聖都の守護者 プロローグ
プロローグ
砂塵が舞い上がる――
一面金色の砂の世界で、小規模な砂嵐のような砂塵が舞い上がっていた。
目を凝らすと砂煙の中に騎馬の一団が見えるであろう。
先頭の、目元以外全て黒装束に覆われた男性が馬の腹を蹴ると、後ろに続く白装束の騎馬三十人ほどがそれに倣った。その速度から、目的地に一刻でも早く辿り着こうとする焦りが窺える。
事実、先頭を駆ける男性――サラディンの心は急いていた。目的地はダマスクス。そこには彼の夢を叶える為に必要な人物がいた。未だ十一歳の少年であるその人物の姿をサラディンは知らない。だが、少年の父に関してはよく知っていた。
ヌール・アッディーン。偉大なるシリアの指導者にしてザンギー朝のスルタン。西アジアに広くその名を馳せる英傑で、少年時代、サラディンはこの英傑の傍で戦のいろはを学び、政の何たるかを知った。あの頃のサラディンにとっては、まさに兄のように慕う人物に違いなかった。
しかしエジプト遠征にサラディンが赴いてから二人の間には溝が生まれ始めた。原因は一重にサラディンの野心。サラディンもまたヌールと同じく、志の無い燕雀ではなく巨翼で大空を羽ばたかんとする鴻鵠であった。エジプト遠征軍の指揮官であった叔父のシールクーフが飽食という冗談のような理由で命を落とすと、後任としてエジプト宰相の座に就いたサラディンは、もはや形骸化していたファーティマ朝を廃し、独自にアイユーブ朝という王朝を立てた。
遠く南西の地で反旗を翻した臣下に、ヌールは怒り、何度もその真意を質す使者を送ったが、サラディンはことごとくこれを無視した。シリア、エジプト間の距離とイスラム教徒にとって「敵」であるキリスト教国家の存在がこの時ばかりはサラディンの利になり、ヌールとの全面対決を避けさせた。ヌールはとりあえず遠方の同教の敵より、近くの異教の敵に対処しなければならなかったのだ。
完全に冷え切った二人の仲だったが、冷戦ともいえるこの状況は突如として終わりを告げる。ヌールがなんともあっけなく病を患って斃れ、そのまま世を去ってしまったのである。
サラディンは内心、諸手を挙げて喜びたかったが、ザンギー朝の跡取りがヌールの一人息子であるアッサリフと知るやいなや、わずかな手勢だけを率いてエジプトのカイロを飛び出した。
(アッサリフは十一歳の未成年。後見人が必要だ。シリアの内側から権力を手中にするためには、まずはこの少年の掌握が最善の策……)
そして北はシリア、イラクから南はエジプトまで、イスラム勢力の統一を計る。そうして初めて、聖都エルサレムを異教徒から奪還するための準備が整うのだ。ヌールの息子を手にすることは、全イスラム教徒の悲願を叶える大きな一歩となるであろう。
(他の野心家がアッサリフに手を付ける前に、疾く。疾く!)
無意識に馬の背を挟む膝と手綱を握る手に力が入る。やがて眼前にダマスクスの街並みが見えてきた。
しかしサラディンにとって城壁に囲まれたそれが、刹那、夢にまで見るエルサレムの城壁に見えたのだった。