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WHO ARE YOU?  作者: 影の光
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episode 06

episode 06



場一「書簡――震える文字」


マコトの指先が、紙に触れた。


冷たい。紙一枚の冷たさが――全身を貫いた。氷ではない。むしろ、生きた何かに触れたような感触だった。


テープを剥がす。半ば外れかけていた粘着は、軽い音を立てて離れ、小さな書簡がマコトの手の中に落ちた。折り畳まれた紙。四つ折り。掌に収まるほどの小ささ。


マコトは――立ち上がる。


膝から力が抜けてよろめいたが、カナエの机の角を掴み、どうにか身体を支えた。


開かなければならない。


けれど――手が震えて、開けない。


両手が震えていた。左手は包帯の上からでもはっきりと揺れが見え、右手の指先は痙攣するように細かく跳ねる。折り目の端を摘まもうとしても、指が滑る。一度。二度。


震えだけではない。言い知れぬ、圧倒的な不安が――胸骨の奥からせり上がってくる。心臓を掴んで捻るような圧迫。肺が縮むような息苦しさ。全身が――この書簡を開くことを拒んでいる。まるで本能が叫んでいるようだった。


開くな。見るな。戻れなくなる。


マコトは奥歯を噛み締める。震える両手で、一つ目の折り目を開く。二つ目を開く。


その瞬間――吐き気が込み上げた。


胃がひっくり返る。マコトは身を折る。口から――血が出る。


咳とともに。鮮やかな赤。熱い。それが掌に落ちる。書簡の上にも――落ちる。自分の血が、カナエの最後の文字の上に滲んでいく。


マコトは口元の血を袖で拭う。詰襟の黒布に血が染み込む。見えない。黒が、赤を呑み込んでしまう。


震える手で――三つ目の折り目を開く。四つ目を。


書簡が――開く。


文字が見える。


マコトの目が――その文字を追う。そして――凍りつく。


筆跡が――ひどく乱れていた。


カナエの字を、マコトは知っている。図書室で何度も見た。整っていて、はっきりとしていて、少しだけ丸みのある愛らしい字。だがこの書簡の文字は――それではない。同じ人間の手で書かれたものとは思えぬほど、文字が震え、重なり、歪んでいる。判読すら難しい箇所がある。この文を書いた者の手が――激しく震えていたことを、文字の一つ一つが物語っていた。


マコト君へ。


こんなことを書いたら、きっと変に思われるでしょうけれど、たぶん私は今日、死ぬ気がします……


マコトの呼吸が――止まる。


私のまわりに、変な影みたいなものが、急に集まってきています……ほかの人には見えていないみたいです……


マコトの目が――充血する。血管が裂けそうなほど赤く染まる。


あれは誰かを探しているみたいでした……いいえ……もしかしたら……マコト君なのかもしれません……


マコトの手が震える。紙がかさりと鳴る。


マコト君、何かおかしいです……助けてください……


文字が――滲んでいる。この部分は――濡れていた。いや、水ではない。涙だ。カナエの涙が紙の上に落ち、インクを滲ませたのだ。滲んだ箇所の下にもまだ数行ある。だが――読めない。文字は溶け、崩れ、失われていた。そこに何が書かれていたのか、永遠に知ることはできない。


そして――その滲みの下、最後の数行。


再び文字が現れる。今度は――滲みではない。力が込められていた。震える手で、それでもなお、ありったけの力を振り絞って書かれた文字。


マコト君、逃げて!!! どうか、生き延びて……あなたには、やらなければならないことがたくさんあるから……


文字が大きくなる。さらに切迫していく。最後の二行。


マコト、逃げて!!!!!! 走っ――


「走っ」の最後の一画が――紙の外へ飛び出していた。ペン先が滑った痕。書いている途中で――止まったのだ。ペンを握る手が、それ以上は動かなくなった、その瞬間の痕跡。


マコトは――書簡を手にしたまま立ち尽くしていた。


微動だにしない。


血走った目で、書簡の最後の一行――途切れた「走っ」の線を見つめている。


これを書いたのは、今日の朝だ。一限が始まる前。あるいは始まってすぐ。カナエは――何かを見た。自分の周囲に集まる、他の誰の目にも見えない影を。そしてそれが自分に向けられたものではなく――マコトを探しているのだと知った。


死にゆくその最中に。


最期の瞬間に。


自分ではなく――マコトを案じながら。


――逃げて。


マコトの――精神が外れる。


意識を失うのではない。意識はある。だが――現実との繋がりだけが断たれる。この教室が、この机が、この書簡が、この世界が――本当に在るものなのかどうか、判別がつかない。感覚が、ばらばらにほどけていく。


