようなことを口外しようものなら一大事になるので、ごく一部の人間以外に本心は明かさない。十三年しか生きていないボードゥアンがこれほどまでに現実的なものの見方をするようになったのは、彼の師父の影響が大きかった。

 王冠がはめられ、総大司教が大役を終えたとばかりに安堵の表情で脇にさがると、一人の声を皮切りに教会内が新王を讃える声で飽和した。

「新王と神の王国に末永き栄光を!」

 最初に声を発したのは紛れもない、トロン将軍だ。齢五十を少し越えながらも、この王国軍最高司令官は老いを感じさせない容貌と気迫で周りの諸侯を圧倒していた。まるで自らのことのごとく誇らしげな表情をしている。先代アモーリー王の時から忠義を尽くすこの歴戦の勇者の姿を見ると、ボードゥアンは無意識に安堵し、表情が和らぐ。

(トロン将軍が居ればなんとかなる。そう思わせてくれる)

 ボードゥアンだけではない。王国軍兵士のほとんどがそう感じ、彼を信頼する。エルサレム王国の支柱とも言える人物だった。

 視線を彷徨わせ、ボードゥアンが次に見つけたのは生真面目なトリポリ伯の姿だった。彼の横には偉丈夫の男性が並んで立っている。アンティオキア公爵。二人ともエルサレム王国の北部に位置するトリポリ伯国、アンティオキア公国という名の十字軍国家の君主であった。いわばボードゥアンにとっては盟友にあたる。

二人の口は動いているものの、他の諸侯らと違い、新王を讃える言葉を発しているわけではない。何やら会話をしているようだが、唱和の声の中では離れた距離にいる二人の声はかき消され、届かない。読唇術の心得が無いボードゥアンには無論、内容を知る術はなかった。だが、しいて言えば二人は視線すらボードゥアンに向けていない。一点を見つめているのである。視線の先には一人の人物がいた。

(プランシー伯……)

 その名を思い浮かべるとき、ボードゥアンの表情は幾ばくか硬くなる。プランシー伯は王国南部、モントリアルを含む領地の領主で先代アモーリー王の治世に侍従長に抱えられた人物だった。侍従長と言えば王の身の回りの世話をし、王宮内の催事を取り仕切る重鎮である。また彼は王国の政を司る機関「高等法院」の中で最も権力を持った貴族であった。

 新王即位の儀から四日前、西暦一一七四年の六月十一日、先代アモーリー王が遠征先で病に斃れ、三十八歳の若さでこの世を去った。これは敵対するイスラム勢力の指導者ヌールが同じく病死してからおよそ一か月後で、宿敵とも言えるヌールの後を追うかのようにアモーリーもまた突如として命を落としたのである。

 突然の王の死の報が届くと、宮中は蜂の巣を突いたかの如き騒ぎとなった。すぐさま高等法院が招集され、次期国王の選定に入ったのだが、アモーリー王には王子であるボードゥアンが居たため、そう揉めることもなく世継ぎが決まるかのように見えた。しかしボードゥアンが次期国王になるにあたって二つの問題があった。それを指摘したのがプランシー伯である。

「王子は未だ一三歳であらせられる。後見人が必要だ」

 十五歳で元服を迎えるキリスト教国家では、十三歳は未成年であったため、プランシー伯の言葉はもっともであった。しかしこの言葉にはまだ続きがある。

「されど実の父である先代アモーリー王は既に無く、母であるアニェスさまは王宮から遠ざかっておられる」

 アニェス・ド・コートニー。アモーリー王の第一妃で、二人の間にはボードゥアンとその姉であるシビルが生まれた。しかしアモーリーが兄の跡を継いでエルサレム国王になる際、当時の高等法院はアニェスの故郷であるエデッサ伯国と仲が悪かったため、アニェスが王妃として宮中で権力を持ち、身辺を親族で固め始めると高等法院の連中は王宮から放り出される恐れがあった。

