第5話 九条先生は厳しい
次の日の放課後。
俺は生徒指導室に呼び出された。
正面に座るのは、生活指導担当の――九条夏目先生。
こっちは縮こまりつつも、それなりに落ち着いた顔を装ってるつもりだが、対面の先生は明らかにご機嫌ナナメだ。視線を上げるだけで、ビリビリと空気が張り詰める。
「それで? どんな事情があって屋上にいたのか、言い訳を聞こうじゃないか?」
腕を組みながら、人差し指で二の腕をトントンと叩く仕草。
こういうの、地味にプレッシャーが強い。
若くして生活指導に抜擢された――なんて、自分で皮肉っぽく語ってたことがあったけど、実際すごい人なのかもしれない。
そしてなにより、驚くほどの美人だ。教師っていうより、どちらかといえばモデル系。
……まあ、今はその美貌が完全に怒りの形相に飲み込まれていて、癒やし要素ゼロだけど。
(いや、ほんとに怖い……)
よく言うじゃないか。「美人は怒ると怖い」って。
「黙っていればやり過ごせるとでも思った?」
九条先生の声が、低く落ちた。
「いや……すみません。言い訳したら、許してくれるのかなって」
「ふむ、場合によるな」
「たとえば……?」
「校門を通ったら屋上にテレポートした、とかなら考慮しないでもない」
……絶対、考慮する気ないだろ。
「じゃあ、仮に“そうでした”って言ったら……?」
「もちろん、許すとも」
お? まさかの展開?
「ただし、朝まで再現実験コースな。逃がさんぞ」
――はい、出た。結局罰ゲーム。
(……でも、待てよ?)
俺は先生の顔をチラリと盗み見る。
この人と朝まで一緒、ってのは……案外“あり”なんじゃないか?
俺、体力にはちょっと自信あるし。
「言っておくが、一緒にやるのは権藤先生だからな」
「はい、すみませんでした! 一人になりたくて屋上に侵入しました!」
間髪入れずに土下座級の謝罪モード突入。
「屋上の扉には鍵がかかってたはずだけど? どうやって入った?」
「そ、そのー……小さめの窓から、こう、スルッと……」
俺は体を捻って、なんとなく身振りで説明する。
「なるほど。ま、ひとまずその化物じみた身体能力は後回しにしておこう。屋上が封鎖されてる理由は知ってるよな? まさか三メートル上にある小窓を“通常の出入り口”と勘違いしてたとは言わんよな?」
「……はい。仰る通りです……」
「屋上の封鎖は、生徒の安全を守るための重要な措置なんだ。全国的にも、今はそうしてる学校の方が多いんだよ」
「そういうもの……なんですね」
俺はぽつりと呟いた。なるほど、危険防止のため。理屈はわかる。正論だ。
けど、それは“普通の人間”にとっての話だ。
正直に言ってしまえば、屋上から落ちたくらいでどうこうなるとは思っていない。
せいぜい擦り傷、ちょっと派手にいっても青アザ止まりだろう。
――って、そんな考えが顔に出ていたのか。
「不満そう、というより不思議そうな顔だな」
九条先生が俺の表情を見透かすように言ってきた。
「そう見えます?」
「見えるとも。君は……」
そう言いかけてから、先生はふぅ、と深くため息をついた。
しばし沈黙。俺の顔をじっと見つめたままのその視線が地味に痛い。
「ともかく、ルールというのは守るために存在する。そしてそれを破った者には、相応の罰が与えられる。……これ、世の摂理な」
妙に重厚な語り口だった。まるで時代劇の裁きのシーンである。
すると先生はどこからか紙を取り出し、それを机に――
ダンッ!!
……叩きつけた。うわ、音でビビらせるのやめてほしい。
「ありきたりだが、反省文」
「はい、書いてこいってことですね。わかってます、先生」
反省文くらいなら、まあ楽なもんだ。適当に書いて出せば終わる。
そして次は、もう少しうまくやればいい。
「反省文――十万字だ」
「はいはい、反省文、十……まん……じ?」
一瞬、思考がフリーズした。
十万字? 今、先生何つった? まさかとは思うけど、冗談だよね?
「ん? 少なかったか? じゃあ二十……いや、三十にしておこうか」
そう言いながら、先生はさらりと地獄の判決を追加してきた。
いやいやいや、待ってくれ。十万字って、確か文庫本一冊分のボリュームってどこかで聞いたぞ?
三十万字って……三冊分じゃねぇか!!
