アバダケタブラ
放課後の教室には、ひどく生ぬるい停滞感が漂っていた。
黒板には斜めに引かれた日直の名前と、午後の授業で使われたベクトルの公式が中途半端に消し残されている。遠くのグラウンドからは、運動部の間の抜けた掛け声が微かに響いてきていた。
窓際の席で、シュンが小テストの答案用紙を両手でくしゃくしゃに丸めている。赤ペンで無残な点数が書き込まれたその紙切れを、彼は野球のピッチャーのように握り直した。
「……アバダケタブラ」
ぼそりと、ひどく場違いな言葉を呟いて、シュンはそれを教室の後ろにあるプラスチックのゴミ箱に向かって放り投げた。
カサッ、と乾いた音を立てて、紙屑は見事にゴミ箱のど真ん中に吸い込まれる。
「それ絶対使い方間違ってない?」
前の席で机に突っ伏していたカナが、顔を半分だけ上げて呆れたような声を出す。
「間違ってねえよ。俺のこのどうしようもない点数を、この世から完全に消滅させるための死の呪文だ」
「紙ごと消したって、成績表の記録からは消えないけどな」
俺がそう茶々を入れると、シュンは「うるせえ、現実は見ない」と吐き捨てて、机の上にドカッと足を乗せた。
シュンは満足げに鼻を鳴らすと、今度はノートの切れ端を破り取った。シャープペンシルを走らせ、何かを乱暴に書きつける。
「じゃあ次は、これだ」
彼が掲げた紙切れには、『松島』と書かれていた。体育教師の松島。無駄に声がでかく、何かと理由をつけてはグラウンドを走らせる、学年で一番鬱陶しがられている男だ。
「あいつのあの理不尽な連帯責任、マジで意味わかんねえからな。消え去れ」
シュンは紙を丸め、フリースローの構えを取った。
「アバダケタブラ」
放物線を描いた紙屑は、カランと音を立ててゴミ箱の底に沈んだ。
「なにそれ、ちょっと面白いかも」
カナが体を起こし、自分のルーズリーフを一枚破った。彼女は少しだけ口角を上げ、さらさらとペンを走らせる。
「じゃあ私は、昨日の夜からずっと既読スルーしてる元カレのLINEアカウントで」
「お前、それ怨念こもりすぎだろ」
「いいじゃん、遊びなんだから。はい、アバダケタブラ」
カナの放った紙屑も、シュンのそれに重なるようにゴミ箱へ落ちた。
二人の視線が、自然と俺に向けられる。
「……俺?」
「ハルもやれよ。なんかムカついてるやつ、あるだろ?」
シュンに急かされ、俺は渋々ノートの端を破った。特にこれといって強い恨みはない。だが、この奇妙な連帯感から一人だけ降りるのも面倒だった。
ペン先を浮かせ、少し考えてから書いた。
『この学校のボロい設備』
「なんだよそれ、スケールでけえな」
シュンが笑う。
「いや、図書室のエアコンとか、いつもカタカタ鳴ってて集中できないし」
適当に言い訳しながら、俺は紙を丸めた。手の中でクシャッとなる感触。
「アバダケタブラ」
投げたそれは、ゴミ箱の縁に当たって跳ね返り、床に転がった。シュンとカナが「ダッセ」と声を上げて笑う。俺も苦笑いして、拾い直す気にもなれずそのまま席についた。
たったそれだけの、本当にただの暇つぶしだった。
俺たちは適当に笑い合って、暗くなる前に教室を出た。ゴミ箱に転がった紙屑のことなんて、誰も気にかけていない。
だから、翌日の朝。
ショートホームルームで担任から「松島先生が急にお休みになった」と聞かされた時も、最初は俺も、シュンも、カナも、ただ「体育が自習になる、ラッキー」くらいにしか思っていなかったのだ。
「いやー、マジでツイてる。今日の午後、グラウンド十周の予定だったからな」
昼休み、購買で買った焼きそばパンをかじりながらシュンがへらへらと笑う。
「だね。アバダケタブラ効果絶大じゃん」
カナも冗談めかして、紙パックのストローを咥えながら適当に相槌を打っていた。俺も「たまたまだろ」と笑い飛ばした。その時点では、まだ完全に「よくある偶然」の範疇だったからだ。
空気が変わったのは、午後の五時間目だった。
数学の授業中。黒板に書かれた数式をノートに写していた時、突然、教室の蛍光灯が「バツン」という鈍い音を立てて消えた。
同時に、窓の隙間からずっと聞こえていた、図書室の室外機のカタカタという騒音が、ふっと途切れる。
