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WHO ARE YOU?  作者: 影の光
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Episode 07

Episode07: 「大邸宅」



場一「玄関――応えのない家」


マコトは正門をくぐり、砂利道を踏みしめて、大邸宅の玄関へ立つ。


洋館本館の、樫材の両開き扉。いつもなら使用人が先に開けてくれる扉だった。マコト自身がこの扉の取っ手を握った記憶は――ない。常に誰かが開けてくれていた。入る前には灯がともっていた。中へ足を踏み入れれば、そこには必ず温もりがあった。


取っ手が――冷たい。


扉を――開く。


玄関ホールが広がる。西洋風のシャンデリア。大理石の床。二階へと続く緩やかな曲線階段。壁を飾る油彩画。


――そのすべてが、闇に沈んでいる。


灯が――消えていた。シャンデリアに明かりはない。廊下のガス灯にも火はない。窓から差し込んでいるのは、月光でも星明かりでもなく――赤い空の、かすかな残光だけだった。


正体の知れぬ薄気味悪さが――皮膚の上を這う。うなじの産毛が逆立つ。空気が重い。息をするだけで、何か不浄なものを吸い込んでいるような不快感があった。


「……誰か」


マコトは呼ぶ。使用人を。メイドを。誰でもいい。


「……誰もいないのか」


返ってくるのは、己の声の反響だけだった。大理石の壁へぶつかり、階段へ跳ね返り、天井へ吸われて――戻ってくる。そのほかには――何一つ音がない。


四十人いるはずの使用人。その寝息一つ聞こえない。


マコトの心臓が速く打つ。危機感が――本能の領域で警鐘を鳴らしていた。


――武器。


思考だけは妙に冴えていた。恐怖の只中にあるからこそ、かえって思考が研ぎ澄まされていく。


この屋敷の中で、武器のある場所を。マコトは知っている。




場二



本館一階、西側廊下の突き当たり。父の書斎。


マコトは震える身体を引きずるようにして、足音を殺しながら廊下を進む。靴の踵が大理石を打つたび、音を最小限にとどめるよう――つま先で歩く。呼吸の音さえ抑える。口で息をすれば音が立つから、鼻からゆっくりと。


冷や汗が――絶え間なく流れていた。額から、首筋から、背中から。学生服の裏地はとうに濡れ切っている。


書斎の前へ着く。


取っ手に手をかける。真鍮の取っ手。冷たい。捻る。鍵は掛かっていない。


扉が――静かに開く。


書斎の中。灯はつけない。窓から差し込む微かな明かりだけで――輪郭を見定める。父の机。壁一面の書棚。革張りの長椅子。そして――書棚の脇、床に置かれた木箱。


マコトはその箱の前に膝をつく。蓋を開ける。中には――油を含ませた布に包まれたものがあった。


布を解く。


拳銃。


南部十四年式。父のものだ。これがここにあることを、マコトは知っていた。十二のとき、父の書斎を一人で探っていて見つけたのである。撃ったことはない。手に取ったのも、あのとき一度きりだった。父に見つかりかけた。


「やっぱり……まだ、あった」


箱の中には弾丸もある。数は多くない。マコトは震える指で弾をつまみ上げる。二発。たった二発。


装填を試みる。手が震え、弾が――滑る。床へ落ちる。静かな金属音が暗闇に響く。マコトは歯を食いしばる。床から弾を拾い上げ、もう一度。


二度目で――どうにか装填に成功する。


弾倉が収まる音がする。乾いた、鋭い音。


かちり。


二発。これが今のマコトの持てるすべてだった。


拳銃を右手に握り、書斎を出る。




場三



廊下を歩く。


自分の部屋へ向かって。離れの方へ。荷をまとめなければならない。ここを出なければならない。その前に――せめて必要最低限のものは持っていく。


廊下は暗い。窓から差し込む赤い残光が、床の上に格子の影を落としている。マコトの影がその光の上を滑る。


一歩。また一歩。右手には拳銃。銃口は下へ向けている。人差し指はまだ引鉄にはかけない。


中央回廊を抜け、離れへ通じる廊下へ入った、そのとき。


ぽつ。


背後で――音。


ぽつ、ぽつ。


何かが落ちるような音だった。雫にも聞こえる。足音にも聞こえる。規則性のない、不穏な音。


マコトは――立ち止まる。


身体が強張る。心臓が喉元までせり上がってきたようだった。


振り返る。


拳銃を構えたまま。


銃を握る手が――ぶるぶると震える。銃口が揺れに合わせて小さな円を描く。狙いなど定まらない。暗闇へ向けて銃口を向けてはいるが――向けたところで、この闇を押し返せるわけではない。


