episode 03
第三話
場一 「教室――戻ってきた席、戻らない心」
真理が教室の扉を開ける。
昼休みのざわめきは、まだ室内に残っていた。弁当箱を片づける生徒。友人と笑いながら言葉を交わす生徒。窓辺に立ち、校庭を見下ろしている生徒。
真理が一歩、教室の中へ入った瞬間――視線が集まる。いつもと同じように。
けれど今回は、誰一人として口を開かなかった。
朝の数学の授業以後。昼休みにふいと姿を消して以後。
生徒たちは神楽真理という存在を、以前にも増して遠いものとして感じていた。触れてはならぬものに対して人が本能的に抱く沈黙。目は追う。だが、唇は閉ざされたままだ。
真理は何事もなかったかのように、自分の席へ戻る。
窓際、いちばん後ろの席。鞄を机の脇に掛け、静かに腰を下ろす。
それだけだった。
やがて鐘が鳴る。
五時限目。歴史。
教壇に立つ老教授が教科書を開き、明治維新以後の日本の近代化について語り始める。富国強兵。文明開化。西洋に学び、そして西洋を超えるべきだという使命。
この時代のあらゆる学校が教える、輝かしい歴史の叙事詩。
真理は――聞いていなかった。
授業があまりにも易しすぎる。
いや、「易しい」という言葉ですら正確ではない。教授が語る歴史の表面の下に、何が沈んでいるのかを、真理はすでに知っている。教科書が省いていること。教授の知らぬこと。この時代そのものが見ようとしないこと。
そうしたものが、真理の頭の中で幾重にも、影のように重なっていく。
視線がほどける。
焦点が教壇から外れ、虚空へ流れ、やがて窓の外へと抜けていく。
窓の向こう。
校庭の桜。時計塔。そのさらに向こうに広がる空。
真理の表情が――変わる。
それは無表情ではない。無関心でもない。
今、その顔にあるのは、ひどく切迫した真剣さだった。眉間には浅い皺が刻まれ、唇は細く引き結ばれ、瞳がごくわずかに震えている。何かを追っている眼。巨大なパズルの最後の一片を探していながら、その欠片だけがどこにも見つからない者の眼だった。
唇が、音もなく動く。
……知られている歴史だけを見るなら。
窓の外で桜が風に散る。花びらが硝子に触れ、ゆっくりと滑り落ちていく。
……どう考えても、おかしい。
真理の視線は遠くへ向かっていた。
この教室の壁を越え、この学校の塀を越え、この街を越え、この国をも越えた彼方へ。歴史という巨大な流れの中に、どこか――継ぎ目の合わない場所がある。
何かが……ずれている。
脳裏をよぎるもの。
図書館で目にした象形文字の断片。
家の社で感じた、説明のつかぬ感覚。
そして――あのポスターに触れた瞬間、頭蓋の奥を貫いた無数の悲鳴。
……その根拠は。
根拠。
証拠。
論理立てた説明。
何ひとつ、ない。
真理は誰にも説明できない。
自分が「見る」もの、自分が「感じる」もの、自分が「知ってしまっている」ものについて――客観的に示せる根拠は、ただのひとつもない。この時代の誰ひとりとして、それを理解はしないだろう。
結局……ただの勘だとしか言えない。
その時。
真理の視線が、ふいに自分の手へ落ちる。
机の上に置かれた右手。細く長い指。その指先が――震えていた。
かすかに。
けれど、はっきりと。
真理はその震える右手を、左手で押さえる。
それでも震えは止まらない。
寒さではない。
緊張でもない。
何かが、内側で鳴っている。
共鳴。