そのとき――周囲が変わる。




場二「蝕――世界が裏返る」



教室の光が――消える。


窓から差していた午後の日差しも、蛍光灯の明かりも、あらゆる光源が――同時に失われる。いや、消えたのではない。呑み込まれたのだ。光のあった場所を、闇が満たしていく。水面に落ちた墨が広がるように、教室の隅々から得体の知れない闇が滲み出してくる。


マコトが――顔を上げる。


窓の外を見る。


空が――赤い。


先ほど目覚めたとき、ほんの一瞬だけ見たあの空。目を閉じて開けば消えていたはずの、あの空。今度は――消えない。


血のように赤い空が、地平から天頂までを覆い尽くしている。


雲はない。太陽もない。月もない。ただ――赤い。世界そのものが、ひとつの巨大な傷の内側であるかのように、赤い。


そして――音。


悲鳴が四方から押し寄せる。教室の壁から、床から、天井から――声が滲み出す。幾万もの悲鳴。幾万もの絶叫。今度は頭の中ではない。外から聞こえる。この空間そのものが、悲鳴で満たされていた。


そして――気配。


ぞっとするような気配が、マコトを襲う。冷たくも熱くもない。けれど、肌を切り裂くような――敵意。この闇はマコトを知っている。マコトを探していた。そして――見つけた。


闇の中から――声が聞こえる。


ひとつの声。無数の悲鳴を押し分けて現れる、低く、深く、古い声。


「見つけた」


一拍。


「こいつか」


マコトの全身に――鳥肌が走る。総毛が立つ。心臓が一拍止まり、その直後に激しく脈打つ。


この声は――人のものではない。どんな生き物のものでもない。音の形をしていながら、その中に含まれているものは――音という器に収まりきるはずのない何かだった。幾千年という時間。幾万もの死。数え切れぬ忘却の重み。そのすべてが――たった二つの言葉の中に圧し込められている。


マコトは――動く。


思考より先に、身体が。


床に落とした書簡を――拾い上げる。懐へ入れる。カナエの最後の言葉。これだけは――ここに置いていけない。


そして――走る。


教室の扉へ。だが、手を掛ける時間すらない。闇が――背後から迫ってきている。波のように。津波のように。教室の奥から、机を呑み、床を呑み、壁を呑み込みながら――押し寄せてくる。


マコトは――扉へ体当たりする。


引き戸がレールから外れ、廊下に倒れ込む。轟音が響く。肩に激しい衝撃が走るが、アドレナリンが痛みを呑み込む。


廊下へ――飛び出す。




場三「学校――空白の地獄」



廊下が――空いている。


生徒がいない。教師がいない。誰もいない。本来なら何百人もいるはずの校舎が――空っぽだった。


そして――暗い。


廊下の電灯はすべて消えている。窓から差し込む光――それさえも赤い空の光だ。廊下一面が、鮮血のような色に染まっている。木の床は血に濡れているように見え、壁の煉瓦は赤黒い光を跳ね返している。


マコトは走る。


鞄は――置いてきた。自分の教室の机の横に。だが、構わない。今、必要なのは鞄ではない。


――出なければ。


正門。学校の外へ。その一念だけが頭の中にある。


廊下を走る。足音が響く。自分の足音だけが。この巨大な校舎の中で、音を立てているのは自分だけだ。そして――悲鳴。壁から滲み出す悲鳴。走れば走るほど、その声は大きくなる。


「どうしよう……まっすぐ家へ帰らないと……」


走りながら、思わず呟く。


「執事を待ってる場合じゃない……」


中央回廊を抜ける。本館一階の廊下へ入る。正門へ続く廊下――その電灯がすべて落ちている。


マコトの足が、ほんの一瞬だけ鈍る。おかしい。まだ昼のはずなのに――なぜこんなにも暗いのか。


走りながら――窓を見る。


夜だ。


さっきまで赤かった空が――今は漆黒の夜になっている。星もない。月もない。ただ――黒い空。


「何が……どうなってるんだ……?」


時間が――捩じれている。授業中だった。昼だった。なのに、今は夜だ。何時間経ったのか。あるいは――時間というもの自体が、この空間では意味を失っているのか。


考えている余裕はない。正門が――見える。廊下の突き当たりの玄関。硝子戸の向こうに――黒い夜。


マコトが玄関へ辿り着きかけた、そのとき――


足が止まる。


意志ではない。生存本能が、身体を止めたのだ。


音がする。


足音。


正門の方から――何かが歩いてくる。


規則正しい足取り。だが――人間のものではない。拍子が違う。一歩、二歩、三歩――三歩? 二本脚ではない何かの歩み。あるいは――複数のものが完全に歩調を合わせて歩いている音。判別できない。ただ――凍りつくほどおぞましい。背筋が冷え切る。