廊下の後方が――見える。


何もいない。


あるのは闇だけだ。たった今通ってきた廊下が、そのまま暗がりに沈んでいるだけ。音の主はどこにも見えない。


五秒。十秒。


何も起きない。


マコトは――ゆっくりと正面へ向き直る。離れの方へ。歩みを速める。




場四



離れ。自室の前。


内側から――物音が聞こえた。かさ、と。何かが動いたような音。


マコトは立ち止まる。拳銃を前へ出す。両手で握る。左手の包帯が握りを滑らせる。


覚悟を固める。心臓を押し鎮める。


障子戸を――ゆっくりと開ける。


きい、と微かな軋み。


暗闇。


マコトは――恐怖に一瞬目を閉じる。刹那。そして――目を開く。


異常は、ない。


部屋。自分の部屋。畳。寝台。机。書棚。障子の向こうの庭。昨夜割れたガラス杯の破片は――片づけたまま。すべてが――朝、出て行ったときのままだった。


おかしなものは何もない。先ほどの音の原因も見当たらない。


マコトは――部屋の中をもう一度確かめる。障子の裏。押入れの中。寝台の下。何もない。


脚から力が抜ける。椅子へ――倒れ込むように腰を下ろす。


――ここは危ない。別の場所へ行かなければ。


思考が速く回転する。この屋敷はもはや安全ではない。灯は消え、使用人は応えず、世界そのものが歪み始めている。ここを出るしかない。外へ。どこへでも。


荷をまとめる。最低限でいい。一つの鞄に――着替え、手拭い、救急箱の包帯と消毒薬。それから――反対側の引き出しを開ける。


紙幣の束。


マコトが非常用として隠しておいたものだ。取り出して数える。


「……これだけじゃ」


思っていたより少ない。数日しのぐくらいはできるかもしれない。だが、それ以上は分からない。


――金庫へ行こう。


神楽家の金庫。地下にある。本館地下――一般の使用人ですら立ち入れぬ場所。鍵は父だけが持っていたが――マコトは幼いころ、一度だけついて入ったことがある。場所は知っている。


荷を簡単にまとめ、鞄を肩に掛ける。懐にはカナエの手紙。腰には拳銃。用意できるものは――それだけだった。


部屋を出ようとした、そのとき。


こつ。こつ。こつ。


ノック。


マコトの動きが――すべて止まる。


部屋の外から――誰かが戸を叩いている。


規則正しいノック。丁寧なノック。使用人のノックだ。


声が出ない。誰だ、と訊きたいのに、喉が凍りついている。音にならない。


こつ。こつ。こつ。


もう一度。同じ間隔。同じ強さ。


マコトは――応えない。拳銃を握ったまま。息を潜めたまま。戸口から二メートル離れた位置に立ったまま。


返事がないと知ると――ノックが変わる。


どん。どん。どん。


強くなる。戸枠が揺れる。障子紙が振動して細かく震える。


どん。どん。どん。どん。どん。


まるで打ち破る気だ。木枠がきしむ。


マコトの全身を――悪寒が覆う。壁際へと後ずさる。


――不意に、止まる。


ノックがやむ。静寂が落ちる。


そして――外から声。


「お食事の支度が整いました、坊ちゃま」


マコトの目が――見開かれる。


この声を知っている。メイドの一人。ハル。この屋敷で最も長くマコトの世話をしてきた者の一人。幼いころから側にいた女。食事を運び、部屋を整え、母のいない夜には「おやすみなさいませ、坊ちゃま」と告げてくれた――あの声。


安堵が押し寄せる。と同時に――恐怖。


その二つが同時に胸を刺す。安堵。ハルは生きている。恐怖。果たして、本当にハルなのか。


マコトは――答えぬまま、その場に立ち尽くす。


戸の向こうの声を――じっと聴く。


おかしい。声に――悲しみがある。いつものハルは明るく、やさしく、活気に満ちていた。だがこの声の底には――説明のつかぬ悲しみが沈んでいた。言葉は平凡だ。「お食事の支度が整いました」。けれど、その響きの底に――何かが澱んでいる。泣くのを堪えているような。最後の挨拶をしているような。