不自然なほど静かになった薄暗い教室で、生徒たちがざわめき始めた。
「おい、停電か?」
「マジかよ、見ろよ廊下も真っ暗だぞ」
教員が慌てて廊下へ出て行く中、俺は背筋に冷たいものが走るのを感じて、ゆっくりとシュンの席を振り返った。
シュンも、そして斜め前のカナも、同じようにこちらを見ていた。
三人の視線が交差する。シュンの顔からは、昼休みのあの余裕のある笑みは完全に消え去っていた。
『この学校のボロい設備』
昨日、俺が丸めて床に転がしたあのルーズリーフの切れ端が、急に脳裏にフラッシュバックした。
放課後、学校は原因不明の停電で軽いパニックになり、結局俺たちはまともに顔を合わせることもなく、逃げるようにそれぞれの家へ帰った。
夜の十時過ぎ。
机に放り出していたスマホの画面が明るくなり、三人で作ったLINEグループからの着信を知らせた。通話に出ると、しばらくの間、誰も口を開かなかった。スピーカーの向こうから、シュンの部屋の小さな生活音だけが聞こえてくる。
「……なあ」
沈黙を破ったのは、ひどく掠れたシュンの声だった。
「停電、まだ直ってないらしいぞ。近所の奴がタイムラインで言ってた」
「……うん」
カナの返事も、昼間の冗談めかしたトーンとは別人のように暗かった。
「偶然だろ」
俺は努めて平静を装って言った。
「松島の休みも、停電も。たまたまタイミングが重なっただけだ。そんなの、よくあることじゃん」
「じゃあ、これは?」
カナの声が微かに震えていた。
「さっき……元カレのトーク画面、開いてみたの。どうなってるかなって、ちょっと気になって」
「……どうなってたんだよ」
シュンが促す。
「消えてた」
「は?」
「『メンバーがいません』って。アカウントごと、全部消えてたの。昨日までは普通にアイコンもステータスメッセージも表示されてたのに」
俺は息を呑んだ。
松島の欠勤。
学校の停電。
そして、カナの元カレのアカウント消失。
俺たちが昨日、あの生温かい教室でゴミ箱に投げ捨てた三つの「不満」が、たった一日の間にすべて現実の現象として起きてしまった。
「……おい、マジかよ」
シュンの声が、少しだけ上ずっていた。彼の中に芽生えた恐怖と、そしてほんの少しの「万能感」が混ざり合ったような、ひどく気味の悪い響きだった。
「俺たち、ガチでヤバい法則を見つけたんじゃねえの?」
「やめなよ!」
カナが叫んだ。
「遊びだったじゃん! 偶然だよ、絶対に偶然!」
「偶然で片付くかよ! 三つだぞ!? 確率的にありえねえだろ!」
「知らない! 私はもうやらないから!」
プツン、という無機質な音と共に、カナが通話から抜けた。
後に残された俺とシュンも、これ以上かける言葉が見つからず、逃げるように通話を切った。
静まり返った自室のベッドの上で、俺は自分の手が微かに震えていることに気がついた。
もし、俺があの時、適当な言い訳をせずに『嫌いなやつの名前』を書いていたら?
もし、シュンが『松島』じゃなく、別の『誰か』を呪っていたら?
そいつは今頃、この世界から完全に「消去」されていたんじゃないのか。
通話が切れた後も、俺はベッドの上で固まっていた。
スマホの画面はとうに真っ暗になっている。部屋の中は不気味なほど静かで、自分の心臓の音だけがやけにうるさく耳に響いた。
ふと、机の上に転がっている大学ノートとボールペンに視線が引き寄せられた。
「……確かめれば、いいんだ」
口に出した自分の声が、ひどく掠れていた。
もしこれがただの偶然なら、もう一度やって何も起きないことを証明すればいい。そうすれば、この気味の悪い妄想から解放される。
俺はのろのろとベッドから這い出し、机の前に座った。ノートの空白のページを開き、ボールペンを握る。
誰の名前を書く?
身近にいて、消えても俺の心が痛まない奴……。いつも廊下でわざと肩をぶつけてくる、隣のクラスの『佐藤』のニヤついた顔が浮かんだ。
ペン先を紙に落とす。じわっとインクの小さな染みができた。
『さ』。
一文字目を書こうとした瞬間、全身の毛穴が粟立つような悪寒が走った。
もし、本当に消えたら?
俺のこの手で、一人の人間の命を『デリート』してしまったら?
