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WHO ARE YOU?  作者: 影の光
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episode 04

第四話 目覚めるもの、目覚めてはならなかったもの



場一 「終礼――崩れ落ちる身体」


鐘が鳴る。

一日の終わりを告げる、最後の鐘。


教室に安堵の吐息が広がる。生徒たちが席を立ち、肩を叩き合いながら挨拶を交わす。


「また明日な」

「今日の森教授の授業、死ぬかと思った」

「帰ったら何する?」


平凡な一日の、平凡な終わり。

学ランの金釦が夕陽を受けてきらめき、鞄を手にした生徒たちが一人、また一人と教室を出ていく。廊下には足音が響き、校庭にはすでに校門へ向かう生徒の群れが見えていた。


教室が、空いていく。


最後の生徒が「神楽君、先に帰るよ」と声を残して出ていく。真理は軽く頷いて、それに応えた。


教室に――真理ひとり。


夕陽が窓から斜めに差し込み、空になった机の上に長い影を落としている。光の中で塵がゆっくりと舞い、校庭から聞こえてくる生徒たちの笑い声も、少しずつ遠ざかっていく。


真理は鞄を整え始める。

教科書、ノート、筆記具。落ち着いた手つきで一つずつ仕舞っていく。鞄の留め金を閉じ、椅子から立ち上がろうとした――その瞬間だった。


全身から、冷や汗が噴き出した。


立ち上がろうとした脚から力が抜ける。膝が折れる。真理は――再び椅子へと崩れ落ちた。

鈍い音が、がらんとした教室に響く。


「……何だ、この気味の悪い感じは」


額から冷汗が流れ落ちる。こめかみを伝い、顎の線を辿って滴る。シャツの襟が濡れる。背筋を伝って流れる冷たい汗の感触が――全身の神経をざらりと逆撫でした。


正体の知れぬ感覚だった。

図書館でポスターに触れた時の幻聴とは違う。あの時は一瞬だった。だが、今は――続いている。止まらない。身体の内側からじわじわと押し潰してくるような、重く、冷たく、不快な気配。


真理は両手で机の縁を掴む。呼吸を整える。吸って、吐いて。

心拍が不規則だ。速くなったかと思えば、急に沈む。


三十秒。

一分。

二分。


やがて、少しずつ――鎮まっていく。完全には消えない。だが、動ける程度には。


「……化粧室」


吐き気がする。

真理は鞄を持って教室を出る。


廊下は――空だった。


妙だった。授業が終わってまだそれほど経っていないはずなのに、生徒の姿が一人も見えない。足音も、笑い声も聞こえない。まるでこの学校に、自分だけが取り残されたかのように。


「もう……こんな時間なのか」


時間の感覚が曖昧になっている。教室で蹲っていた時間が――自分の感じていた以上に長かったのかもしれない。


化粧室に辿り着き、扉を押し開ける。洗面台の前に立つ。

鏡の中の自分の顔が――蒼白だった。唇にまるで血の気がない。


こみ上げる。


真理は洗面台に身を屈める。胃がひっくり返るような感覚。だが、吐きはしない。昼食を摂っていない。胃の中は空だ。出てくるのは、わずかな胃液ばかり。その苦味が口内に広がる。