 そこで高等法院の諸侯らはアニェスと別れなければエルサレム国王として認めない、とアモーリーを脅したのだ。結果、アモーリーは高等法院の脅しに屈し、アニェスと別れる選択をした。このような過去があり、ボードゥアンは母の姿を知らずに幼少期を過ごした。

「となるとボードゥアン王子の後見人たる相応しき人物が存在しないではないか」

「しかし子息が世継ぎとなるのが世の常。王子は確かに年端いかぬ子どもであるが、その聡明さは多くの大人を凌駕し、王としての器をすでに示しておられる。宮に仕え、王子と接したことがある者なら誰しもわかっておろう」

 声が荒らぐのを抑えつつトロン将軍が反論する。不快さを抑えきれず眉根が寄り、眉間に立て皺が刻まれていた。

「では未だ詳細が判明せぬ病のことはいかがかな」

その場に居たプランシー伯以外の高等法院全員が息を呑んだ。ボードゥアンは先天的に右手と右腕の自由がきかない。神経が麻痺し、死んでいるのである。これに最初に気付いたのはボードゥアンの教育係であったギヨーム・ド・ティル大司教で、ボードゥアン九歳のとき、同年代の貴族の少年少女と戯れている彼をギヨームが見守っていると、子供たちは互いに爪で腕や手を引っ掻きあうという戯れを始めた。

どんなに我慢強い子供でも、しつこく引っ掻かれているうちに痛みのため、ある者は泣き、ある者は逃げ出し始めた。だがボードゥアンだけはどれだけ引っ掻かれても、その腕から出血していても涼しい顔をしていたのである。不審に思ったギヨームが尋ねるとボードゥアンは右手、右腕を引っ掻かれても痛みをまるで感じていないことが判明した。そして年を重ねるごとに右手と右腕の自由は利かなくなってきている。

ギヨームの報告を受けたアモーリー王はすぐさま王宮付きの医師たちにボードゥアンの診察を命じた。ところがどの医師も正確な病状を診断することができず、有効な治療法も判明しなかった。王子の余命や患っている病が不治なのかどうかさえ分らなかったのである。

高等法院の誰もがプランシー伯の言葉に反論できずにいた。皆、一様にボードゥアンの資質に関しては認めていたものの、持病のこととなるとやはり不安を拭い切ることは出来ていなかったのである。結局、その日は結論が出ぬまま集会は終わり、高等法院の面々はそれぞれの思惑を秘めたまま自らの邸宅へ戻った。プランシー伯はこれぞ機とばかりに自らの権力を最大限に用いて人事異動を行った。自らの息がかかった人物で身辺を固め始めたのである。

プランシー伯の行動に簒奪の兆候を見た者もいた。その筆頭がトロン将軍で、彼は事の次第をトリポリ伯に相談したのである。トリポリ伯レーモンは三十半ばで若いが、先代アモーリーの頃からトリポリ伯国の君主として様々な実績を挙げており、もっぱら名君と噂される人物であった。為人を聞かれれば大半が「真面目」「誠実」「紳士」という単語を使うであろう。それほど表向きの評価は高い。

そのトリポリ伯が事情を知るや、ボードゥアンの後見人として立候補したのである。

 再び高等法院が招集され、次期国王の選定が始まった。今回の集会もまた荒れるかと思われたが、意外なほどあっけなくボードゥアンの後継が決定されたのである。これは高等法院のほぼ全員が、王の不在を理由に権力を濫用する高等法院の長プランシー伯より、トリポリ伯を支持したからで、結果、トリポリ伯が摂政となり、プランシー伯の天下は文字通り三日で幕を閉じた。

 そのような事情からプランシー伯は無論、ボードゥアンのことを快くは思っていない。そのことを知っており、なおかつ我が物顔で王宮を闊歩するプランシー伯の姿も知っているボードゥアンにとって、プランシー伯の名は決して聞えの良いものではなかった。