マコトは――決める。


拳銃を背後の腰へ隠す。学生服の裾で隠す。


戸口へ歩み寄る。取っ手を握る。


ゆっくりと――開ける。


きい。


戸が開く。


マコトは――息を呑む。


外の灯が――すべて点いている。


廊下のガス灯が明々と燃えていた。壁の影がくっきりと浮かび、床には艶が戻っている。先ほどまでの漆黒の闇など――最初からなかったかのように。あの禍々しい空気も――消え失せていた。


ただし――違和感だけは消えていない。光は戻った。だが、何かが――ずれている。空気の密度。光の角度。匂い。ほんの僅かに、すべてが違う。同じ屋敷でありながら――同じ屋敷ではないようだった。


戸口の前に――ハルが立っている。


メイド服。白いエプロン。きちんと結い上げた髪。見慣れた姿そのまま。


ハルが――微笑む。


「坊ちゃま、お食事の支度が整いましたので、どうぞお 내려りくださいませ」


微笑み。いつもの微笑み。なのに――ひどく悲しい。口元は笑っているのに、目が笑っていない。瞳の奥に溜まっているものが――感情なのか、光の映り込みなのか、マコトには判別がつかなかった。


マコトは――小さく頷く。


「……分かった」


ハルは丁寧に一礼し、背を向ける。廊下を歩いていく。


マコトは――戸を閉めぬまま、ハルの姿が遠ざかるのを見つめる。


そして――衝撃。


――何だ……あの表情は。


笑っていた。確かに笑っていた。けれどその笑みに――悲しみがあふれていた。まるで――これが最後になると知っている人間の笑みのように。


マコトは椅子へ腰を落とす。脚の力が抜けていた。頭の中が高速で回る。


――気のせいか。


そのとき――視線が床へ落ちる。


自分の影。灯に照らされて、椅子に座る自分の影が――床の上にはっきりと落ちている。


だが――次の瞬間、凍りつく。


――待て。


記憶を巻き戻す。たった今。戸を開けたとき。ハルが立っていた。笑っていた。廊下の灯の下に。


――彼女には、影がなかった。


廊下のガス灯は明るく灯っていた。マコトには影があった。戸枠にも影があった。なのにハルの足元には――何もなかった。


マコトの背筋が――冷え切る。




場五



そのとき――音。


戸の隙間の下から――何かがするりと滑り込んでくる。


マコトは椅子から跳ね起きる。後ずさる。手が拳銃へ伸びる。


床に――小さな封筒が落ちていた。戸の隙間から差し入れられたものだ。そして――それを差し入れた気配が、戸の向こうから消える。足音もなく。


マコトは――十秒待つ。


それから近づき、封筒を拾う。


中には――二つ。


鍵が一つ。手紙が一通。


鍵は大きい。古びた鉄製。地下室の鍵に似た形だ。


手紙を――震える手で開く。


親愛なる坊ちゃまへ


ハルでございます。


おそらく、これが最後のお言葉になります。


この手紙を坊ちゃまが開かれるころには、わたくしたちはすでに、正体の知れぬものどもに殺されているかもしれません。


最後の意志として、この手紙を残します。


行き場のなかったわたくしたちを引き取り、絶望しか知らなかったわたくしたちに、幸せとは何かを教えてくださって、ありがとうございました。


次にまたお目にかかることは叶わぬでしょうが、いつの日か、再びお仕えできることを願っております。


文字が――滲んでいた。カナエの手紙と同じ滲み。涙だ。


滲んだ箇所の下に――なお文字が続いている。今度は筆圧が強くなっていた。


坊ちゃま、ここは危のうございます。


もしお戻りになりましたなら、どうか必ずお逃げください。


そのために、地下の鍵などを残しておきます。


突然のお話にてお苦しみになることでしょうが――神楽千鶴様と当主様は、ご出張の折、正体不明の敵に襲われ、お亡くなりになりました。


ご遺体すら、今なお行方知れずにございます……


神楽マコト坊ちゃま。


どうか、あなただけはお生き残りください。


愛するメイド一同より


そして――その下に、別の色の筆で書き添えられた一行。


筆跡が違う。メイド一同のものではない。ハルの字だ。後から加えたものに違いなかった。


わたくしが、時間を稼ぎます。


マコトは――手紙を握ったまま、その場へ崩れ落ちる。


畳の上へ。膝が折れ、尻が床につき、背が壁へ凭れる。手紙を持つ手が、膝の上へ力なく落ちる。


両親が――死んだ。


神楽恭一郎。神楽千鶴。父と母。


年に三度か四度だけ帰宅し、書斎へ籠っていた父。「おまえが知るべきときが来れば、自然と知ることになる」とだけ言った父。時折帰ってきては、髪を撫で、微笑み、また去っていった母。