全身が震えていた。

腕が。脚が。背中が――意志とは無関係に。


「……身体が、おかしい」


蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。

一度。二度。三度。

水が顔を伝い、学ランの襟を濡らす。鏡の中の顔に水滴が散り、目の下の陰が濃く落ちていた。


「保健室に……行くべきか」


顔を上げ、窓の外を見る。夕陽はすでに傾いている。

もう遅い時間だ。


「……遅すぎるか。もう、このまま帰ろう」


洗面台の上に置いた鞄を手に取る。


「今日は……無理をしすぎたかもしれない」


真理は化粧室を出る。

空っぽの廊下を歩き、校門を目指す。




場二 「帰路――朦朧たる道」



学校の正門前。


夕陽が街路を橙色に染めている。校門前の道には――誰もいない。

送迎用の黒い自動車も見当たらなかった。


真理は門柱に肩を預け、そのまま待つ。


一分。

三分。

五分。


来ない。


「……どうしたんだろう」


「道でも混んでいるのか……」


ポケットから電話を取り出そうとして――手を止める。しばらく考え、それから再びポケットへ戻した。


「……気分転換も兼ねて、歩いて帰るか」


かなりの距離がある。電車を使えば三十分、徒歩なら一時間半以上。普段なら選ばぬ手段だ。だが今の真理は、身体の調子がおかしく、頭の中には霧がかかったような重さがあり、狭い車内に閉じ込められるより、外の空気を吸いながら歩いたほうが幾分ましに思えたのだ。


歩き出す前に、真理は一度だけ振り返る。


学校の建物が夕陽を背にして佇んでいる。時計塔の針が光を弾く。赤煉瓦の本館、アーチ状の校門、校庭の桜の木々――毎日見慣れているはずの風景だ。


なのに今日に限って――違和感がある。


何が違うのか、正確には言い当てられない。

ただ、この風景がいつもの風景ではない気がした。薄い硝子を一枚隔てた向こう側を見ているような、そんな感覚。


「……早く帰って休もう」


真理は身を返し、屋敷へ向かって歩き始める。


街が広がっていた。

大正の東京。夕映えに染まる商店街、路面電車のベル、行き交う人々の影。背広姿の会社員、着物姿の女、自転車を漕ぐ配達夫――世界は何事もなく回っている。


だが真理には、そのすべてが――遠い場所の出来事のように感じられた。


足取りが重い。

一歩踏み出すごとに膝の力が抜ける。視界の端は暗く、中心だけがかろうじて見える。周囲は滲んでいた。音も遠い。電車のベルも、子供たちの笑い声も、街の喧騒も――まるで水の中から聞いているように、鈍く響く。