「ちょっ、ちょっと待ってください先生!? それ、本気ですか!?」
慌ててこめかみを押さえる俺、先生は悪びれもせず――むしろ満足げに微笑んだ。
頭痛がしてきそうだ。
「安心しろ。情けで、期限は今週中にしてやる」
……どこが情けなんだよ。
今日、木曜日だぞ。
「俺に小説家の才能があるとでも?」
「まったく。ただ、反省の色が見えなかったのでね。少しばかり、痛い目でも見てもらおうか」
九条先生は口元を吊り上げてニヤリと笑う。
まるで、面白いおもちゃを見つけた子供のような顔だ。正直、かなり腹が立つ。
けれど、ここまで強引に出られると、こちらにも考えがある。
このまま黙って従う気はない。
「痛い目……ですか」
「不満かね?」
「いえ、別に。不満なんてありません。だって、そんなもの従わなければいいだけですから」
淡々と、むしろ少し皮肉っぽく返すと、先生の目つきがわずかに鋭くなる。
「ほう、従わない? そんなことが許されると思っているのか」
低い声に、微かな威圧を感じる。だが、こちらにも切り札がある。
「先生、俺が屋上にいたこと、他の先生には言ってませんよね?」
「……なぜ、そう思う?」
「だって、他の先生に言ったら、九条先生が“なんであんな時間にあんな場所にいたのか”って聞かれるじゃないですか。煙草、吸ってましたよね?」
ピクリ、と先生の眉が動いた。
効いてる。ほんの少しだけど、間違いなく揺らいだ。
「それが君の罰と何か関係があるのか?」
「大いにありますよ。罰を科すには、それなりの“正当性”が必要でしょう? 学校としての問題ならまだしも、九条先生個人の話なら……無視しても大丈夫かなって」
自分でも言ってて生意気すぎるとは思う。だが、引けない。
「なめられたものだな。私一人では強制力がないと……そう言いたいのか?」
「いや、事実じゃないですか? まさか、生徒に手を出すわけにもいかないでしょうし」
言い切った瞬間、先生の目がスッと細くなる。
これは、地味にまずいやつかもしれない。
「……ほう、言うじゃないか」
空気が静かに冷えていく。
しばらくの間、無言で睨み合う。だが、心の中では葛藤が渦を巻いていた。
(やばいな……これ、引いたほうがいいんじゃないか?)
理屈では勝てたかもしれないけど、感情的な圧に負けそうだ。
今からでも土下座して十万字で勘弁してもらおうか。
そんな情けない考えが頭をよぎった、その時、先生が突然、顔を伏せた。
(え……体調でも悪いのか?)
肩がかすかに震えている。怒ってる? それとも泣いてる? ちょっと予想がつかない。
「あの……先生?」
不安になって声をかけた瞬間――
「アハハッ!」
明るい笑い声が部屋に響いた。
先生は、本気で笑っていた。それは清々しいほどに。
「いや、すまない。そんなにムキになるとは思わなくてね」
「……はあ?」
笑いながらも、どこか楽しそうに俺を見る。
ちょっと前までのあの張り詰めた空気は、どこへやら。
「しっかり言い返してくる奴は嫌いじゃないよ。しかも君の指摘、実に痛い。教頭にバレたら、私は何を言われるか分かったもんじゃない……」
九条先生は腕を組みながら、少しだけ困ったように眉をひそめた。
「ってことは……反省文は?」
「ハハ、小説家じゃあるまいし、そんなに書かせるわけないだろう?」
少し気の抜けた声に、こちらも肩の力が抜ける。
――なんだ、最初から本気じゃなかったのか。
「……まあ、君が乗ってきたら、本当に書かせるつもりではあったがね」
「冗談きついっすよ、先生……」
心底からの本音が漏れる。
「これでも私は教師だからね。生徒には、それなりの教育的指導をしておかないと。とはいえ、今回はお互い、見なかったことにしよう。私も教頭に詰められるのは御免だから」
九条先生はそう言って、にこりと笑った。
だけど、その笑顔はすぐに真剣なものへと変わる。
「ただ、ひとつだけ約束してくれ。もう、屋上には行くな。一人になりたいときは、私に言いなさい。この生徒指導室を開けてやるから」
そのときの先生の顔には、どこか悲しさと、苛立ちと、何か切実なものが混じっていた。
――そんな表情を見せられてしまうと、強くは出られない。
「……わかりました。もう、屋上には行きません」
「ああ。それでいい」
九条先生はどこか愉快そうに言う。
こうして、俺と九条先生の“攻防戦”は、ちょっとだけ奇妙な形で終わりを迎えた。
少なくとも、小説十万字の刑を免れたのだから、今日は勝ちでいいだろう。
(……あとは、本当に二度と屋上に行かないことだな)
そう心に決めつつ、俺は少しだけ軽くなった足取りで生徒指導室を後にした。