死んだ。遺体さえ、ない。


そしてメイドたち。四十人の使用人。行き場のなかった者たちを、この家が引き取っていたこと――マコトはそれを今、初めて知った。いや、知ってはいたのかもしれない。ただ意識していなかっただけだ。この屋敷の使用人たちが、なぜあれほど忠実だったのかを――今になって、ようやく理解する。


給金のためではなかった。義務のためでもなかった。恩義だった。そしてその恩義を――命で返そうとしている。


マコトの歯が――かちかちと鳴る。怒りなのか、恐怖なのか、悲しみなのか。すべてだ。


だが――最後の一行が、彼を立ち上がらせる。


――わたくしが、時間を稼ぎます。


ハルが――今この瞬間にも、自分のために時間を稼いでいる。


マコトは――立ち上がる。




場六



鍵を握る。鞄を背負う。拳銃を隠す。


戸を――開ける。


廊下。灯がついている。明るい。


マコトは静かに部屋を出て、地下室へ向かおうとする。地下室は本館一階の奥、厨房の脇にある。


離れから本館へ通じる回廊を抜け、本館一階へ入る。


上から――下を見下ろす。


本館一階の中央ホール。階段の上から見渡せる広い空間。


メイドたちがいる。


数人ではない。何人も。メイド服をまとい、盆を手にし、行き交っている。いつも通りに。まるで食事の支度をしているかのように。ざわめき。話し声。


マコトは――異様さを覚える。


よく見る。


メイドたちは動いている。笑っている。話している。だが――何かが、おかしい。動作がわずかにずれている。笑いが半拍遅い。会話に文脈がない。同じ言葉を何度も繰り返しているようでもある。まるで――録音されたものを再生しているかのように。


「坊ちゃま! どうぞお 내려りください!」


下から一人のメイドがマコトを見つけ、手を振る。明るい笑顔。


「お食事のご用意が整っております!」


別のメイドも声を上げる。


「坊ちゃま、どうぞ、お早く!」


マコトは――一歩、後ろへ退く。本能が告げていた。降りてはいけない、と。


そのとき――視界の端で、何かが動く。


遠く。一階廊下の端。厨房の脇。


ハル。


彼女が――マコトを見ている。


他のメイドたちから離れた場所で。ホールの柱の陰から。マコトを――見上げている。


そして――合図を送る。


手を、小さく動かす。掌をこちらへ向けてから――そっと下ろす。


待ってください。


今はまだ。


そう告げる仕草だった。


マコトは――凝視する。


そして――息を呑む。


ハルには――影がある。


ガス灯の下、床の上に、ハルの影がはっきりと落ちている。


だが――ほかのメイドたちには影がない。


笑いながら行き交う者たち。盆を運び、食器を持ち、マコトを呼ぶ者たち。その足元には――何もない。ガス灯の光は彼女たちの身体を照らしているのに、床に影を作らない。まるで――実体がないかのように。この世界に本当には存在していないかのように。


恐怖が――せり上がる。マコトは口の内側を噛み、声を殺す。


ハルが――動く。


ほかのメイドたちへ歩み寄り、明るい声で言う。


「まもなく坊ちゃまがお 내려ります。準備を整えましょう」


影のないメイドたちが――朗らかに応じる。


「はい!」

「かしこまりました!」


そして――食堂へ向かう。一人、また一人。全員。ハルが先に立ち、彼女たちを食堂の中へ導いていく。


最後に――ハルが食堂の扉の前で立ち止まる。


マコトを見上げる。


そして――扉を閉める、その直前。


唇の形だけで――告げる。音もなく。


――今です。


扉が閉まる。


マコトは――見逃さない。


階段を下りる。足音を殺して。一階中央ホールを横切って。厨房の脇。地下室へ続く扉へ。


涙が――流れる。


ハルが扉を閉めるとき、最後に――ふっと笑った。


恐怖に引きつった顔ではなかった。諦念でもなかった。その微笑みには――マコトへの温かさがあった。幼いころからこの少年を見守ってきた者の、あの温かさ。「おやすみなさいませ、坊ちゃま」と告げてくれた声と同じ温度の――温かさが。