自分の意志とは無関係に、身体の中の何かが、外側の何かに反応しているのだ。
幼い頃に感じた……あの妙な感覚。
十歳の時だった。家の社へ初めて足を踏み入れた日。拝殿の前に立った瞬間、全身の血がひとつの方向へ流れ込むような感覚に襲われた。自分のものではない記憶の断片のようなものが、一瞬、脳裏を掠めた。
あの感覚は、それきり何年も訪れなかった。
最近……また、感じるようになってきた。
右手を押さえている左手にまで、その震えが移る。
両手が震えている。
ひょっとすると……今回は、それ以上かもしれない。
真理は震える両手を机の下へ下ろし、膝の上で強く押さえつけた。
表面から見れば、何も起きてはいない。ただ授業中に窓の外をぼんやりと眺めている生徒が一人いるだけだ。
だが、その表面の下で――神楽真理という存在の最も深いところで、何かが目を覚ましつつあった。
ゆっくりと。
だが確実に。
鐘が鳴る。
五時限目が終わった。
場二 「休み時間――取り戻したい言葉」
休み時間。
教室は再びざわめきに満たされる。生徒たちは席を立ち、互いに集まり、廊下へ出て、笑い、話す。
真理は席に座ったままだった。
手の震えは止まっている。呼吸もすでに落ち着いている。
けれど彼の意識は、この教室の中にはなかった。
図書館での光景が、何度も脳裏に甦る。
奏の顔。
好奇心に光る眼。
悪戯めいた微笑。
そして――自分が置き去りにしてきた言葉。
哀れな子だ。
真理の眉が、ごくわずかに動く。
彼女は自分に親切だった。
規則を破ってまで図書館へ入れてくれた。
自分の奇妙な興味を嗤わなかった。
誰も近寄れぬ自分に、ごく自然に近づいてきた。
あの距離のなさは――不快ではなかった。
そんな相手に向かって。
哀れな子だ。
真理は短く目を閉じる。
それは偽りではなかった。
真実だった。
だが、真実であることが、相手を傷つけてよい理由にはならない。
本物の刃であればこそ、なおさら無闇に振るってよいものではないように。
……冷たすぎた。
真理は立ち上がる。
鞄は席に残したまま、教室を出る。
奏の所属は女子部二年乙組。
男子部と女子部は別棟だが、休み時間には本館をつなぐ中央回廊を通って行き来できる。
真理は歩く。
だが――いつもの歩き方ではなかった。
廊下の中央ではなく、壁際。
生徒たちの群れている場所を避け、人の少ない道を選ぶ。
目立ちたくなかった。神楽真理が女子部の棟へ向かった――そんなことが知れれば、明日の朝には学校中がその噂で持ちきりになるだろう。
中央回廊を抜け、女子部の校舎へ入る。
そこでは空気さえ、どこか微かに違っていた。花の香りにも似たものが、ほのかに漂っている。
乙組の教室の前に着く。
真理は戸口の脇に立ち、そっと中を覗き込んだ。
袴姿の女生徒たちが幾つもの輪を作って談笑している。笑い声が波のように漂う。
真理の眼が、教室の中をひととおりなぞる。
――いない。
奏の席。窓側から二列目、三番目。
そこは空いていた。
真理は視線を引き、踵を返そうとする。
その時。
とん。とん。
背中に二度、軽い衝撃が触れた。
誰かの指先が、自分の肩をやさしく叩いたのだ。
真理の肩が強張る。反射的に振り向く。
奏が立っていた。
両腕に本を数冊抱え、首を少し傾げ、目を丸くして。
「まあ。真理くん、どうしてこんなところに?」
作り物のない、純粋な驚きだった。