 たった数日間とはいえ、権力争いを起こした当事者二人が教会中央に敷かれた真紅の絨毯を挟んで視線を絡ませていた。

「おう、おう。まるで視線で射殺さんがごとくおぬしのことを睨んでおるぞ。あれはあれか、トランスヨルダン式の呪いのかけ方か何かかね」

 隣でおどける偉丈夫――アンティオキア公爵ボヘモンドは齢四十半ば。灰色の髭は耳の下から顎先まで綺麗に整えられ、同色の髪は頭頂部まで後退し、領土を広げた額には真横に三本、深い皺が走っている。並んだトリポリ伯より拳一つ分背丈が高く、また肩幅も広い。

「王国最高権力という名の美女との甘い夜がたった三日しか続かなかったんだ。そりゃあ寝取った男を恨むのも無理もないか。え」

「喩えが下品ですね。美酒に溺れ、醜態を晒す男の頭から冷水を浴びせてやったと言い換えておきましょう」

 面白くもなさそうにトリポリ伯は返す。

「それで、おまえさんはどうする。その美酒をこれからたらふく味わうのかい」

「ギヨームどのの言葉を借りるなら、プランシー伯など台所を荒らすねずみに過ぎませんよ。覇権を掴んでも家の周囲を盗賊が囲んでいたら笑えません」

 トリポリ伯の揶揄が言いえて妙だったので、アンティオキア公は満足げに頷いた。

「なあるほど。では酒は野盗を追い払った後だな」

 ええ、と頷くトリポリ伯に、公爵もいささか表情を正した。

「しかし獅子身中の虫とも言うぞ。放置しておいたらいつの間にか肉に喰らいつき、病魔を呼ぶかもしれぬ。先代アモーリー王が抱えた侍従なれば、最期までお供するのが臣下の務めであろう。そうは思わぬか」

 公爵の瞳に妖しい光が滲んだ。トリポリ伯は何も応えず、ただ視線の先にいるプランシー伯を凝視し続けた。プランシー伯も視線を外さなかった。途端、プランシー伯が狡猾そうな目を細め、口の橋を持ち上げて嘲笑うかのごとき表情を作った。その嘲笑を受けてなお、トリポリ伯の表情は一寸たりとも動きはしなかった。


 その夜は新王即位を祝して盛大な宴が催された。西アジアにあるキリスト教国家の重鎮たちが一同に集い、各々酒や食事、音楽に舞踏を楽しんでいた。この瞬間だけは外部の脅威を忘れ、希望に満ちた未来へ想いを馳せて会話を弾ませた。しかし一旦酔いが冷めると話題はやはり、聖都エルサレムを取り巻く芳しくない現状に至るのだった。

「しかし、ああもあっけなくヌールが逝くとは――」

「エジプトでふんぞり返る裏切り者にまみえることもできず、さぞ無念であろう――」

「だがサラディンという男、なかなかどうして切れ者らしい――」

「なんでも戦に出ると常勝不敗であるとか――」

「彼の者のもとでムスリムが統一されるようなことになれば、包囲されたも同然――」

「聖都の新たな守護者は果たして虎の子か猫の子か――」

 小さな輪を作り、ひそひそと会話をしていた五、六人の諸侯が顔を見合わせ、一斉に〈聖都の守護者〉たる少年王に視線を向けた。ボードゥアンもまた、先程から手前の卓上に置かれた豪華な料理や酒には一切手を付けず、宴の様子を窺っていたものだから、両者の視線がぶつかり、そのことを予期していなかった諸侯らはあわてて目を伏せ、頭を垂れた。

「礼は無用。みな、今宵は思う存分楽しむがいい」

 顔を上げると、少し離れたところに屈託なく笑う少年王の姿があった。自分たちの会話は恐らく王には聞かれていないだろう。それでも息子ほどの年齢の新しき王に心中を見透かされたような気がして、諸侯らは程度の差こそあれど、一様に畏まって再び頭を垂れた。諸侯らのその様子にボードゥアンは困って苦笑するしかない。

「陛下の父君と母君に感謝なされ。見目の麗しさは王者にとって重要な要素。映える王は人心を惹き付けますゆえ」

 ボードゥアンの右斜め後ろに控えている長身痩躯の男性が言う。その言葉には一応の敬意こそ含まれているものの、決して王に対して適当なものではなかった。それもそのはずで、この人物は幼少期からボードゥアンの教育係を担当しているギヨーム大司教であった。少年王にとってはいわば師父と呼べる立場の人間である。それはボードゥアンが王子から王に変わった今でも変化はなかった。

