episode 01
第一話 春光の下、眠れる社
場一 「暁 ―― 神楽家本邸」
大正十四年(一九二五年)、春。
桜が舞っている。
だが、その桜は街路に降るものではない。果ての見えぬ広大な私有地、その尽きぬ庭園の上へと降り積もる桜であった。
神楽家の本邸――東京郊外、山の手の高台に構えられたこの屋敷は、もはや“屋敷”という言葉では足りない。三階建ての洋館の本館、二棟の和館、茶室、書斎棟、そして人の手も容易には届かぬ奥庭まで備えている。使用人は四十人を下らず、専属の庭師までおり、西洋から運ばれた噴水が朝の光の中で水を噴き上げていた。
明治維新以後に建てられた財閥家の邸宅群と比しても、その格は明らかに異なる。
この家は、単に“裕福”なのではない。
何かを護るために築かれた城に近かった。
その広大な屋敷の、さらに最奥。
和館の一室。
障子の向こうから、暁の光が静かに滲み込んでいる。畳の上に敷かれた布団の中で、一人の少年が目を開けた。
神楽真理、十六歳。
はだけた寝間着の襟元から覗く鎖骨は細く、濃い黒髪が額の上に無造作に散っている。まだ眠りの名残を宿した瞳は、深く、そして静かだった。
その眼は、この年頃の少年にはふさわしくない。あまりにも澄みきっていて、かえって何を映しているのか判然としない――そんな眼だった。
真理は、しばらく黙って天井を見つめていた。
屋敷は静かだ。
いつだって静かだった。
四十人を超える使用人がいるにもかかわらず、この時間、この別棟に誰も訪れない。それが規則だからだ。坊っちゃんが自ら鈴を鳴らすまでは、誰一人としてこの部屋に足を踏み入れない。
真理は上体を起こし、障子を開け放った。
庭が広がる。
朝靄のあわいを縫うように、花びらが流れていく。池の上では錦鯉がゆるやかに尾をひるがえし、遥か向こうには洋館本館の輪郭が、霞の中にぼんやりと浮かんでいた。
美しい景色だった。
だが、真理の顔に感嘆はない。毎日見る景色だ。
そして彼は知っている。この美しい景色の中に、自分以外の誰もいないことを。
両親は――いない。
神楽家の当主、神楽京一郎。
その妻、神楽千鶴。
この二人について、世間は多くを知っているようでいて、実のところ何も知らない。
知られているのは、こうだ。神楽家は明治以前より続く由緒ある家柄であり、維新後、京一郎の代に至って海外――英国、仏国、独逸の金融資本と直接の結びつきを築いた。ロンドンの銀行家は彼の名を知り、パリの外交官は彼に書簡を送り、ベルリンの軍需業者が彼と密約を交わしているとまで噂されていた。
日本国内の財閥――三井、三菱、住友でさえ、神楽家については軽々しく口にしない。政界の大物が神楽京一郎との会見を求めても、彼が会うのは月に一人だけ。それも、自分が望んだ時に限る。
だが、真理が知る父は、年に三度か四度、家へ戻ってきては書斎に籠もる男にすぎない。母もまた同じだった。たまに帰ってきては真理の頭をひと撫でし、微笑み、また去っていく。
その微笑みに愛情があったことは、間違いない。
けれど、その奥に何か――口にできないものがあることを、真理は幼い頃から感じていた。
一度、尋ねたことがある。
十二の時だった。
「父上は、どのようなお仕事をなさっているのですか」
京一郎は、しばらく真理を見つめた。
そして言った。
「お前が知るべき時が来れば、いずれ自然と知ることになる」
それきり、真理は二度と訊かなかった。
訊かなかったが、忘れもしなかった。
あの日、父の眼に一瞬よぎったもの――あれが悲しみだったのか、申し訳なさだったのか、それとも恐れだったのか。
真理はいまだ、その答えを出せずにいる。
場二 「山へ ―― 忘れられた社」
今日は学校のない日だった。
真理は朝食を終える。使用人が整えた洋風の朝餉――トースト、ジャム、紅茶、ゆで卵。大正のモダンな気分は、この屋敷にも静かに染み込んでいた。
真理は紅茶をひと口含み、使用人に告げる。
「出る」
「どちらへお出かけでございますか、坊っちゃん」
「散策だ」
それで終わりだった。
使用人たちは、それ以上は問わない。
坊っちゃんが時折、ひとりでどこかへ姿を消すことは屋敷の者なら誰でも知っている。だが、その行き先を知る者はいない。いや、知ろうとすらしない。神楽家には暗黙の掟がある。余計な好奇心は、この家で生き残る術ではないのだ。
真理は屋敷の裏手にある小門をくぐった。