マコトは涙を拭わない。拭っている暇がない。


地下室の扉を開け、階段を下りる。


場七「地下室――金庫と遺されたもの」


地下室。


冷たい。空気が違う。湿り気がある。壁は石造り。天井は低い。ガス灯が一つだけ、ぼんやりと燃えていた。


マコトはハルの残した鍵で――地下室の奥の扉を開ける。鉄扉が軋みながら開く。


金庫室。


神楽家の金庫。幼いころ、一度だけ父と共に入ったことのある場所。あのときは、棚いっぱいに金塊が積まれ、書類の封筒が整然と並び、宝石箱まで置かれていた。


今は――空っぽだった。


棚が空いている。金がない。書類がない。宝石もない。すべてが――消えている。


「誰かが……別の場所へ移したのか」


マコトは空になった棚を見つめる。


そのとき――金庫室の奥の壁際、机の上に、紙片が一枚あるのに気づく。


マコトは近づき、拾い上げる。


短い文。だが――この筆跡を、彼は知っている。


母。神楽千鶴の字。


誰かがおまえを助けるでしょう。


おまえの心が引かれる方へ進みなさい。


マコトの手が――震える。


母がこれを残したのだ。死ぬ前に。この事態を――予見していたというのか。金庫の中身を移し、この紙を残して。息子がここへ来ることを知っていたのか。


――おまえの心が引かれる方へ。


マコトは――残っているものを確かめる。空になった棚の上に、わずかな書類と細々した品が残されている。役に立ちそうなものを鞄へ詰める。


地下室の小窓を見る。地上へ通じる採光窓。人一人がどうにか抜け出せるほどの大きさ。メイドたちさえよく知らぬ出口だ。


窓を割って出ようとする。


そのとき――視界の隅に。


地下室の最奥、壁際の棚のさらに奥に――小さな金庫が見える。


見たことのないものだった。幼いころ父と来たときには、こんなものはなかった。あるいは――あったのに気づかなかったのか。古びた鉄製の金庫。埃をかぶっている。ダイヤル式の錠。


マコトは――近寄る。


番号は知らない。鍵もない。


試しに――自分の誕生日を合わせてみる。


七。七。


ダイヤルを回す。


――開く。


マコトの目が見開かれる。自分の誕生日が暗証だった。これは――自分のために残されたものだ。


金庫が開いた瞬間――異質な匂いが流れ出す。古いものの匂い。数百年の時間が一箇所へ閉じ込められ、それが今、解き放たれたかのような匂い。木と鉄と埃と――その向こうにある何か。


中には――二つ。


金塊が一つ。小さいが、ずっしりと重い。純度は高そうだ。最小限の資金にはなる。


そして――もう一つ。


布に包まれている。呪符が貼ってある。古びた紙に墨で記された札。その上には朱で奇妙な文様が描かれていた。マコトはその文様を――見たことがある。どこで。神社だ。鳥居に刻まれていた紋と――同じ。


布を解く。


剣の鐔。


いや――鐔のように見えるもの。剣の一部。柄を飾る金具か、あるいは――もっと古い、別の何か。金属だが、マコトの知るどの金属とも違う。表面には微細な文様が刻まれている。長い年月を感じさせるのに、錆びていない。神社の建物のように――時間そのものを拒んでいる品だった。