「容姿を褒められたところで、少しも嬉しくなんかないな。彼らの心配も私の見た目がどうこうということではないし」

 事実、ボードゥアンの容姿は類稀な部類に入るほど美しかった。くすんだ金色の髪は自然なくせが付き軽く波打っていて、形の良い輪郭を覆っている。鳶色の瞳には爛々と光を湛えて精気に溢れ、美しく弧を描く眉と薄い唇は涼しげで聡明そうな印象を見る者に与えた。白皙の肌を持ち、声はまだ高い。全体的に中性的な雰囲気で美男と評判だが、ボードゥアン自身は自らの容貌をあまり気に入ってはおらず、父アモーリーのように覇気に溢れた見目を好んでいた。それはやはり、王たるに相応しい堂々とした姿でありたい、という願望と、病弱な印象を周囲に持たれたくなかったからである。

「あまり無理をなされぬよう。ダウードどのが、陛下は鍛錬のしすぎだと嘆いておりましたぞ」

「おかしな話だ。ダウードは私の馬術の師なのだから、弟子が努力するのは喜んで然るべきなのに」

 ボードゥアンは時として、王に相応しくあろうとするあまり、無理をすることがある。それはギヨームやダウードのように彼の身近にいる人々のみが知るところであった。剣術にしろ馬術にしろ鍛錬が度を越えることもあり、病のこともあって臣下たちは気が気ではない。

「すでにその技術は師を抜いてしまった、と嘆いているのですよ」

 本気とも冗談とも取れるギヨームの言葉にボードゥアンは肩をすくめるしかなかった。

 アブー・スライマン・ダウードはアラブ人ながらキリスト教徒で、医師だった。もともとはアモーリー王が息子の病状を診察させるために登用した人物だったが、彼は馬術にも精通していたため、ボードゥアンは王子時代からダウードを師と仰いで馬術を学んだ。

 右手右腕が不自由なボードゥアンは騎乗して戦場に出る場合、左手で武器を持つことになり手綱を握ることができない。そうなると馬を足のみで御さなければならなくなり、その技術を徹底的に叩き込んだのがダウードだった。初めこそ落馬を繰り返したボードゥアンであったが、その上達ぶり、飲み込みの速さはダウードが舌を巻くほどで、ここでも少年はその非凡さを臣下に見せつけていたのである。今やボードゥアンは国内屈指の馬術を持つ師と並ぶほどにまで成長していた。

「諸侯らの不安の種は二つ。一つは私の王たる資質への不安。もう一つはイスラムの英雄の存在」

「王の資質と言えども、彼らは陛下の戦や政の才覚を心配しているわけではございますまい。彼らの心配は一重に陛下の余命のこと」

 もし誰かがこの会話を聴いていたら目を剥いて驚いたであろう。一国の王に対し、その側近が面と向かって王の命うんぬんを口にしたのである。気の短い王ならば即刻斬首刑に処するかもしれない。しかしボードゥアンは気にした様子もなく、むしろ軽く頷いてギヨームの言葉に同意を示した。

「軍事ならトロン将軍。政治ならギヨーム。それに後見人のトリポリ伯までいる。私は人材に恵まれ、相談する相手に事を欠かない。問題は私が世継ぎのないままに病に斃れ、聖都に守護者たる王がいなくなることだ」

 生まれながらに持った自らの不運を憎んでいるだろうか。感情の起伏がない淡々とした十三歳の少年の言葉に、ギヨームは表情を窺った。少年の顔は穏やかで、負の感情や翳りはそこになかった。

 聡明なこの弟子にもあたる少年王を、ギヨームは心から敬愛している。それは初めて会った四年前のあの日から変わらない。いや、むしろ日増しに強くなり、今や自らの命を賭してもこの少年のために尽くしたいと考えている。そういった人間が宮中には少なからずいるだろう。だからこそ余計に、少年に与えられた不条理な運命を周囲の人間が呪わずにはいられない。

