感情スペクトル
*Thema:虹
「あ、小雨!」
トロリーを降りたら、薄い雲が掛かった空からは細かい雨が降っていた。
ハワイに着いてから、もう何度目かわからない雨。
ただそのほとんどの場合は、空全体が真っ暗になっているわけではなく、青空が所々覗いている状態だった。
こういったすぐに止みそうな通り雨は、現地の人にとっては日常の一部でしかないらしく、街行く人は皆この天候に気を留める様子か無い。
「かんかん照りよりは、小雨くらいの方が気持ち良いかもね」
「そうか?」
振り返って年下の恋人にそう問えば、彼は肩を竦めてそう答える。
きっとリョウにとっても、雨はそんなに気に留めるほどのものでは無いのだろう。
だけど、私にとっては結構大きいというか。
寒がりの私は濡れるのが嫌いだから、国内では絶対と言って良いほどちゃんと傘を差していた。
ほんの数分の距離だろうと、霧雨に近かろうと絶対に差していたし、会社のロッカーには折りたたみ傘も常備してあって。
だから、こんな風に雨を浴びる生活はものすごく久し振りだった。
「うーん、何か自然と一体って感じ」
「……は?」
「気温が高ければ、雨も悪くないね?」
にっこりと笑ってそう言えば、リョウはますます訳がわからないという顔をしたものの、上機嫌な私につられて口端を上げる。
「リョウ、ハワイって良い所だね」
「そうか、そりゃ良かった」
「食べ物美味しいし、暖かいし」
「そうだな」
「それに、リョウがいるし!」
そう言って振り返ると、一瞬目を見開いたリョウは、数秒の間を置いて笑い出した。
「俺とハワイは関係無ぇだろ。バカじゃねーの?」
「いいの! リョウのところからは、主語が『今回の旅行は』に変わったの!」
「ハイハイ、そうですか」
適当にあしらうかのように、湿気を含んだ髪を撫でられる。
何かペット扱いされてる気がするけど……まぁ、いいか。
「こうやって一日丸々デート出来る日が続くなんて、何気に数年ぶりだよね」
「……まぁな」
「会社がこんなに忙しいなんて……大学の頃は、想像もしてなかったな」
ほんと、学生の頃は学生の頃で、すごく忙しいって思っていたけれど。
今に比べたら、大抵リョウとは同じキャンパス内にいられたし。
一限分の授業が終わる度に、メールをチェックする時間もあった。
急遽休講になった時間に待ち合わせたり、バイトまでの時間デートしたり。
……あぁ、懐かしいな。
「……俺も」
「うん?」
「俺もさ」
不意に静かに隣を歩いていたリョウが、前を見たまま話し始めた。
水分を含んだ髪が、いつもよりもリョウを大人っぽく見せている。
私はリョウの腕に手を掛けたまま、その綺麗な低い声を聞いていた。
「あの頃は、全然想像つかなかったよ」
「……」
「お前が、ちゃんと社会人してるのを見る時が来るなんて」
いつもドジとか年上とは思えないとか悪態吐くくせに、一応は認めてくれてたんだ? ……なんてからかえなかったのは、リョウがあまりにも真面目なトーンでそう言ったから。
「俺が知ってるカナはさ、確かに頭は悪くねぇけど……どっか抜けてて、マジで大丈夫かよって感じだったのに」
「うん」
「やっぱ……社会に出ると、変わっちゃうもんなんだな」
「私変わった?」
初めて言われた内容に、思わず首を傾げる。
目を合わせたリョウは、苦笑しながら頷いた。
「根本的な所は変わってないけどな」
「……」
「ビジネスライクな化粧とか……スーツとか、そういうのも違和感無くなったし」
「……」
「やっぱ歳の差があるんだなって、色んなタイミングで実感するっつーか……」
……そうだったんだ。
リョウはプライドが高いから、 普段はあんまり本心を口にしてくれない。
だけど、本当は繊細で……コンプレックスを抱き易い部分もあるってことを、私は知っている。