証拠なんて残らない。完全犯罪だ。俺の0.5ミリのペン先一つで、他人の命を自在にできる神のような力を手に入れることになる――。
「アバ……」
震える唇から、呪文を紡ごうとした。
だが、喉がカラカラに乾ききって、声が出ない。
ペンを握る右手が、まるで自分の意志を離れたようにガタガタと震え始めた。
佐藤が突然トラックに轢かれる光景。あるいは、存在そのものが空気中に溶けて消える光景。そんな生々しい幻覚が脳裏にこびりついて離れない。
「……っ!」
耐えきれず、俺はボールペンを乱暴に壁に向かって投げつけた。
カツン、と虚しい音を立ててペンが床に転がる。
俺は両手で顔を覆い、肩で息をした。
無理だ。
俺はただの、どこにでもいる高校生だ。他人の命のスイッチを押す覚悟なんて、あるわけがない。
圧倒的な恐怖と、それを実行できなかった自分のどうしようもない臆病さに安堵する気持ちがぐちゃぐちゃに混ざり合い、俺はその夜、一睡もすることができなかった。
徹夜明けの鉛のように重い体を引きずり、俺は教室のドアを開ける。
一歩足を踏み入れた瞬間、そこにあったのは、昨日までと寸分違わない、騒がしくて下品で、ひどく平和な「ただの日常」だった。
「おっはよー! いやー昨日の停電マジビビったわー」
「それな! バイト先もレジ止まってめっちゃダルかったし」
クラスメイトたちの他愛のない笑い声が耳に飛び込んでくる。誰も消えていない。世界は終わっていない。
自分の席に向かうと、シュンはすでに登校して机に突っ伏していた。いつもならふざけてちょっかいを出してくるはずが、俺と目が合っても、気まずそうにスッと視線を逸らした。その後ろの席のカナも、スマホをいじるふりをして下を向いている。
三人とも、昨日の夜から一睡もできていないのが丸わかりの顔だった。
やがてチャイムが鳴り、担任が教卓の前に立った。
「えー、おはよう。まずは昨日の停電だが、近所の水道管工事で業者がケーブルを引っ掛けたのが原因らしい。今はもう復旧してるから安心しろ」
担任のその言葉に、俺は心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
工事……? 業者のミス?
俺が昨日ノートに書いた『この学校のボロい設備』なんて、微塵も関係ないただの物理的な事故じゃないか。
「それから、松島先生だが……」
担任が少しだけ苦笑いを浮かべた。
「ジムでベンチプレスを上げていて、見事にぎっくり腰をやったそうだ。しばらくは自習になるから、お前ら静かにしとけよ」
どっと、教室に笑いが起きた。
「松島ダッセー!」「あの筋肉見せかけかよ!」という野次が飛ぶ中、俺はゆっくりとシュンを見た。シュンもゆっくりと俺を見た。
彼の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。俺も自分の顔から火が出るのがわかった。
……ぎっくり腰。
『死の呪文』の効果が、ただのぎっくり腰?
昼休み。
俺たちは、いつものように三つの机をくっつけて、無言でパンをかじっていた。誰一人として声を発しない。地獄のような沈黙だった。
やがて、カナがぽつりと呟いた。
「……元カレ、スマホ落として壊したんだって」
「えっ?」
「インスタの裏垢でキレてた。引き継ぎ設定してなかったから、LINEのアカウントも最初から作り直しになった、最悪、って」
カナはそこまで言うと、両手で顔を覆って机に突っ伏した。
「……死にたい」
その声は、恐怖からではなく、耐え難い羞恥心で震えていた。
俺も死にたかった。
昨日の夜、『自分たちは禁忌に触れた』と本気で信じ込み、悲劇のヒロインのように通話を切ったカナ。
『俺たち、ガチでヤバい法則を見つけたんじゃねえの?』と、中二病全開で震えていたシュン。
そして何より、一人で「他人の命をデリートする重圧」に怯え、勝手に殺人者の業を背負って徹夜した俺。
痛い。痛すぎる。
俺たちは魔法使いでも、選ばれし存在でも、呪われた罪人でもなかった。ただの自意識過剰で、痛々しい、世界の端っこにいる高校生だったのだ。
気まずすぎて息もできないほどの沈黙の中、シュンが焼きそばパンの袋をくしゃくしゃに丸めた。
彼はそれをゴミ箱に投げ入れることもなく、そっと自分の机の端に置いた。
「……なあ」
シュンが、蚊の鳴くような声で言った。
「今日の五時間目の小テスト、範囲どこだっけ……」
「……ベクトルの、三十ページから三十五ページまで」
俺が視線を落としたまま答えると、「そっか」と短く返事があった。
アバダケタブラ。
もし本当にそんな呪文があるのなら、今すぐ俺たち三人を、この耐え難い気まずさごと消し去ってほしかった。




