2.突然の雨に濡れ、彼の家に寄ることに
緋岐×紗貴(高二:夏)
開け放たれた窓から、茜色が射し込む。
風に揺られて風鈴がチリンと、ひぐらしと共に夏の終わりを歌う。
「……これは、ひと雨降るか……」
うちわで扇ぎながらベランダに出て空を眺めていた緋岐は、茜色を徐々に埋め尽くしていく曇天を眺めてポツリと呟いた。
「緋岐も飲むだろ?」
そんな将の問いかけに応える代わりに、部屋の中に戻る。ローテーブルに置かれているのは、氷がたくさん入ったグラスに注がれている麦茶だ。
座って、麦茶を飲んでから、長い溜息を吐く緋岐。続けてのたまった言葉に、将は思わず飲んでいた麦茶を吹き出しかかってすんでのところで堪える。そして、そのままツッコミを入れた。
「紗貴に会いたい……」
「昨日も会っただろ!?」
そう、夏休みも何かにつけて、ほぼ毎日会っている。
明日は夏休み最後の日曜日で部活も休みということもあり、プールに遊びに行く予定だ。残念ながら、デートではなく友人たち複数名プラス弟という、いつものメンバーで……ではあるが。
「今日は、おはようって言えてないし、聞けてない……」
もう、返す言葉も見つからない。放っておこうと無視することを決めて、チラッと外に目をやれば、先ほどまで広がっていた茜空が曇天に覆い隠されていた。次の瞬間、遠くで雷が鳴ったかと思うと、夕立ちがザアッと降り出す。
「うわ!?」
慌てたように将は立ち上がると、窓を閉めてからクーラーの電源を入れた。そのまま、お互い雑誌を見たり、小説を読んだりとめいめい過ごしていたのだが……
—— ピンポーン……
インターフォンが鳴る。
「緋岐、出ろよ」
「将が出ればいいだろ」
お互い、立ち上がることが億劫で押し付け合う。そして、目線があった瞬間。
「「最初はグー、じゃんけんぽん!!」」
二人の声が重なる。勝者は緋岐だ。悔しそうに立ち上がって玄関先に向かう将に視線すら向けずに、続きが気になって仕方がない小説に目線を戻した。
まさか一分も経たないうちに、ジャンケンに勝った自分を呪うことになるだなんて、誰が思うだろうか。
ガチャリと玄関の戸が開くのと、将の悲鳴じみた叫び声がなじみ深い名を呼ぶのと、どちらが早かっただろうか。
「さっちゃん!!!??」
聞こえてきた、まさかの名まえに小説をソファーの上に放り投げると緋岐も玄関に急ぐ。そこには、びしょぬれ姿の紗貴がいた。手には買い物帰りなのか、レジ袋が握られている。
「あ、緋岐くん。珍しい、今日は眼鏡なんだね。いやあ、参った……ちょっとそこまでお使いに行ってたら、急に降り出しちゃって。止むまでちょっと雨宿りさせてくれない?」
何て呑気に言いながら笑う紗貴は、Tシャツ短パンにサンダルといういで立ちで、髪も結んでいない。と、伝い落ちる雫の先に目をやって、緋岐は目を見開いた。
「将、見るな!!!」
焦るように言いながらバッと紗貴を抱き締める。
「へ!?ちょっと、緋岐くん???」
事情が判ってないのは、紗貴だけ。
「……将、お前、見たな?」
地を這うような低音ヴォイスに、顔を真っ赤に染め上げた将は半泣きで叫ぶ。
「不可抗力だろ!!?とりあえず、さっちゃん……俺が、そのお使いで買ったもの、届けてくるから」
ここは、もう、逃げるが勝ちだろう。と判断した将は、先手を打つ。
「え、いや……それは申し訳ないよ。ちょっと雨宿りっていうか、傘さえ貸してくれたら、このまま帰るし」
「「ダメだ!!!」」
あんまりにも無防備な言葉に、緋岐と将の声が重なった。緋岐は紗貴を抱き締めたままレジ袋を奪うと、そのまま将に手渡した。
「じゃあ、将……頼んだ。悪いな……」
「はいはい」
流れるような連係プレーに、紗貴は完全に言葉を挟むタイミングを逸してしまったまま、困惑気に振り返ろうとする。のを、緋岐が全力で拒んだ。
「ちょ、緋岐くん!?流石に、ちょっと将くんに申し訳がなさすぎるんだけど!?将くんも、行かなくていいんだって、私が頼まれたお使いだからね!?」
何とか抜け出そうともがきながら言い募る紗貴の声に、将は深いため息を吐く。
「さっちゃん、いいから……今回の件は、さっちゃんが悪い!……じゃあ、行ってきます」
言うなり、将はアパートを後にしたのだった。
残された紗貴は、何が何だかさっぱり判らない。
「もう!!ちょっと、緋岐くん離してってば!」
性懲りもなく、まだ将を追いかけるために抜け出そうと奮闘する紗貴に対して、緋岐は深いため息を再度吐き出すと、そのまま紗貴を肩に担ぐようにして抱え上げて真っすぐバスルームに向かう。
「はい?え?ちょっと?」
そして、そのまま無言のまま下ろすとバンと勢いよく扉を閉めた。
「ちょっと自分の恰好をそこの鏡で確認しろ、馬鹿紗貴!!!」
扉越しに、ちょっと怒ったように言われた紗貴は、首をかしげながら鏡に目を向けて……そのまま固まってしまった。
確かに、これは、ちょっと……いやかなりまずい。雨に濡れそぼったTシャツはぴったりと身体のラインをなぞるように引っ付いていて、更にはブラジャーが透けているではないか。
「お、お見苦しいものを……」
目下、紗貴は自分のお胸事情がコンプレックスだ。だがしかし、そんなことを慮っている余裕なんて、緋岐にはない。