そこで、森が始まる。
神楽家の私有地は屋敷だけではない。背後へ連なる山林そのものが、すべて神楽家の所有だった。地図にも載らぬ土地。明治政府が地籍調査を行った際、この一帯だけは**「調査不要」**として処理された、という話さえ伝わっている。
山道を登る。舗装された道などない。石と木の根のあいだを縫って歩かなければならず、森が深くなるにつれ光も痩せていく。
普通の人間なら三十分で疲れ、一時間もすれば引き返したくなるような道だ。
けれど真理は、この道を歩くのが嫌いではない。
否、むしろ好きだった。
森が深くなるほど、頭の中の雑音が消えていくからだ。
学校で向けられる視線。
家柄についての囁き。
父と母の不在。
使用人たちの過剰なまでに丁寧な口調の奥に潜む警戒。
――それらすべてが、この森へ足を踏み入れた瞬間、薄い霧のように散ってゆく。
一時間ほど歩いた頃、岩の裂け目のあいだから洞窟の入口が現れた。
狭い。大人ひとりがやっと通れるほどしかない。
だが、中へ足を踏み入れると――空間が開ける。
自然にできた空洞の奥に、社があった。
小さい。鳥居がひとつ、拝殿がひとつ。
それだけだ。
だが、おかしい。
この場所は明らかに数百年――あるいはそれ以上前に造られたはずなのに、鳥居には苔ひとつ生えていない。拝殿の木は朽ちておらず、注連縄の藁も切れていない。まるでこの場所だけ、時が脇をすり抜けていったかのようだった。
何を祀る社なのか、真理は知らない。
家の文書にも記録はなかった。
かつて父に尋ねたことがある。
返ってきた答えは、やはり同じだった。
「お前が知るべき時が来れば」
また、それだけ。
真理は拝殿の前に立つ。手を合わせる。
何かを祈るわけではない。ただ、目を閉じる。
すると――感じる。
この空間に満ちている、何かを。
音ではない。風でもない。
それなのに、たしかに“ある”。
全身を包み込むような、深い水の底に沈んだような静けさ。心拍がゆるやかになり、呼吸が深くなり、意識が澄んでいく。
真理はこの感覚に名を与えることができない。
ただ、これがこの世のどこでも感じたことのないものだということだけは分かっていた。
そして、ここを訪れるたび、帰る頃には自分が少しだけ変わっていることも。
しばらくそこに座っている。
洞窟の天井の裂け目から、一本の光が降りてきて、鳥居の上を照らした。光の中で塵が舞う。
真理はそれを見つめる。
長いこと。
やがて、立ち上がった。
「……帰るか」
明日は学校がある。
場三 「帝国高等学院 ―― 輝ける鳥籠」
翌朝。
帝国高等学院。
東京でもっとも名高い学校。政界、財界、軍部、学界――日本を支配する階層の子弟だけが足を踏み入れることを許された場所だ。
門からして違う。洋風の鉄門には家紋が刻まれ、構内は欧州の寄宿学校を模して造られ、建物は赤煉瓦にアーチ窓、時計塔が高く聳えている。大正モダニズムの精髄そのものだった。
生徒たちの制服は、黒の学ランに金釦。
だが、その下に着るシャツ、履く靴、懐中時計、万年筆――すべてが、その生徒の家を物語っている。
ここでは、制服が同じでも格は同じではない。
真理が校門をくぐる。
その瞬間、空気が変わる。
目には見えない。だが、分かる。
生徒たちの視線がいっせいに集まり、囁きが波のように広がっていく。
「神楽の坊っちゃんだ」
「今日もお一人でいらしてる……」
「あの家って、いったい何をしてるんだ? うちの父上もよく分からんって」
「やめておけ。神楽家のことは、軽々しく話さないほうがいい」
真理は聞いている。
ただし、反応はしない。表情ひとつ変えない。
こうした視線には慣れている。好奇、畏れ、嫉妬、敬意――さまざまなものが入り混じった視線。幼い頃は不快だった。今ではただ、風のようなものだと思っている。通り過ぎていくものだと。
廊下を歩く。
学ランの金釦が、朝の光を受けて静かにきらめいた。
真理の制服は、他の生徒と同じものだ。だが、着る者が違えば服もまた違って見える。細く長い体躯、崩れない姿勢、乱れのない着こなし。
そして何より――あの顔。
男子校の生徒たちでさえ、思わず足を止めてしまうほど、冷ややかに整った顔立ちだった。
人気はある。
けれど、それは“近づきたい”と思わせる類の人気ではない。
“遠くから見ていたい”と思わせる人気だ。
近づきたい。だが、近づけない。
触れてはならないような美しさ。