傍から見れば、完璧だって見られやすい男の子なんだけどね。
実際はきっと、先に社会に出た私を見ながら、焦燥感を覚えているのだろう。
今まで何度か、何となくそういう雰囲気を感じ取った事もあった。
それは残業やミーティングが重なって、週末も会えない時だったり。
大切な顧客さんと会った日の夜、ちょっとピリピリしたままの状態でリョウに会った時だったり……。
どんな些細な変化でも、きっと洞察力のあるリョウは的確に感じ取ってしまうから。
目に見えない場所で生じている変化に、もどかしさを感じていたのかもしれない。
「あとちょっとだよ」
「……」
「あとちょっとで……今度はまた、私がヤキモキしなきゃいけなくなるんだろうし」
「え?」
「リョウは会社でも、絶対モテるんだろうなぁ」
リョウは私と違って要領が良いから、すぐに仕事を覚えそうだし、人望も厚くなるだろう。
そうなったら、かつて同じキャンパスにいた頃のように、常にリョウの周りには綺麗な女の子が寄ってくるようになるのだと思う。
「……カナは、そういうの気にしねぇだろ」
「そんなことないよ」
「いつも涼しい顔してんじゃん」
思わずリョウの顔をみれば、珍しくちょっと拗ねたような顔。
普段は私をからかってばかりのリョウだけど……時々こんな風に、心の内を吐露する瞬間がある。
「リョウ」
「何」
「リョウが思ってる以上に、私だって焦ったり……ヤキモチ妬いたりしてるよ」
くいっと腕を引いて微笑み掛ければ、チラリとこちらを見たリョウは、ちょっと気まずそうに視線を泳がせた。
不器用で……意地っ張りで、プライドの高い年下の彼氏。
こんな風に素直に言葉にしてくれたのは、穏やかな雨のせいだろうか。
リゾート地独特の緩やかな空気感と、弱い感情を多い隠してくれるような程良い曇り空、劣等感すら潤してくれるような柔らかな雨。
いつもとは何もかも違う雰囲気が、私たちの気持ちも解してくれているみたいで――
「……あっ! 見て、リョウ」
「?」
雨はいつの間にか霧雨のようになっていて、ずっと向こう側には、雲の合間から数筋の陽の光が差している。
私が指差した先には、神々しい光の間を縫うように掛かった大きな虹が見えた。
「空に掛かる橋」という絵本のような表現がしっくりくるような、とても綺麗な虹だ。
「あんな大きい虹、初めて見るかもしれない」
「カナ、ちょっと上見てみ」
「え? ……あっ!」
リョウに言われてよく目を凝らしてみると、大きな虹の上には、うっすらともう一本の虹が。
「すごい……! ダブルだよ、縁起良い感じだね?!」
「ふ、はしゃぎ過ぎ」
「だってあんな綺麗なの、見た事無い! 待って、写真撮っていい?」
リョウを引き留めて、いそいそとカメラを取り出す。
まだ微かに降っている雨を避けるように、「手ぇかざしてくれる?」と頼めば、リョウはしょうがないなとか言いながら、カメラを守るように大きな手のひらをかざしてくれた。
リョウの腕の下で、レンズ越しに大きな虹を捉える。
本当に橋の如く渡っていけそうな……綺麗でしっかりとした、素敵な虹を。
「やっぱり、良い所だね」
「何?」
「ううん、何でもない」
私は笑いながらカメラをしまい、再びリョウの腕に手を掛ける。
リョウの本心を、リョウの口から直接聞けたって事だけでも……私にとっては、すごく価値があった。
緩やかな雨も、一緒に眺めた虹も。
それはまるで、私たちの感情が反映されたもののように見えて……
「私リョウと来られて、本当に良かった」
「……お前って、平気で恥ずかしい事言うよな」
「照れてる?」
「うるせぇし」
こういう経験を重ねながら、リョウとずっと一緒にいられたら良いな。
そして気持ちが迷った時には、こうやってまた一緒に空を見上げたい。
そんな事を想いながら、一層濃くはっきりと浮き出てきた虹を、恋人と一緒に眺めた。
fin.