意識が――朦朧としていく。


真理は歩く。止まらない。

止まれば、このまま倒れてしまうような気がした。本能が脚を動かしている。

一歩、また一歩。商店街を抜け、住宅地へ入り、木々が増え、道が細くなり、人家が少なくなっていく。やがて山の手の高台へ向かう坂が始まる。


どれほど歩いたのか分からない。

三十分か、一時間か、二時間か。時間の感覚は融けていた。

ただ、足だけが覚えている。いつも帰っている道。身体に染みついた帰路。意識が曖昧でも、足は家へ向かう。


神楽家の正門が見える。


真理は――ほとんど半ば無意識のまま、その門をくぐり、玄関へと辿り着いた。




場三 「屋敷――ずれた時間」



玄関の扉が開く。


二人のメイドが――驚いたように駆け寄ってくる。


「坊っちゃま、お帰りなさいませ!」


真理はぼんやりとした目で彼女たちを見る。焦点が合わない。

ゆっくりと頷く。


そのうち一人が、真理の顔を見て表情を強張らせた。

この少年の顔色は――明らかに尋常ではない。汗で湿った学ラン、力の抜けた肩、濁った眼。だが、その驚きをひとまず別の形で口にした。


「あら……歩いてお戻りになったのですか?」


真理は首を傾げる。


「執事は……来なかった」


メイドたちが互いに顔を見合わせる。

怪訝そうな表情。


「まさか……そんなはずは。執事さまはいつもより早くお出になって、つい先ほどまで学校前でずっとお待ちしていたと連絡がございましたよ」


真理の眉間がわずかに寄る。

執事は学校前で待っていた。自分も学校前で待っていた。同じ時刻、同じ場所にいながら――互いに姿を見ていない。


だが――今の真理に、それを深く考えるだけの余力はない。


「行き違いになったんだろう」


さほど気にした様子もなく言う。

だが、もう一度だけ首を傾げる。妙だとは思う。


「少し……体調が悪い」


声は低く、いつもの冴えがない。明らかに疲弊していた。


「夕食はいらない。すぐに休みたい」


メイドたちが戸惑う。

この坊っちゃまが食事を抜くことなど、滅多にない。だが、今の真理の様子を見れば、無理に食事を勧められる空気ではなかった。


「かしこまりました……坊っちゃま。お医者さまをお呼びしましょうか?」


「必要ない」


真理は身を返す。

玄関から別館へ続く廊下へ向かう。


足取りが――ふらつく。

片側に傾き、壁に手をついてどうにか立て直す。メイドたちが駆け寄ろうとするが、真理は小さく首を振る。ひとりで行ける、という合図だった。


長い廊下。

別館へ続く回廊。庭に面した硝子窓の向こうでは、夜の庭がすでに暗く沈み、月光が池の上に落ちていた。


真理は――自室へ辿り着く。


障子を開け、部屋へ入った瞬間――倒れ込むようにベッドへ身を投げ出した。


学ランも脱がない。

靴も脱がない。

鞄も床に放り出されたままだ。

布団をかけることすらしない。

ただ、そのまま――潰れるようにベッドへ伏す。


「頭が……割れそうだ」


手を伸ばし、枕元の電灯を消す。


闇が降りる。


そして――意識が途切れた。




場四 「夜――目覚めるもの」



闇。


真理の身体から――冷汗が流れ続けていた。止まらない。布団も、シーツも、学ランも――濡れていく。まるで身体の中の水分が、すべて抜け出していこうとしているかのように。


震えている。


眠ったまま――全身が震えていた。粟立った鳥肌が肌の上を這い上がる。腕に、脚に、背に、首に――ぞわりと波打つ。歯がかちかちと鳴る。意識のない身体が、意識もなく震えている。


「からだが……おかしい……」


寝言なのか、呻きなのかも分からぬ声が、闇の中に漏れる。


「……死にそうだ……」


そして――音が、始まる。


最初は遠くから。

針の先ほどの微かな音。

それが次第に近づいてくる。大きくなる。ひとつの音ではない。幾十、幾百、幾千もの音が重なり合いながら押し寄せてくる。


悲鳴。


男の悲鳴。

女の悲鳴。

子供の悲鳴。

老人の悲鳴。


言葉ではない。

声というより、純粋な恐怖、純粋な苦痛、純粋な絶望が、音の形をとって真理の頭の中を埋め尽くしていく。


その狭間に――言葉が混じる。


意味の分からぬ言葉。

日本語ではない。英語でも、ドイツ語でも、フランス語でもない。エジプトの神聖文字を読み解ける真理ですら、それが何語なのか判別できない。言語の形をしていながら、どの言語にも属していないもの。あるいは、あらゆる言語より以前に存在した何か。


図書館でポスターに触れた時の幻聴とは、次元が違った。


あの時は刹那だった。

今は――終わらない。

波のように押し寄せては引き、また押し寄せる。押し寄せるたびに、より大きく、より多く、より深く。真理の意識は眠っているはずなのに、そのもっとも深いところが――無理やりこじ開けられていく。誰かが内側から、閉ざされていた扉を壊している。