本当に驚いているのだ。神楽真理が自分の教室の前に立っているなど、この学校の歴史に照らしても前例のない出来事なのだから。
真理は――すぐには言葉が出なかった。
口を開いて、閉じる。
もう一度、開いて、閉じる。
何万行もの象形文字を読める少年。
大学院級の数学を解き、世界の流れさえ見抜く眼を持つ少年。
そのくせ今この瞬間、たった一言を口にすることが、この世で最も難しい。
「……あの」
ようやく。
「少し……時間、あるか」
奏の眼が、わずかに大きくなる。
驚きが――好奇心へと変わる。
図書館で「哀れな子だ」と言い残して去った少年が、一時間も経たぬうちに自分を訪ねてきた。それも、わざわざ女子部の校舎まで。
奏は静かに頷いた。
場三 「人気のない場所――謝罪」
二人は歩く。
真理が先に立ち、奏が半歩後ろをついていく。
人の多い中央回廊を避け、本館裏手へ――今は使われていない音楽室のある旧館のほうへ向かった。この時間、この場所へ来る者はいない。
歩いている間じゅう、奏の好奇心はますます膨らんでいった。
真理の背中が、いつもと違って見えるのだ。
普段の彼のような超然とした歩き方ではない。どこか――急いている。
いや、急いているというより、不安げだった。
神楽真理が不安を見せる姿を、奏は初めて見た。
旧館の廊下へ辿り着く。
閉ざされた教室。
埃の匂い。
窓の向こうには校庭の桜が見えるのに、ここまでは生徒たちの笑い声が届いてこない。
静かだった。
真理が足を止める。
振り返る。
奏と向き合う。
そして――頭を下げた。
深く。
腰が折れるほど深く。
神楽家の一人息子。
この学校随一の天才。
誰に対しても頭を下げようとしなかったあの少年が――深く、深く頭を垂れる。
「すまない」
奏の眼が見開かれる。
「今までの言い方や態度が……あまりに冷たすぎたんじゃないかと思って」
頭を下げたまま。
声は低い。
だが、震えてはいない。
そこには、紛れもない誠意の重みがあった。
奏はしばらく動かなかった。
二秒。
三秒。
その表情が、静かに変わっていく。
最初に浮かんだのは――失望だった。
ほんの一瞬。
だが、たしかに。
彼女が期待していたのは、これではなかった。
女子部の棟まで訪ねてきて、自分を人気のない場所へ連れ出して、あれほど真剣な顔をして――謝罪?
彼女の胸の内を、別の可能性が掠めたことは間違いない。
そして、それが謝罪だったと知った瞬間、ほんのわずかな落胆が走る。
だが――それはまばたきほどの時間で消え去った。
奏が、ぱっと笑う。
口元を隠しもせず、顔全体で笑った。目は弓なりに細まり、肩が小さく揺れる。
「もう……何事かと思ったではありませんか」
笑い声が旧館の廊下に響く。
「ふふ……変に期待してしまいました」
真理が顔を上げる。
彼女の笑いを見つめる。
奏は涙が浮かぶほど笑ってから、ようやく息を整えて言った。
「大丈夫です。気にしていません」
ひと拍おいて。
「むしろ、こういうのには慣れておりますから。かえって親しみが湧くくらいです。ふふ」
彼女は目元を指先でそっと拭いながら、それでも笑みを絶やさずに首を傾げる。
「でも、どうして急に謝ろうなどと思われたのです?」
真理は視線をわずかに逸らす。
どう説明すればいいのか、迷う。
得体の知れぬ不安があるから、とでも?
何かを失う前に、残しておきたかったから、とでも?
