episode 05
episode 05
場一「教室――沈みゆく意識」
マコトは教室に辿り着いた。
校門から本館までの五十メートルが――生涯で最も長い距離に思えた。震える脚を意志で引きずり、廊下を歩き、教室の扉を開け、席に着く。窓際の最後列。いつもの場所。
鞄を机の横に掛ける。その動作ひとつで力を使い果たしたかのように、両腕から力が抜けた。
教室の中。生徒たちが三々五々に談笑している。ありふれた朝の光景。だが――妙だった。視線が、マコトに集まらない。普段なら彼が入室した瞬間、空気が変わり、囁きが広がるはずなのに――今日は違う。ちらりと見る者はいるが、大半は自分たちの会話に没頭している。別の話題があるのだろう。
だがマコトには、それを気にかける余裕がなかった。
頭痛。
額の奥で鉄球が転がっているようだった。こめかみが脈打ちに合わせて疼く。視界の端で、陽炎のようなものが揺らぐ。
――保健室に、行くか。
一瞬、思考がかすめる。だが――行かない。神楽マコトが保健室に向かうなど、この学校では前例のない事態になる。噂が立ち、質問が飛び、視線が集まる。それに耐える余力が、今はない。
――……耐えろ。
耐える。
机の上に教科書を開く。筆記具を取り出す。形だけの授業準備。手は震えているが、幸いにも――袖の内に隠せる。
鐘が鳴る。一限。
教師が教壇に立つ。授業が始まる。何の科目か、意識に届かない。教師の声が――遠くから響いてくる。水の底から。いや、それよりもさらに深い場所から。
頭痛が増す。
震えが――止まらない。微細に、絶え間なく、全身が震えている。机上のペンが、その震えに合わせてわずかに転がる。
ころ、ころ。
視界が――狭まる。
教室が暗くなる。いや、教室ではない。マコトの視界が閉じていくのだ。意志とは無関係に。瞼が重くなる。千斤の重みが、上から押し潰すように。
――駄目だ……今は……
抗う。目を開けようとする。だが身体が応じない。頭痛と震えと疲労が、三重に意識を押し潰す。
思考の奥から響く声が――子守唄のように、いや、睡眠薬のように、意識を引きずり込む。
マコトの頭が――ゆっくりと前へ傾く。
目が――閉じる。
意識が――沈む。
教室の音が遠ざかる。教師の声も、生徒の息遣いも、チョークの音も――すべてが水底へ沈むように消えていく。
闇。
場二「目覚め――赤い空」
音。
正体不明の音が――闇を裂く。
総毛立つ。背筋を何かが這い上がる。皮膚の上を無数の蟻が走るような感覚。骨の内側が振動する。心臓が不規則に打つ。
そして――気配。
説明のつかない気配が、闇の中でマコトを包む。冷たくも、熱くもない。ただ――異質だ。この世界のものではない何かの匂い、質感、重さ。
意識が――浮上する。
瞼が重い。だが、その気配が意識を押し上げる。警告するように。目覚めろ、と。
ゆっくりと、目を開く。
教室。
自分の席。窓際の最後列。机に伏していたらしい。腕に顔を埋めて眠っていたようだ。
「……あれ、どれくらい寝てたんだ」
顔を上げる。意識はまだ濁っている。だが確認するより先に――本能的に窓の外を見る。
視線が――凍りつく。
空が――赤い。
ただの赤ではない。夕焼けでも、茜でもない。血が空一面に広がったような、内臓を裏返したような――忌まわしい赤。桜の木が黒い影となり、校庭の芝は血溜まりのように染まって見える。
心臓が――一度止まり、再び打つ。
息が詰まる。
これは――現実か。まだ夢の中なのか。
――落ち着け。
目を閉じる。強引に。深く息を吸い、吐く。呼吸を整える。
三秒。五秒。十秒。
目を――開く。
空は――灰色だった。曇天。低い雲。桜の枝が風に揺れる。校庭には誰もいない。授業中だからだ。
「……普通の空だ」
手が震える。さっきの光景が幻覚なのか、それとも――別の何かなのか。
そのとき。
教室の音に気づく。
ざわめき。
異様なざわめきだった。本来なら授業中のはずなのに、教師はいない。生徒たちは立ち上がり、顔を蒼白にし、誰かに縋り、ある者は机に伏して震えている。
「どうしよう……本当に……」
「嘘でしょ……昨日まで普通だったのに……」
すすり泣き。
何かが起きている。
「ねえ……聞いた?」
三列離れたところで、二人の生徒が囁く。
「今朝の授業中に……別のクラスの子が、心臓発作で倒れて……」
「うん」
「その子……亡くなったって」
空気が――凍る。
「名前……確か――」
一拍。
「鶴目……カナエだったよね」
場三「崩壊」
音が――消える。
すべてが消える。
無音。
真空。
ゆっくりと。
マコトの手から――ペンが滑り落ちる。
ころり。
だが音は聞こえない。
鶴目カナエ。
昨日。旧館の廊下で笑っていた。
「付き合ってください」
「大丈夫ですよ、慣れてるから」
「やばい、遅刻!」
昨日。
マコトは――立ち上がる。
身体が動く。意志ではない。本能だ。
二人の生徒へ向かう。足取りは不安定だが、止まらない。
振り向く二人。
その顔を見て――凍りつく。
蒼白。紫がかった唇。見開かれた目。
限界を超えた人間の目。
「……本当なのか」
掠れた声。
頷き。
視線が揺れる。
そして――踵を返す。
教室の扉へ。
開く。
一歩踏み出した瞬間。
来る。
昨日とは比べ物にならない。
全身が総毛立つ。空間が歪む。廊下が呼吸している。
そして――絶叫。
無数の声が頭蓋の内側で炸裂する。
そして、背後に。
何かがいる。
見えない。だが確かに。
マコトは――走る。
廊下を。
全力で。
誰もいない。誰も見ていない。
その背後に、何かが追っていることも。
女子棟。
乙組。
扉の前。
中から嗚咽。
マコトは――扉を開ける。
静寂。
視線。
誰も言葉を発せない。
「……少しだけ、席を外してくれないか」
震える声。
生徒たちは、無言で教室を出ていく。
そして――
マコトひとり。
場四「空席」
歩く。
ゆっくりと。
机の間を。
残された温もり。
涙の跡。
異様な感覚が、頂点に達する。
止まる。
カナエの席。
空席。
教科書。鉛筆。整った筆跡。
手を伸ばす。
触れる。
冷たい。
だがそこに――確かに、残っている。
存在の痕跡。
涙が――落ちる。
「……いい子だった」
声にならない。
「もっと……優しくすればよかった」
涙は止まらない。
「……最低だ」
言葉が突き刺さる。
“できるうちに”
その言葉が、自分に返ってくる。
視線が落ちる。
机の下。
紙。
半分剥がれたメモ。
膝をつく。
手を伸ばす。
その瞬間。
心臓が――掴まれる。
見えない手。
警告か、誘いか。
分からない。
だが――
何かが変わる。
確信。
三センチ。
二センチ。
一センチ。
極限。
指先が――
紙に触れる。