マコトは――身を低くする。廊下脇の教室の戸口に身を隠す。息を殺す。


足音が近づく。近づく。近づく。


そして――通り過ぎる。


正門の玄関から、廊下の奥へ。マコトの隠れた場所の――三メートル脇を通る。


マコトは見ない。見られない。見てはいけないという本能が、首を動かすことを許さない。ただ――気配だけを感じる。通り過ぎていくそれが放つ気配。冷たい。重い。古い。そして――飢えている。


足音が遠ざかる。廊下の奥へ。やがて消える。


マコトは――五秒数える。十秒。十五秒。


そして――隠れていた場所から抜け出し、反対方向へ――走る。


正門は駄目だ。あれは正門の方から来た。ならば――裏門。




場四


本館一階を横切り、校舎の裏手へ。給食室の脇を抜け、体育館の裏を回り、旧館側の出入口から――裏門へ。


走る。息が上がる。肺が破れそうだ。血を吐いたあとで、喉の奥が焼けつくように痛む。包帯を巻いた左手が脈打つ。


暗い廊下を駆ける。足元が見えない。月明かりも、星明かりもない夜。校舎の輪郭だけが――赤い空の残光によって、かろうじて浮かんでいる。


旧館側の廊下。昨日――いや、一昨日――カナエと歩いた廊下。マコトの謝罪。カナエの告白。桜の花びら。笑い声。


あの廊下が今は――漆黒に沈んでいる。


不意に、マコトの足が何かを踏んで滑る。


転ぶ。膝と掌を床に突く。左手の傷が――激痛を放つ。叫びそうになるが、歯を食いしばって耐える。声を出せば――気づかれる。


床から身を起こす。膝がひりつく。詰襟の膝のあたりが裂けたらしい。


再び――走る。


裏門が――見える。


鉄門。施錠されているかもしれない。マコトは走りながら祈る。生まれて初めて。何に祈っているのかも分からぬまま。


鉄門に手が届く。引く。


――開く。


マコトは――学校の外へ飛び出す。


足が土を踏む。裏門の外の土道。学校の裏手は森に接している。木々の向こうに――黒い空が見える。


外の空気は――違っていた。校舎の中で感じたあの圧倒的な気配が――薄れている。消えたわけではない。だが、遠のいている。


マコトは――止まらない。校舎を背にし、森沿いの道を辿って、正門側の街道へ向かう。


夜だ。だが、マコトの記憶では、まだ授業中であるはずの時刻だ。もし本当に夜なのだとしたら――執事が待っているかもしれない。朝、「あとでお迎えにまいります」と言った執事。市郎が。校門前で待っているかもしれない。