どんな言葉もしっくりこない。
いや、正確な説明はある。だが――それを口にしたところで、この少女には理解できないだろう。
「……何となく、そう思ったんだ」
小さく。
「勘みたいなものだ」
奏の笑みは消えない。
だが、その目だけが真剣になる。
勘。
図書館でも聞いた言葉だった。
この少年は、自分で説明のつかないことを「勘」と呼ぶ。
そして、その「勘」はいつだって軽くない。
「勘、ですか」
真理が彼女を見る。
真剣に。
今までの視線とは違う。
教室で見せる無関心な眼でもない。
図書館での超然とした眼でもない。
一人の人間として、相手をまっすぐ見ている眼だった。
「俺はね」
声は低い。
だが、はっきりしている。
「謝ることも……できるうちにしておくべきだと思う」
奏の笑みが――変わる。
凍りつく、というほどではない。
微笑みの形は保ったまま、そこに宿る温度だけが変わる。
彼女は何かを感じ取ったのだ。
この言葉の下に沈んでいる、目には見えぬ重みを。
「やはり……また分からないことを仰いますね」
微笑みを保ったまま。
だが、その声にはごく小さな震えが混じる。
「ふふ……謝罪なんて、いつだってできるものでしょう?」
真理は答えない。
視線を落とす。
その沈黙そのものが、どんな答えよりも重かった。
「……やっぱり」
奏が静かに言う。
「真理くんは……本当に不思議な方ですね」
ひと拍。
「面白いです」
彼女の笑みが戻る。
今度は――別の笑み。
何かを決めた者の笑みだ。
「“できるうちに”、ですか……」
奏はしばし考え込む。視線は窓の外へ向かう。旧館の硝子の向こうで、桜が風に散っていた。
その光景を見ながら、彼女は自分の中で何かを整えているようだった。
そして――微笑みが深まる。
「では……私も、お話ししたいことがあります」
真理が顔を上げる。
視線が重なる。
奏の眼には悪戯っぽさがあった。
だが、その悪戯の下に、真心が透けて見える。浅い水の底にある石のように――はっきりと。
「ただし、条件があります」
「条件?」
真理の目がわずかに細められる。
好奇心。
「私がどんなことを言っても……必ず断ってください」
真理は言葉を失う。
妙な条件だった。
条件というよりは――免罪符に近い。
言う側の免罪符であり、聞く側の免罪符でもある。
真理はふっと微笑んだ。
この少年が本心から笑うことは、きわめて稀だった。
「……分かった」
奏は一歩、後ろへ下がる。
距離を作る。
向き合うための距離。
十分に近く、十分に遠い――そんな距離だった。
そして――にこりと笑う。
午後の光が、旧館のひび割れた窓から差し込み、彼女の顔の半分を照らす。風に運ばれた桜の花びらが、割れた硝子の隙間からひとひら入り込み、二人のあいだの床へ舞い落ちた。
「私と、お付き合いしてください」
神楽真理の世界が――止まる。
音が消える。
風の音も。遠い校庭の笑い声も。自分の心臓の鼓動さえも。
すべてが消え、白い静寂だけが残った。
真理は――何も言えなかった。
この少年は解析学の難問を解ける。
古代の象形文字を読める。
世界の流れを直感で見抜ける。
そのくせ今この瞬間、ひとりの少女の五つの言葉の前で――完全に無力だった。
顔が赤くなることすらない。
その前段階を飛び越えて、血の気がすっと引いていく。
衝撃が大きすぎたのだ。
一秒。
二秒。
三秒。
四秒――
奏は、まだ笑っている。
変わらぬ、やわらかな笑み。
まるでこの瞬間を、この沈黙を、この少年の無防備な表情を、そのまま大切にしまっておくつもりでいるかのように。
真理の頭の中で思考が回る。
やっぱり……彼女は本当にいい子だ。
奏の笑み。
図書館での悪戯。
規則を破ってまで自分を中へ入れてくれたこと。
誰も近づこうとしない場所へ、何でもないように近づいてきたこと。
ほかの連中みたいに……あの嫌な匂いがしない。面白い子だ。
この学校の生徒の大半は、家名を鎧のようにまとい、権力の匂いをまとって、笑いながら互いを値踏みしている。
その中で奏だけが――違う。