 言葉を継げずにいるギヨームにボードゥアンは歯を見せ、年相応の笑顔を向けた。

「だからこそ私は戦の際には先陣に立たなければいけない。エルサレムの若き王ボードゥアンは神の加護を受け、病になど屈せず、巧みな馬術で戦場を駆ける勇者であるとパレスティナ全土に名を馳せる必要があるな」

 いたずらっぽく言うボードゥアンに、ギヨームが反論しようとしたその時、二人の人物が並んでやってきた。

「あまりギヨームどのを困らせてはなりませんよ、陛下」

 穏やかな笑みを浮かべた二人――トリポリ伯とアンティオキア公が手に持った杯を掲げた。

「ご即位、まことにおめでとうございます」

 ボードゥアンも卓上の銀製の杯を軽く持ち上げ、返礼をした。ギヨームは会釈をしつつ後方に一歩下がり、王との会話の場を二人の君主に譲る。

「王が先陣に立つことの危険性についてはギヨームどのから学んでおられるでしょう」

「王が先陣に立つことの有益さについてもギヨームから学んでいるが」

 からかう様な調子の口調だがボードゥアンの言は偽りではない。王が先陣に立つことは古来より臣下の忠義を篤くする効果を持っており、戦士としての力量に自信がある王ならば率先して先陣に立つべき場合もある。ただし、ボードゥアンの場合に至っては必ずしもそうとは限らない。その理由をいくつか述べようとトリポリ伯が口を開きかけると、それを遮るかのようにボードゥアンは言葉を継いだ。

「もうすでに決めたことだ。王となる前から私は、仮に王になったならばそういう王でありたいと考えていた。これを曲げるつもりはない」

 子供じみた意固地さがボードゥアンの声色に滲んでいた。ちらりと視線を少年の肩越しに向けると、それ以上言ったところでこの意外に頑固な一面がある少年を説得することはできまい、とギヨームが目で語っていた。視線を戻したトリポリ伯は御意を示すため、軽く頭を垂れた。

「その心意気や天晴れ。有事の際には必ずやこのアンティオキア公爵も老体に鞭打って、陛下とくつわを並べましょうぞ」

 胸を張り豪快に言い放つ公爵の言葉に、頼む、とボードゥアンは屈託なく笑った。

「しかし陛下、それも勝算ある戦であって初めて、兵の士気も鼓舞されるというもの。もし彼のサラディンがイスラム勢力を統一するようなことがあれば、我ら十字軍国家に対する盤石な包囲網がやつによって築かれますぞ」

「諸侯らの不安の要因はそこに尽きるだろう」

 ボードゥアンは神妙な面持ちで頷いた。今までイスラム勢力は同教内でも争いを続けており、聖都を異教徒から奪還するという大目標があるものの、まずは目標への足掛かりとしてイスラム勢力内での結束を盤石にする必要があった。しかしシリアの英傑とされたヌール・アッディーンですら、結局イスラムの統一を果たすことができぬままに世を去った。数百年に及ぶ内部分裂を収めることは困難を極め、誰にも為し得ない夢物語かのように思えた。しかしここに綺羅星のごとくサラディンという英雄が現れ、イスラム勢力は統一の兆しを見せている。

「西アジアの十字軍国家の軍事力を持って抑止できるイスラム勢力は、内部分裂状態にある場合のみで、もし何者かの手により聖都奪還の共闘戦線が成った場合、その限りではなくなる。四方八方から侵入するイスラム軍に対抗し得る軍事力が、残念ながら我が国にはない」

 妄信的な司教がボードゥアンの言葉を聞けば、神の加護を受けた我ら聖なる戦士は決して負けはしない、などと怒り狂うだろう。しかし少年王と、彼の周囲に今いる三名の年長者たちはみな敬虔なキリスト教徒ではあったが、現実的でもあった。加護で戦に勝てるならば、一兵たりとも駐屯させる必要はない。祈りを熱心に捧げる者が居れば、それだけで十分のはずである。