「これは……何だ」


奇怪な形をしていた。美しくはない。精巧とも言いがたい。むしろ――原始的だ。人の美意識が形を持つより前、もっと古い感覚によって作られたもののように見える。


手に取った瞬間――震え。


微細だが確かな振動が、金属からマコトの手へ、手から腕へ、腕から胸へと伝わる。神社で感じたものと――同じ質の震え。


考えている時間はない。


どん。どん。


地下室の上で――足音がする。


重く、不規則で、多い。一つではない。複数だ。


マコトは――金塊と鐔を鞄へしまう。呪符のついた布で再び包み直して入れる。


そして――頭痛が来る。


頭蓋が割れそうだった。頭の中で鉄塊が壁へぶつかっているようだ。悲鳴が押し寄せる。何万もの悲鳴。その中の一つが――はっきりと聴こえる。


マコトは――涙を流す。


ハルの声だ。


悲鳴。ハルの悲鳴。上から。一階から。食堂から。


マコトの身体が――動きかける。上へ。階段を駆け上がって。今すぐにでも拳銃を抜いて――たった二発しかない弾丸であっても――


堪える。


歯を食いしばる。奥歯が軋むほどに。唇を噛む。血がにじむ。


「ごめんなさい……」


涙が止まらない。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


上へ行けば死ぬ。ハルが時間を稼いだことが――無意味になる。ハルが笑って扉を閉めたことも、手紙を残したことも、鍵を渡したことも――すべて無意味になる。


マコトは――窓を割る。


拳で。学生服の袖に包んだ拳がガラスを突き破る。破片が散る。小さな採光窓。身体を捻ってそこから抜け出す。破片で服が裂け、腕へ浅い傷が走るが――構わない。


地上へ――出る。


屋敷の裏手。庭の端。森の始まる場所。


マコトは走る。屋敷の塀に沿って。出口を目指して。そして――正門ではない方――塀際の小さな脇門から抜ける。朝、神社へ行くときに使う、あの門だ。


坂を登る。屋敷を離れ、高台の斜面を駆け上がる。


そして最後に――振り返る。




場八



丘の上から――屋敷が見下ろせる。


本館。離れ。庭。噴水。そして――食堂。


食堂は一階南側にある。大きな窓があり、その窓には厚いカーテンが引かれている。中には明かりがついていて――カーテンに影が映っていた。


マコトは――見る。


カーテンの上に――いくつもの影。


人の形をしている。メイド服の輪郭。けれど――動きが異様だ。跳ねている。跳びはねている。腕を振り回して。そして――手に何かを持っている。


カーテンに――正体不明の液体がついている。上から下へ、ぽたり、ぽたりと流れている。黒なのか、赤なのか――この距離では分からない。ただ――液体だ。流れ落ちる液体。


影たちが――手にしているもの。


マコトの目が――それを認識する。


認識した瞬間――世界が揺らぐ。


マコトは――それ以上の描写を拒む。脳が拒絶する。目が見たものを、意識が処理することを――拒む。


「――ッ!」


吐き気が込み上げる。マコトは身を屈め――吐く。胃液がこみ上げる。血も混じる。


その一方で――名状しがたい悲鳴がさらに近くなる。屋敷から聞こえる悲鳴。メイドたちの悲鳴。マコトの知っている声。毎朝挨拶してくれた声。食事を運んでくれた声。「坊ちゃま」と呼んでくれた――その声が――悲鳴になって夜空へ響き渡る。


「最初から……あの人たちは」


マコトの声が震える。


「僕を……守るために……」


カナエは手紙を残して死んだ。ハルは時間を稼ぐと言って残った。メイドたちは遺書を残して――その場に留まった。


皆が――マコトを守るために。


「ハルさんまで……」


ハルの笑み。扉を閉める直前の、最後の笑み。


「本当に……最低だ、僕は」


マコトの拳が草地の土を掴む。


「守るべきものに……守られているなんて」


全身が震える。怒りなのか、悲しみなのか、自己嫌悪なのか――もはや分からない。すべてだ。


だが――ここで崩れれば、彼女たちの死が無意味になる。


マコトは――かろうじて理性を繋ぎ止める。


――どこへ行けばいい。


空を見上げる。


赤い空が――裂けるように、マコトを見下ろしていた。


底のない感覚。この空は――ただの空ではない。何かの眼だ。マコトを見下ろす、巨大で、古く、飢えた何かの視線。


そして遠くから――あの得体の知れぬ気配が、再び近づいてくる。屋敷の方から。こちらへ。マコトを追って。追跡してくる。


「早く……行かなきゃ」


けれど、どこへ。


頭痛が来る。頭が砕けそうだ。膝が折れ、丘の上で――倒れる。掌が草地につく。目を開けていられない。光が痛い。音が痛い。存在しているものすべてが痛い。


そのとき――


記憶が――よぎる。


幼いころ。十歳。家の神社。洞穴。鳥居。差し込む光。そして――あの場所で感じたもの。


世界のあらゆる雑音が消える場所。説明のつかぬ静寂があった場所。何かがマコトを包み込んでくれた場所。


――頭痛が和らぐ。


その場所を思い浮かべるだけで――頭の中の悲鳴が一段低くなる。痛みの波が、一拍遅れる。


マコトは――分かる。本能で分かる。行くべき場所がどこなのか。


――おまえの心が引かれる方へ進みなさい。


母の手紙。


マコトは――立ち上がる。


屋敷の裏手の森。その奥にある、地図にも載らず、一族のごく一部しか知らぬ――山中の洞窟の神社。


マコトは――走り出す。


闇の中へ。森の中へ。山へ向かって。


赤い空の下。追ってくる気配を背にして。懐にはカナエの手紙とメイドたちの遺書。鞄には金塊と、得体の知れぬ鐔。腰には二発だけの拳銃。


神楽マコト。十六歳。


この世界で――完全に、独り。

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