心から笑い、心から問い、心から近づいてくる。
だけど。
真理の眼が、わずかに翳る。
俺が彼女に近づけば……きっと、すべてが壊れる気がする。
根拠はない。
論理もない。
ただ――知っている。
骨の髄まで知っている。
自分のような存在のそばにいることが、誰かに何をもたらすのか。
真理は息を整える。
奏の言葉を思い出す。
断るのが条件、か。
そして、自分がさっき口にした言葉を思い出す。
“できるうちに”。
真理は口を開いた。
「すまないが……」
声は落ち着いていた。
震えはない。
だが、その落ち着きの奥には、細い傷のような痛みがあった。
「それは……無理だ」
奏は――顔を曇らせなかった。
それどころか。
笑い出した。
「あはははは!」
その笑い声は旧館の廊下に響き、壁に当たり、天井へ反って、また戻ってくる。奏は腹を抱えるようにして笑った。目には涙まで浮かんでいる。心から。体ごと。何の衒いもなく。
真理は少し安堵した。
彼女は笑っている。
壊れてはいない。
いや――傷ついていないわけではないのかもしれない。
けれど、この少女は傷さえも笑いへと変えてしまえる人間なのだ。
そのことが、真理には救いだった。
同時に、こんな相手を拒まなければならない自分というものが、少しだけ疎ましくもあった。
奏はようやく笑いをおさめ、目尻を拭う。
その顔には、どこか解き放たれたような明るさがあった。
言いたかったことを言い終えた者だけが持つ、軽やかな解放感。
場四 「告白のあと――本当の会話」
「どうして私がこんなことを言ったか、お分かりになりますか?」
奏はなおも笑みを残したまま、そう尋ねた。
だが、その眼は真剣だった。
真理は首を横に振る。
奏は壁に背を預ける。窓の外から射す光が彼女の輪郭を縁取り、長く流れる髪が風にかすかに揺れた。
「私が、あなたに好意を抱いているのは本当です」
あっさりと。
隠しもせずに。
「だって……最高の女になろうとするなら、当然、最高の男が必要でしょう?」
真理は動かずにそれを聞いている。
「でも私は……最高の女にはなれません」
ひと拍。
「臆病者ですから」
その言葉に、真理の目が微かに揺れた。
臆病者。
この少女は自分自身をそう定義している。
「ですから、最高の男は私には過ぎた存在なんです」
奏の笑みは変わらない。
これは自嘲ではない。
自己分析だった。冷静で、率直な。
「正直に言えば……図書館であなたと話した時」
彼女の眼が遠くを見る。何かを思い出している目だった。
「驚いたというより……むしろ、ぞっとしたんです」
ひと拍。
「怖くもありました」
真理がわずかに身じろぐ。
怖い。
彼女は自分を見て、そう感じたのだ。
それは決して的外れな感覚ではない。
真理自身、ときおり自分が怖くなることがある。
「きっと……真理くんは、とんでもない人になります」
奏の眼が、まっすぐ彼を捉える。
「だから私は、こう思うんです」
「最高の男には……最高の女が必要だって」
ひと拍。
「だから私は、最高の女ではない。だから、その相手にはなれません」
そう言って、彼女は一歩、真理のほうへ近づいた。
今度は、真理は下がらない。
奏の顔が近づく。
その瞳の中に、真理自身の顔が映っている。
そして――悪戯っぽく微笑んで、
「ただし」
「私より劣る方と結ばれるようなことがあったら……許しませんよ?」
くすり、と笑う。
真理は少し驚いた。
この少女は、自分を謙遜しながら、同時に自分の価値を正確に知っている。
最高ではないと言いながら、それでも自分より下を許さない。
それは虚栄ではなく、自尊だった。
真理は少しの沈黙ののち、微笑む。
この日、二度目の、本物の微笑みだった。
「そこまで正直に話してくれて、ありがとう」
ひと拍おいて。
「やはり……あなたはいい人だ」
そして真理もまた、正直になる。
彼女の率直さが、彼の中からも率直さを引き出したのだ。
「俺は……恋愛も、結婚も、考えていない」
奏は、また笑った。
今度はもっと軽やかに。
「へえ? その言葉、いったいいつまで保てるでしょうね?」