そんなことを考えそうな人物に、ギヨームは一人だけ思い当たる節があった。エルサレム王国に駐在する別の大司教で名前はエラクリウスという。視野が狭く蒙昧な男で、二言目には神の名を口に出す妄信者であった。無論、そりが合わずギヨームはエラクリウスとの接触を避けていたが、良くしたものでエラクリウスもまたギヨームのことを避けていた。同志を集めて何やら夜な夜な集会を行っているようだが、特に国に害を為すわけでもなく、ギヨームにとって取るに足らない人物でしかなかった。少なくともこの時点では。

「大前提として敵の戦力を分断する必要がある、そういうことですな」

「分断した上で、聖都防衛の際には徹底抗戦の構えを見せる。要は下手な兵力で攻めてこようものなら返り討ちにしてやるぞ、と牽制する。これが抑止力になる」

 王になったばかりの十三歳の少年と、国を統治するに熟練者たるアンティオキア公爵のやりとりをトリポリ伯は終始無言で聞いていた。ギヨームの目にはその態度が、あからさまにボードゥアンの器を測っているように見え、居心地の良いものではなかった。しかし当のボードゥアンはそんなこともお構いなしに、問答を楽しんでいるようであった。

 ボードゥアンには癖がある。幼い頃から間近で見守ってきたギヨームはそのことに気付いていた。彼は物事を深く考える際、まず重要な要素となるべき事象を、断片的に思慮という空間の中に放りなげていく。とりあえず思い当たる欠片を集めるのだ。そしてそれらを組み合わせ、自らの考えを築き上げていく。しかしそれも完全にではなく仮決めで、最終的には誰かとの問答の中で、あまく組み合わせた思考の欠片をがっちりと一つの考えに結び付ける。頭の中が一つの考えで凝り固まっていないので、柔軟な対応ができるのだ。

 今まさにボードゥアンは問答の中で自分の思考の是非と、独自の答えを導き出そうとしているかのようだった。

「では敵の勢力を分断させる方法が問題となりますな。手っ取り早い方法は武力で分断することですが」

 無意識に自分の左手が顎先に伸び、視線を床の模様に落としていることにボードゥアンは気づいた。

(武力じゃない。武力では逆に敵の団結を強固にしてしまう)

「公爵、シリア方面のイスラム領と隣接する貴公の国では、最近商人らの国境を越えた交易が盛んになっていると聞いたが、本当か?」

 突然何を言いだすのだ、とばかり怪訝そうな表情をしながらアンティオキア公爵は頷いた。

「牛耳っていたヌールがいなくなり、今やシリアのイスラム領主たちの向かう方角はてんでばらばら。もともとキリスト教徒にさほど敵対心を抱いておらず、友好的な領主もおりますゆえ、そういったところでは角を突き合わせて戦を起こすより、交易で懐を豊かにすることを望む者もおりましょう」

「陛下、ヌール亡き後、国家間での交易が盛んになったのはアンティオキア公国だけでなく、我がトリポリ伯国もそうです。ヌールの世継ぎは息子のアッサリフですが、彼に忠誠を誓う北方イスラム領主は未だ多くなく、各々が自己の判断で行動の方針を決めております」

 現シリア方面のイスラム領主らは一枚岩ではない。そのことにボードゥアンとアンティオキア公爵の話を聞いていたトリポリ伯も気付き、思わず二人の会話に割って入ってしまった。この若くて聡明な王は何かを考えている。トリポリ伯は胸中に好奇心が湧き上がってくるのを感じた。

「国の垣根も、宗教の垣根も越えて利害が一致しているということだ。そこにこそ共闘戦線を打ち破る突破口があると私は思う。具体的には、交易を奨励し、利害が一致している間は争うよりも互いに利用する方が賢明である、と思わせる。そうすることでサラディンら対十字軍強硬派と手を組ませないようにする」