正門側の道へ出る。闇の中で――視線を巡らせる。


遠く。


街灯ひとつない暗い道の上に――車が見える。


神楽家の黒塗りの車。マコトが毎日乗っている、あの車。正門から少し離れた場所に停まっている。


マコトの胸に――安堵が押し寄せる。脚から力が抜けそうになる。


走る。車へ向かって。


近づくと――運転席の扉が開く。


市郎が――降りてくる。


端正な燕尾服。銀の混じった髪。いつも通り、隙のない姿勢。


「お遅うございました」


穏やかな声。マコトの知っている、市郎の声。


マコトは――叫ぶ。


「早く屋敷へ戻って!!」


市郎は――わずかに目を見開くが、すぐに頷く。


「かしこまりました、坊ちゃま」


二人は車に乗る。市郎がエンジンをかける。車が走り出す。




場五



車が走る。


暗い道を。街灯はない。ヘッドライトの光だけが路面を照らし、左右は漆黒に沈んでいる。木々の影が後ろへ流れていく。


マコトは後部座席で――震えている。止まらない震え。両手で膝を強く抱え込み、歯を食いしばり、目を閉じたまま――震えている。


運転席から、市郎の声が聞こえる。


「坊ちゃま、どうかお気をお鎮めください」


「何があったのかは分かりませんが、まもなくお屋敷です」


「坊ちゃまのご身辺の安全が、何よりも第一にございます」


マコトは――どうしても落ち着けない。カナエの書簡が懐の中で、腿に触れている。血に濡れた紙。カナエの最後の文字。――逃げて。


市郎が――言葉を継ぐ。


しばらく走ったのち。


「マコト坊ちゃま」


いつもより――柔らかな声。執事としての礼節ではない。三十年、一つの家に仕えてきた者の――本心の声音。


「わたくしが坊ちゃまにお仕えしてから……もう、ずいぶんになります」


マコトの震えが――ほんのわずかに和らぐ。市郎の声に反応したのだ。


「きっと坊ちゃまは……大きなお方になられるのでしょう」


一拍。


「わたくしが申し上げたかったのは――」


マコトは――顔を上げる。


運転席を――見る。


空っぽだ。


誰もいない。


ハンドルを握る手がない。シートに座る身体がない。燕尾服がない。銀の髪がない。――市郎がいない。


車が――止まっている。


いつから止まっていたのか分からない。エンジン音がない。走っていると思っていたのに――走ってなどいなかった。


なのに――声だけが聞こえる。


車の中で。座席から。天井から。窓硝子から。四方から――市郎の声が、反響のように響いてくる。


「どうか、諦めないでくださいませ」


反響が薄れていく。遠ざかっていく。市郎の声が――溶けるように消えていく。


マコトは――愕然とする。


車の扉を――開く。いや、押し開ける。身体を外へ投げ出すようにして飛び出す。


道の上に立つ。


闇。夜。木々。道。


振り返る。


車が――ない。


たった今まで座っていたはずの。市郎の声がしていたはずの。走っていると思っていたはずの――その車がない。痕跡すらない。タイヤの跡すらない。


何もない。


暗い道の真ん中に――マコトひとりが立っている。


「執事まで……やられたのか……?」


声が漏れる。震えた声。


「どうして……こんなことに……」


頭の中で思考が空転する。学校から車へ。市郎が現れた。言葉を交わした。車に乗った。走った。――そのすべてが存在していなかった?


「じゃあ、どうやってここまで来た……?」


マコトは周囲を見回す。闇の中に――おぼろに見えるものがある。道のかたち。木々の輪郭。このあたりを――知っている。山の手の高台へ上る途中の道。屋敷まで三十分。学校からなら一時間ほどの距離。


歩いてきたのだ。自分の足で。車に乗っていると思い込みながら。市郎の声を聞いていると思い込みながら。独りで、闇の中を歩いてきたのだ。


幻覚だった。幻聴だった。あるいは――それよりももっと深い、何か。


「車は何だ……残り香か……残響か……?」


残響。消えたものの、あとに残る声。


マコトの精神が――軋む。


膝が折れる。道の真ん中に崩れ落ちるように座り込む。両手がアスファルトを突く。ざらついた、冷たい路面。


だが――三秒。


マコトは――立ち上がる。


懐には、カナエの書簡がある。――逃げて。――必ず生き延びて。その文字が――マコトを立たせる。


――道なら、分かる。


このあたりの道は知っている。山の手の高台。神楽家の屋敷までの道。十六年間この土地で生きてきた身体が、覚えている。


マコトは――走る。


全速力で。包帯を巻いた左手を揺らし、裂けた詰襟の膝から風を入れ、血を吐いた喉を焼かれながら――それでも走る。


満身創痍。


周囲を見渡しても――人の気配はない。山の手の住宅街であるはずなのに、明かりの点いた家がない。人影がない。犬の吠える声もない。虫の音さえない。


この世界に――マコトしかいない。


恐怖が押し寄せる。波のように。津波のように。だがマコトは走る。恐怖を背負ったまま、走る。


上り坂。息が切れそうになる。脚が攣る。足を石に取られてよろめくが、倒れない。


そして――見える。


神楽邸。


広大な私有地を囲む塀。その向こうに見える洋館本館の屋根。和風別棟の庇。


そして――灯が消えている。


すべて。すべての建物。すべての窓。四十人の使用人がいるはずの屋敷に、明かりが一つもない。


マコトは――正門の前に立つ。


呼吸は荒い。全身に汗が流れている。血と埃と汗にまみれた顔。裂けた詰襟。解けかけた包帯。まさに満身創痍。


正門の鉄扉に――手を掛ける。


押してみる。


ぎいいい……。


扉が――開く。


その音が――闇の中に響く。鈍く、長く、金属が金属を擦る音が――夜の静寂の中で悲鳴のように鳴り渡る。


門が開く。屋敷の庭が見える。


闇。噴水は止まっている。庭木が黒い影となって立っている。砂利道の上に――誰もいない。


マコトは――門の内へ足を踏み入れる。


一歩。


背後で――門が閉まる。


ぎいいい……、どん。


マコトが――振り返る。


門が閉じている。


自分で閉めたのではない。


マコトは――前を向く。


闇の中の屋敷。


歩かなければならない。


建物まで。


この闇を横切って。

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