幼い頃――十歳の時、社で感じたあの感覚。

全身の血がひとつの方向へ流れていくようだった、あの感覚。

自分のものではない記憶の破片。


あれは――ノックだった。

小さく、ためらいがちなノック。


だが今は違う。

ノックなどではない。

壁そのものを打ち崩している。


真理の呼吸が荒くなる。

胸が大きく上下する。空気が足りない。肺がまともに膨らまない。

呼吸困難。眠ったまま口が開き、喉の奥から掠れた息が漏れる。


悲鳴は止まらない。

意味不明の言葉も止まらない。

そしてその合間に――何かが見える。


目を閉じているのに、見える。


火。

闇。

崩れ落ちるもの。

流れるもの。

赤いもの。

黒いもの。


形を持たない像が、万華鏡のように回転しながら、真理の意識を突き抜けていく。


それは続いた。

一分。

五分。

十分。

時間の感覚は失われている。永遠のように思えた。


そして――


真理が叫ぶ。


「――――ッ!!」


目が開く。


闇。


部屋。

自分の部屋。

別館の部屋。

障子の向こうから、月明かりがかすかに滲んでいる。


真理は――立っていた。


ベッドの上ではない。

部屋の真ん中に立っている。いつ起き上がったのか分からない。眠ったまま、歩いてここまで来ていたのだ。


呼吸が荒い。

心臓が肋骨を激しく叩く。

全身が汗に濡れている。学ランが肌に張りついていた。


そして――左手に、感触。


真理は左手を持ち上げる。月光の中へかざす。


血。


掌に血がついていた。よく見れば――掌の中央が切れている。深くはない。だが血は流れ、指のあいだから手首へと伝っていた。


真理は視線を足元へ落とす。


砕けた硝子。


枕元に置いてあった水差しのグラスが床に落ち、粉々になっている。破片が月明かりを弾いて、床の上で細かく光っていた。眠ったまま起き上がり、卓をぶつけ、グラスを落とし、割れた硝子を踏むか、あるいは掴んだのだ。


「俺が……寝ている間に?」


真理は震える手で、硝子片を拾い始める。

ひとつ、またひとつ。月光の中で、破片がかすかに光る。血に濡れた指先でそれを摘むたび、微かな痛みが走る。だが真理は気にも留めない。今この痛みは――内側から聞こえてくるものに比べれば、何でもなかった。