「国を挙げて交易を奨励すると?」

 さすがに驚きの色を隠せず、アンティオキア公は訊き返した。ボードゥアンは深く頷いた。

「交易に掛る税、通行税などを互いの領主が認証した商人からは取らないように、イスラム側の領主に打診をしてくれ。さらにこちらの領土に入った後は、隊商を野盗から護衛する兵を出す。安全に交易が行えるようにするんだ」

 驚きから我に返ったアンティオキア公は、ボードゥアンのこの案に全面的に賛同した。

「さっそく使いをイスラムの領主へ寄越しましょう。護衛の手配もただちに」

 ボードゥアンに向けて大げさに優雅な一礼をすると、踵を返した公爵は足取り軽く宴の間から出て行ってしまった。公爵の行動の速さと明朗な性格にボードゥアンは素直に好感を抱いた。ひょっとしたら自分の案に賛同してもらえないかもしれぬと、内心では不安も抱いていたからだった。

(陛下の策は恐らく成功する。偉大な指導者を失い、今や烏合の衆と化した北方イスラム領主にとって、どのような形であれ財を成し、自らの懐を肥やすことが目先の目的となっている。策が成功すれば、しばらくは北方領主とサラディンとの間で思惑の溝が生まれ、エルサレム包囲網にほころびができるだろう。この少年は戦う前からサラディンの兵力を減らしたのだ……)

 感嘆。そういうほか、トリポリ伯の心情を示す言葉はない。最初はギヨームの入れ知恵かとも考えたが、少年王の言葉に自分と同じく驚きの表情を隠しきれない彼の姿を見るに、それはなさそうである。末恐ろしい王だ。このまま年を重ね、足りない経験を補えばさぞ優秀な君主となるであろう。もっとも、この少年に与えられた天命がそれを許せばではあるが。

「何か間違っていないか?」

ばつが悪そうな顔で、ボードゥアンは二人の年長者の顔を交互に見つつ言った。その言葉の真意が掴めず、トリポリ伯とギヨームが黙っていると、さらにボードゥアンは繰り返した。

「私は誤ったことを言っていないか?何か重大な点を見落としていないか?」

 十三歳の少年に相応しい不安げな表情に、トリポリ伯は言い知れぬ感情を抱いた。なんと人を惹きつける魅力を持った王か。意識的なものではない。彼はただ単に自らの経験不足が誤った思考に至らせていないか、心底不安になっているのだ。そして素直に彼の教育係と後見人を頼っているのである。

(たとえ神がこの王の魂を早急に望もうとも、その時がくるまでは全力で支えよう。それが後見人たる私の役目だ)

 トリポリ伯は心中でボードゥアンへの忠誠を強く新たにした。だが口にしたのは別のことだ。

「間違っておりません。陛下の講じた策は最善であると私も思います」

 安堵を浮かべ、少年の顔が嬉しげに輝いた。

「しかし陛下、そのような情けない表情を見せるものではありませぬ。陛下の迷いは臣下を惑わせ、さらには民草をも不安にさせましょう」

 咎めるギヨームの言葉に、ボードゥアンは口をいくらか尖らせて、わかっている、と応えた。

「後見人たる貴公らだからこそ相談したのだ。しかし貴公らとばかり言葉を交わしているわけにもいかないな。少し諸侯らと話してこよう」

 椅子から立ち上がり背を向けるボードゥアンを、後見人と教育係は頭を下げて見送った。

「アモーリー王がご存命であれば、陛下の成長ぶりをさぞ喜んでいたでしょう。ギヨームどのの教えの賜物ですね」

 トリポリ伯の言葉に、ギヨーム自身は同意しない。有能すぎる世継ぎは時として、王から煙たがれるものだ。それがたとえ実の父子であっても――。もしアモーリー王が生きていれば、息子の聡明さに、喜ぶどころか危機感を抱いたかもしれぬ。アモーリー王の死は、あるいはボードゥアンにとって良い時機であったかもしれぬ。そういった複雑な心境がギヨームにはあった。

 しかし今そのようなことを言っても詮無いことである。ギヨームはただ、トリポリ伯の言葉に会釈を返し、何も言わずにいたのだった。


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