眼がきらりと光る。悪戯心がいっせいに顔を出す。
「賭けをしません?」
「賭け?」
「もし私が勝ったら……今アメリカで流行っているっていう、あのハンバーガーを作ってください」
真理は一瞬、言葉を失う。
「……ハンバーガー?」
奏は時折こういうことをする。
とても深く、重い話の真ん中で、突然まったく別の方角へ飛ぶ。
けれど、その軽やかな飛躍が、張り詰めた空気を一瞬で壊してくれるのだった。
二人は――笑う。
同じ時に。
同じ場所で。
同じように。
場五 「戻り道――それぞれの独り言」
休み時間は終わりに近づいていた。
先に動いたのは真理だった。
身を翻し、旧館の廊下を歩き出す。
振り返りはしない。
革靴の音が規則正しく響き、少しずつ遠ざかっていく。
奏は動かない。
壁に背を預けたまま、去っていく真理の背中を見つめている。
黒い学ラン。
まっすぐな肩。
光と影の入り混じる廊下を、ひとり歩いていくその姿が、だんだんと小さくなっていく。
奏の唇には、まだ笑みが残っていた。
けれど、その笑みの下には、今までとは違う何かがあった。
唇が動く。
ほとんど音にはならない。
「本当に……面白い子」
真理の後ろ姿が、廊下の先の角を曲がり、見えなくなる。
「きっと……ここから先、私がもっと近づいてしまったら」
その姿が消えた場所を、なお見つめたまま。
「かえって、あの子の邪魔になるんでしょうね」
ひと拍。
「……そうでしょう?」
答える者は、誰もいない。
自分に問いかけているのだ。
いや――本当はもう知っている答えを、あらためて確かめているのだった。
「本当に、面白い」
奏の眼には光があった。
悲しみではない。
名残惜しさだった。
だが、この少女は名残惜しさすら呑み込んでしまえる。
「本当に残念」
「もう少し近くで見ていたかったのに」
旧館の割れた硝子の隙間から風が吹き込み、奏の長い髪を揺らした。ひとひらの桜の花びらが床からふわりと持ち上がり、ひと巡りして、また静かに落ちた。
「私にも、いつか良い機会が来るのかしら」
小さく笑う。
さっきまでの晴れやかな笑いではない。
自分ひとりのためだけに漏れた、ひそやかな笑いだった。
奏の思考は、ふと過去へと遡る。
初めて会った時のこと。
一年前。
それは神楽家の奥方――神楽千鶴の取り計らいによるものだった。鶴目家と神楽家に直接の付き合いはなかったが、千鶴がある席で奏の母と顔を合わせたことが縁になった。
千鶴は言った。
「うちの子には同じ年頃の友達がいないのです。もしよろしければ、たまにご一緒していただけないかしら」
その「ご一緒して」という言い方が、奏には妙に印象に残っていた。
あれほどの家の夫人が、自分の息子についてそんなふうに言うものだろうか。
まるで――案じているようだった。
息子が、あまりにも独りでいることを。
そして、実際に会った真理は――奏の予想とまるで違っていた。
名家の御曹司に対する先入観は、ものの五分で打ち砕かれた。
彼は傲慢ではなかった。
だが、謙虚というのとも違った。
ただ、そこにいた。
静かに。深く。いつもどこか遠くを見つめながら。
そして一年が過ぎた今になっても、奏には自分が彼の「友達」に数えられているのかどうか、よく分からない。
そもそも……私はあの子の中で、友達という範疇に入っているのかしら。
奏は微笑みながら、小さく息をつく。
それから、ふと廊下の壁に掛けられた時計へ目を向けた。
その目が、はっと見開かれる。
「あら、たいへん!」
雰囲気が一変する。
さっきまでの感傷も、哲学めいた回想も、一瞬で吹き飛ぶ。
「遅れてしまう!」
袴の裾をつまみ、奏は走り出した。
旧館の廊下を、軽やかに駆けていく。上履きが木の床を打つ音が小気味よく響く。長い髪が後ろへ流れる。
走りながら、それでも奏は一度だけ振り返った。
真理が消えた廊下の先を。
そしてまた前を向いて、走る。
この学校では授業に遅れることはかなりの減点対象だ。
それでも――
その顔には、まだ笑みが残っていた。