破片をある程度片づけ、立ち上がる。


その時――向かいの壁の鏡に視線が触れる。


真理は、止まる。


鏡の中の自分。

皺だらけの学ラン。乱れた髪。血の気を失った顔――そして。


泣いていた。


両の目から。

音もなく。

自分でも知らぬうちに。


頬を伝い、顎先から落ちていく涙。いつから流れていたのか分からない。夢の中からなのか、目覚めてからなのか。


真理の手が、自分の頬に触れる。

濡れている。

温かい。

自分の涙だ。


けれど――なぜ流れているのかを、真理自身が分からなかった。


悲しいわけではない。苦しくはある。だが、それは悲しみではない。

この涙は――自分のものではない気がした。

まるで誰かが、自分の眼を借りて泣いているかのように。


真理は鏡から目を逸らし、洗面所へ向かう。




場五 「暁――自分で巻く包帯」



洗面所。


真理は蛇口をひねり、血のついた手を洗う。水が赤く染まり、やがて透明に戻る。傷がひりつく。


学ランを脱ぐ。

シャツを脱ぐ。

すべてが汗で湿りきっていた。


冷たい水で身体を洗う。

流れ落ちる水が肌を打つうちに、ようやく――震えが少しずつ鎮まっていく。


洗い終えると、寝間着に着替える。

それから――救急箱を取り出す。


真理は自分で傷を消毒する。アルコールを含ませた綿が傷口に触れた時、眉が僅かに寄る。それでも声は漏らさない。ガーゼを当て、包帯を巻いていく。


右手だけで左手に包帯を巻くのは簡単ではない。

歯で包帯の端を咥え、右手で何とか巻きつける。

拙くはある。だが、どうにか形にはなった。


メイドを呼べば、すぐに済むことだ。

だが――この時間に彼女たちを起こすという選択肢は、真理にはない。遅い時間に起こしてしまうのが、ただ申し訳なかった。


「……これくらい、自分でできる」


包帯を巻いた左手を見つめる。

白い布が、月明かりを受けてぼんやりと浮かんでいた。


部屋へ戻る。

敷き直した布団に入り、そのままベッドへ身を横たえる。


震えは――まだ残っている。弱くはなったが、消えてはいない。波が穏やかになっただけで、海そのものが消えたわけではない。


「……っ」


苦痛に、小さく呻く。

頭が痛む。内側から何かが叩いている。先ほどより弱くなったとはいえ――まだそこにいる。


目を閉じる。

眠気は来ない。

痛みが意識を掴み続けていた。


真理は――考える。


幼い頃のことを。

十歳。

初めて社を訪れた日のことを。


拝殿の前に立った時、足元からせり上がってきた振動。いや、振動ではなかった。

響きだ。

身体のすべてが共鳴しているような感覚。


そして、その瞬間――何かを見た。

何を見たのかは、もう思い出せない。記憶の表面に手を伸ばしても、水のように崩れて逃げていく。掴めない。


ただ――あの日以後、真理の世界が変わったことだけは分かっている。

世界の見え方が。

人の見え方が。

歴史の読め方が。

何かが開いた。

そして、一度開いたものは、もう二度と閉じなかった。


あの時のことを……


真理は記憶を辿る。

社。

洞窟。

光の筋。

鳥居。

そして――拝殿の奥で感じたもの。


辿る。

辿る。

辿ろうとして――


その瞬間。


音が聞こえる。


今までのものとは――まるで違う音。


悲鳴ではない。

不快でもない。

苦痛でもない。


澄んでいる。


鐘の音のようでもあり、水の音のようでもあり、風の音のようでもある。

どの音にも属していないのに、あらゆる音の根にあるかのような――一筋の音。


それが真理の頭の奥を、まっすぐに貫いた。


その瞬間――震えが止まる。


手が。

腕が。

脚が。

全身が――静まる。


頭痛が波のように引いていく。

額から後頭へ。

後頭から首筋へ。

首筋から背へ。

潮が退いていくように、痛みが遠ざかっていく。


真理は目を開ける。


天井が見える。

障子の格子模様が、月光によって天井へ淡く映っていた。


震えていない。

痛くない。

身体が――静かだった。


今の……あれは……


真理はもう一度、その音を探ろうとする。

意識を集中させる。

社を思い描く。

拝殿を。

光を。

鳥居を。


――何も聞こえない。


消えていた。

ほんの刹那、一筋の音が通り過ぎただけ。

掴もうとすれば、指のあいだから零れ落ちる。


真理は――今は、それを諦める。


身体の緊張が解けた瞬間、疲労が津波のように押し寄せてくる。意識がゆっくりと沈みはじめる。


真理は、眠りに落ちる。


今度は――悲鳴も、幻聴も、苦痛もなく。


静かな眠り。




場六 「朝――ずれの始まり」



鳥の声。


障子の向こうから、淡い曙の光が差し込む。雀の囀りが細く聞こえている。


真理の目が――開く。


天井。

障子の格子。

朝。


そして――感覚。


目を開いた瞬間、頭をひとつ殴られたような違和感が走る。

物理的な衝撃ではない。

感覚の、微細なずれ。


まるで――眠る前の世界と、今、目を開けたあとの世界とが、ほんの少しだけ違ってしまっているような。


何が違うのかは分からない。

部屋は同じだ。

天井も同じだ。

光の角度も、雀の声も、すべて同じ。


なのに――同じではない。


「……何だ、今の」


真理は上体を起こし、周囲を見回す。


「気のせいか……」


左手の包帯が目に入る。

昨夜の出来事は、気のせいではなかった。

砕けたグラス。血。涙。悲鳴。震え。

そして最後に聞こえた、あの澄んだ一筋の音。


真理は立ち上がる。

違和感は――消えない。

背景音のように、皮膚の下で静かに鳴り続けている。慣れられる類のものではない。ぞくりと、肌が粟立つ。


顔を洗う。

制服に着替える。

学ランの釦を留め、靴を履く。

包帯を巻いた左手は――袖の中に隠せば目立たない。


別館から本館へ続く回廊を歩き、食堂へ入る。


執事が迎える。


一郎。

神楽家の筆頭執事。

五十代後半。銀の混じる髪をきちんと撫でつけ、寸分の隙もない燕尾服を身につけている。この家に三十年仕えてきた人物だ。真理が生まれるより前から、この屋敷にいた。真理にとって彼は、執事である以前に――もっとも身近な大人だった。