生徒たちは真理に敬意と憧れを抱きながらも、同時に本能的な距離を置く。その理由を、彼ら自身うまく説明できない。
ただ――近づいてはいけない気がする人物。
輝いているのに、その光が冷たい人物。
真理は教室へ入り、自席に着いた。
窓際の一番後ろ。陽光のよく差す席。真理が自ら選んだ席だ。
この席を欲しがる者は、誰もいない。
場四 「黒板の前に立つ真理」
二時限目、数学。
教壇に立つ男――森教授。帝国大学出身、欧州留学経験を持つ、この学院でも屈指の難物として知られる教師だ。生徒たちが恐れる人物でもある。鋭い眼差しに銀縁の眼鏡、几帳面で容赦のない気配。この男に褒められた生徒は、学院創設以来、指折り数えるほどしかいない。
森教授が黒板に問題を書き始める。
チョークが黒板を擦る音。
長く、長く。
式は黒板の半分を埋め、生徒たちの顔は次第にこわばっていった。
それは単なる数学の問題ではなかった。近頃欧州数学界で論じられている解析学の応用問題――大学レベル、いや、大学院に近い。森教授がこのような問題を生徒に出す理由はひとつだ。思い上がるな。いかに名門の子弟であろうと、知の前では等しく無力であることを思い知らせるため。
教室に沈黙が落ちる。
「……難しすぎないか?」
「大学の問題じゃないのか」
「また始まったよ、森教授……」
小さな溜息。俯く生徒たち。
森教授は教室をゆっくりと見回した。
予想どおりだ。
誰ひとりとして手を挙げない。
その口元が、ごくわずかに持ち上がる。満足ではない。確認だ。
やはり――この程度が限界か。
だが。
森教授の視線が止まる。
教室の一番後ろ。窓際。
陽を背にして座っている少年。
「神楽」
教室の空気が凍りつく。
すべての視線が、ひとところへ集まった。
「前へ出て、この問題を解いてみたまえ」
囁きが広がる。
「えっ……あれを……?」
「神楽の坊っちゃんでも、さすがに無理じゃ……」
「森教授、わざと恥をかかせようとしてるのか?」
真理は――立ち上がる。
表情は変わらない。緊張も、不安も、慢心もない。
ただ席を立ち、歩き出す。
教室の通路を進むとき、左右の生徒たちが無意識のうちに身を引く。そのことを真理は感じていない。いや、感じてはいるが、気にも留めていない。
黒板の前に立つ。
チョークを取る。
森教授は腕を組んだまま見つめている。
その目には確信がある。
解けるはずがない。帝国大学の学生でさえ三十分は考え込むような問題だ。この少年がいかに聡明であろうと、十六歳には――
チョークが黒板の上を走る。
音がする。
カッ、カッ、カッ。
そこには、妙な律動があった。
迷いがない。
真理の手は一度も止まらない。
数式が記されていく。一行、二行、三行――解法の筋道が黒板の上に静かに現れていく。
その式は、清潔で、正確で、しかも美しかった。
数学というより、書藝を見ているようですらある。
教室が――息を止める。
森教授の表情が変わった。
腕組みがほどける。銀縁眼鏡の奥の目が、次第に見開かれていく。
これは単に正答へ至る解法ではない。
この少年は――欧州の学界で発表された最新の手法ではなく、自らの道筋で解いている。より簡潔に。より優雅に。
真理が最後の等号を書き入れ、チョークを置いた。
振り返る。
表情は、なおも――何もない。
誇りも、誇示も、自分が大したことを成し遂げたという自覚すらない。
ただ、問題があり、解いただけ。
それだけだ。
森教授は黒板を見つめる。
十秒。二十秒。
長い沈黙。
そして――口を開いた。
「……正解だ」
ひと拍。
「いや――正解以上だ」
その声は、わずかに震えていた。教壇に立って二十年、欧州の碩学たちと論文を交わしてきたこの男が、十六歳の少年の解答を前にして、声を震わせている。
「見事だ、神楽……この解き方は……私の知るいかなる方法論とも違う。お前は、これをどこで学んだ?」
真理は答える。
淡々と。
「学んだことはありません。ただ――そう見えただけです」
教室が静まり返る。
そして――ざわめきが一気に弾けた。
「何だよ、あれ……」
「見えた、って……」
「やっぱり神楽の坊っちゃんは、次元が違う……」
真理は自席へ戻る。
窓際。陽光。
再び外を見る。
――その眼に映っているのは、空だった。
そして、その空の向こう。朝に訪れた山の輪郭が、かすかに霞んで見えていた。
あの場所で感じたものが、まだ指先に残っている気がした。