「いいから!洗濯するから、濡れたの全部、洗濯機の中に入れろ!入れたら、シャワー浴びろ!!浴びてる間に、着替えとかタオルとか用意して、洗濯機回すから、いいな!?」
ノンブレスでそこまで言い切れば、小さな声で「判った。ごめん」と聞こえてくる。続いて、恐らく服を脱いでいるのだろう……その生々しい音に耐えかねて、緋岐は自室に退散したのだった。
紗貴を抱き締めて、抱きかかえてとすれば、濡れて当たり前だ。自室に戻って、ようやく自身の状態を把握する余裕が生まれた緋岐は、改めて服を着替えると紗貴に貸すための服一式を用意してから、バスルームに向かう。
深呼吸をしてから扉を開ければ、中からシャワーを流している音が聞こえてきて……
(2・3・5・7・11・13・17・19・23・29・31・37・41・43・47・53・59・61・67・71・73・79・83・89・97・101・103・107・109・113・127・131・137・139・149・151・157・163・167・173・179・181・191・193・197・199・211・223・227・229・233・239・241・251・257・263・269・271・277・281・283・293・307・311・313・317……)
心を無にするために、素数を唱えながらまずは、紗貴に用意した着替えとタオルを脱衣かごに入れる。そして濡れている床を吹き上げて、洗濯機に自身の衣類も放り込んでからスイッチを入れてから、紗貴に声を掛けた。
「着替えとタオル、そこにあるから使って」
「ありがとう」
すりガラスの向こうに肌色の影が見える。薄いガラス戸一枚しか遮るものがないという事実をまざまざと見せ付けられて、応えもそこそこにバスルームを後にした。
(俺は、耐えることが出来るのか……)
ソファに座る緋岐は、真顔でそんなどうしようもないことを悶々と考えていた。あれだけ結末が気になって仕方なかった小説を開く余裕すらない。
どれくらい、同じポーズのまま自身の煩悩と戦っていただろうか?
バタンと音がして、足音が近付いて来る。そして、遠慮がちにリビングルームに繋がる扉が開くと、遠慮がちに紗貴が入って来た。
「服、ありがとう……ただ、ちょっと貸してもらっといて、申し訳ないんだけど……もうちょっと小さいサイズ、ないかな?大きすぎて……」
その姿を見て、完全にフリーズしてしまった緋岐を、誰が責められるだろうか。
サイズの合わない……まあ、合うはずがない緋岐の肩からずり落ちそうになるTシャツを、何とか手で留め置きながら、タオルで髪を拭く姿は、何とも煽情的で。ズボンも言わずもがな、サイズが大きすぎて、裾を捲り上げている。
(331・337・347・349・353・359・367・373・379・383・389・397・401・409・419・421・431・433・439・443・449・457・461・463・467・479・487・491・499・503・509・521・523・541・547・557・563・569・571・577・587・593・599・601・607・613・617・619・631・641・643・647・653・659・661・673・677・683・691・701・709・719……)
素数を再度数え始める。とにかく、心頭滅却しなければと心を無にすることに努めているというのに。
何の反応も見せずにジト目で固まってしまった緋岐に、紗貴は近づくと、顔を覗き込んだ。
「緋岐くん?どうしたの?大丈夫???」
緋岐の目の前で手を振るために手を離したのが、なぜ髪を拭くタオルを抑えていた方ではなく、Tシャツを抑えていた方だったのか。
目の前に広がる光景に、緋岐の頭の中から素数すらどこかへ飛んで行く。
押さえがなくなったTシャツは、紗貴が前かがみになったことで大きく開いてしまい、鎖骨から向こう側までしっかりばっちり見えている。
更に、フワッと香る石鹸とシャンプーは、普段自分が使っているものと同じはずなのに、どうしても甘く感じてしまう。
そして、止めと言わんばかりの爆弾が落とされた。
「あ、ちょっとズボンがッ……」
大きすぎるズボンは、紐で締め上げてもあんまり意味をなさなかったようだ。ずり落ちそうになって、慌てて紗貴は髪を拭いていたタオルから手を離すとズボンを押さえる。
瞬間、まだ濡れている髪の毛の雫が緋岐を濡らした。
ふー……と、それはそれは長くて大きなため息を吐き出しながら、ソファーに背中を預けて天井を仰ぎ見る。
(これは、何の試練だ?俺、頑張ったよな?……もう、いいよな?)
応えの返らない問いを胸中に秘めて、ゆっくりと上体を起こす。
「ちょっと、緋岐くん大丈夫!?」
急に息を吐きながら後ろに倒れ込んだ緋岐が心配になったのだろう。慌ててソファに片膝を付きながら、緋岐に手を伸ばしてくる。
—— のを、しっかりがっちりキャッチして、緋岐はそれはもう綺麗にほほ笑んだ。
「紗貴が、悪い」
そして、一言そう零すと、紗貴の返事を待たずにソファに押し倒したのだった。
END
@確かに恋だった