「坊っちゃま、昨晩はお加減いかがでしたか」


一郎の声には、はっきりと気遣いが滲んでいた。

昨夜、メイドたちから報告を受けたのだろう。坊っちゃまが歩いて帰宅したこと、夕食も摂らずにそのまま休まれたことを。


「それから昨日の学校の件ですが……私はたしかに時間通りに着いておりました。ですが、坊っちゃまのお姿が見えず、たいへん驚きました」


真理はトーストを手に取りながら、淡々と答える。


「行き違いになったみたいです」


それだけ。

それ以上は問わなくていい、という響きだった。

一郎は三十年の経験で、その響きを読む。追及はしない。ただ――真理の左手の袖口が、いつもより少し深く下ろされていることを、その眼は見逃さなかった。

だが今は、問わない。


朝食を終える。

真理は鞄を手に、玄関へ向かう。


一郎が玄関で車の扉を開ける。

黒塗りの車体に、朝の光が反射していた。


真理が乗り込む。

一郎は運転席へ。


車が走り出す。


神楽家の庭園を抜け、正門を出て、山の手の森道を下っていく。


車内は静かだ。

一郎は必要なこと以外は話さない。

真理は窓の外を見ている。森が流れ、住宅地が現れ、道幅が広がり、人通りが増えていく。


学校が見える。


一郎は車を校門前に寄せ、降りて後部の扉を開ける。


真理が降り立つ。

鞄を手に。


一郎は丁重に頭を下げる。


「いってらっしゃいませ、坊っちゃま」


真理は一郎を振り返り、微笑みとまではいかぬまでも、柔らかな顔で言う。


「また後で」


そうして校門へ向かって歩き出す。


一郎は――車の脇に立ったまま、真理の後ろ姿を見送る。校門を抜け、校庭を横切り、本館へ入っていく――その小さな背が見えなくなるまで。


そして、一郎の眼がほんのわずかに細められた。

三十年、この家を見守ってきた老僕の直感が、何かを感じ取っていたのだ。


一郎は車へ戻る。

発進する前に――一度だけ、バックミラー越しに学校の建物を見つめた。


場七 「校門の内側――次元の違う震え」


真理が校門をくぐる。


校庭へ足を踏み入れた、その瞬間――


来る。


身体が――震え始めた。


昨夜のそれとは、まるで次元が違う。


昨夜の震えがただの振動だったとすれば、今のこれは地震だった。

骨が鳴る。関節が鳴る。歯が触れ合う。膝が折れそうになる。視界がぶれる。耳の奥では――再び、音が押し寄せ始める。悲鳴ではない。悲鳴よりなお深いところから湧き上がる、形を持たぬ響き。


真理の足が止まる。


校庭の真ん中。

桜が散っている。

登校してくる生徒たちが左右をすり抜けていく。

誰ひとり、真理の異変には気づかない。彼らに見えているのは――いつも通り、校門を通って歩いている神楽真理の姿だけだ。


だが、その内側では――嵐が吹き荒れていた。


これは……


手が震える。

鞄を握る右手から力が抜け、取っ手が滑り落ちそうになる。左手で掴み直す。包帯を巻いた左手が痛む。その痛みだけが――唯一の錨だった。意識を現実へ繋ぎ止める、ただひとつの。


昨夜の比じゃない。


ひらりと落ちてきた花びらが、真理の肩に触れる。

生徒たちの笑い声が聞こえる。

平凡な朝だ。


なのに真理には、そのすべてが――薄い紙の上に描かれた絵のように感じられた。

指で押せば破れてしまいそうな、そんな頼りなさ。

この世界の表面が――薄い。

その下に、何かがある。

何かが、上がってきている。


真理は歯を食いしばる。


歩く。

一歩。震える脚を、意志で前へ出す。

もう一歩。校庭を横切る。

本館の入口まで、五十メートル。

四十。

三十。


歩くたびに――震えが強まる。


二十メートル。


視界の端が暗くなる。

世界が狭まっていく。


十メートル。


本館入口のアーチが見える。

そのアーチの向こうに――何かが見えた。


見えてはならないものが。


アーチの影の中で、輪郭を持たぬ何かが――揺らめいていた。


真理の眼が大きく見開かれる。


そして――それは消えた。


真理はアーチをくぐり、本館の中へ入る。


廊下のざわめきが、彼を包む。

生徒たちの声。

足音。

笑い声。

現実の音だ。


震えは――少しだけ鎮まる。

ほんの少し。消えたわけではない。


真理は歩く。

教室へ向かって。

左手の包帯を袖の中に隠し、震えを意志で押さえ込み、表情を消したままで。


誰も知らない。


神楽真理の内側で、何が起き始めているのか。


誰ひとりとして。

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