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現代アートとキリスト教美術を比較して芸術について考える

 私は小説を書くのを目標にしているが、小説というのはいつでも書けると思っている。

 

 実際には、いつでも書けるなんていう状況ではなく、自分が書きたいと思っている小説は書けない。とはいえ、その事で悲観しているわけでもなく、それは放っておけばいいと思っている。

 

 ネットを見ると、色々な創作論が噴出している。もちろん、みんなが「読者」であり、「作り手」だったりするから、そういうものを見て共感して「いいね」をつけるのは普通だ。

 

 しかし私はそれらを読んで、特に何も感じない。というのは、そうした小手先の技術論など私にはどうでもいいからだ。ただ、どうしてそういう創作論が多数噴出するのか、というのは気になる。

 

 ※

 先日、上野の現代アート展を見てきた。現代アートを見たかったわけではなかったが、行こうと思っていたキリコの展覧会の期日を間違えたので、見てきた。

 

 中には素晴らしい作品もあった。辰野登恵子という画家の絵には感動した。(ああ、この人は本物の画家だ)と思った。

 

 とはいえ、現代アートというのは、全体的にあまり良くない、という印象を私は抱いた。これは以前から感じていた事だ。

 

 何が良くないかというと、みんなが(迷っている)と感じたからだ。

 

 現代社会というのは、誰しもが知っている通り、それぞれの個人とか主体とかいうものが、絶対的に肯定されている社会だ。それぞれの個人が神であり、自我が神である。そして、その自我の集積としての「ヒット作」が神格化されている。

 

 しかしそれはエンターテインメントの話だ…と考えるなら、芸術家はどうすればいいか。芸術家はそれぞれの自我に閉じこもり、世界の多数の自我に対抗する作品を作り出さなければいけない。しかしその基準をどこに置けばいいのか? …その基準はどこにも置きようがない。

 

 noteというサイトで、(面白い文章はないかな)と探してみたりするが、ほとんどない。これも現代アート展と、根底的には同じ現象だ。それぞれの人間が、自分の自我を世界に見せびらかそうとしている。その自我がいかにみすぼらしいか、とは考えてもみない。というのはこの自我は、デカルトを起点として、新たな宗教となったからだ。

 

 この自我をみすぼらしいと感じる時は、それが「売れていない」からであって、要するに、多くの人の称賛を受けていないから、という以外に理由はない。多くのつまらない人が褒める作品は素晴らしいのか?と問うのは現代ではタブーである。多くの人の自我はそれ自体で、素晴らしいものだから。そうした自我による称賛を勝ち得たものが勝者なのだ。

 

 このような世界において、それぞれの人間が、自我という小さなものを拠り所に、芸術作品らしきものを世に送り込む。さて、どうなるか。優れた読者は、小我を押し付ける無数の芸術家に辟易とする事となる。もしかしたらその中に優れた天才がいるのかもしれないが、それを見極めるのも一苦労だ。

 

 結果として優れた作品は埋もれる。その反対に、運良く、多くの人の耳目に止まって、人々を喜ばせた作品が素晴らしいとされる。しかし、この「人々」そのものの価値を判定するいかなる基準も存在しない。


 現代の芸術家には何の基準もない。基準がないという事は、公的な領域がないという事だ。それぞれが自分の「私」に潜り込むが、「私」の中に世界の巨大さに打ち勝てるなにものも発見する事はできない。

 

 ※

 私は現代アート展を見た後、西洋美術館の常設展を見てきた。これは特別展のチケットで入れる。

 

 常設展には変わらない絵画が置いてある。15世紀16世紀あたりの、キリスト教系絵画が多い。常設展は私は何度も見ているが、素晴らしい作品が多いので行くたびに見ている。

 

 私はキリスト教系の絵画を見て(現代アートがこれに勝つのはなかなか難しいだろうな)と思った。というのはそこには「基準」が存在するからだ。基準とはキリスト教であり、キリストの存在だ。

 

 絵画を見ていると、キリストや十字架、マリア、聖書の中の一節が色々に変奏されて描かれている。穏やかに手を振っている天皇を理想とする日本人からすると、十字架に張り付けられ、だらだらと血を流しているキリストが理想である西欧というのは恐ろしいものに感じる。ここには西欧の暗さと深さがある。

 

 絵を見ていると、キリストが非常にリアルに描かれていて、顔は真っ青で、グロテスクな死者として描かれているのが印象的だった。もちろん、これは近代に近い時代になってきたからこそ、そうしたリアリズムが許されたからであろうが、キリストの姿を画家が好き勝手に描いている様というのは、ある意味、恐ろしい。

 

 私はキリストやマリアといった存在を画家がどう解釈するのは「自由」であるという事、そこに芸術が公的なものと私的なものとの融合として現れるのだな、と常設展を見ていて感じた。最もこれは以前から言っている事でもある。

 

 現代アートのように、個々人の自我の完全なる自由が社会によって保証されると、あらゆるものが恣意になってしまい、どれを見ても、それぞれの作家の好み、趣味、願望、嫌悪といったものが表現されているだけで、その表現が向かう先がない。

 

 とはいえ、どういう表現であるべきかが、旧ソ連とか、戦時中の日本のように上から強引に規定されると、芸術は存在不可能となる。芸術は自由と不自由の間に存する。

 

 現代社会は、大衆の恣意の発散としての自由と、その恣意を集めた権力者による全体主義との間を振り子のように揺れ動いている。そのどちらも芸術が花咲くには好適な環境ではない。

 

 芸術家は、自己の資質を解放しなければならないが、同時にそれをどこかに向けなければならない。理想が奪われ、自我の好みや判断だけがあっても、芸術は不可能だ。現代アート展では、私はそうしたそれぞれの自我の(迷い)というものを感じた。

 

 ※

 話がそれたが、最初の話に戻ると、現代のアーティストが自分の創作論を語りたがるのは、それぞれの自我が趣味や判断といったものを、自分以外の人に承認してもらいたいからだ。

 

 というのは、先に言ったように、自我を根拠付けるいかなる価値観もないので、アーティストは自分以外の他我を頼りとする他ない。自分ひとりの内面を覗き込んでも、そこには虚無があるばかりで、いかなる普遍的なものも存在しない。それ故に、他の虚無からの賛同を取り付けて、自分のしている事に意味を見出したいのだ。

 

 自分一個では不安で、孤独で、どうしようもない。それで他人に助けを求めるのだが、他人もまた不安で、孤独で、どうしようもない。これらの集塊は果たして「現代の神」となるのか。ルソーの考えた「一般意志」は新たな神になれるのだろうか?

 

 現代アート展を見る限り、なかなか難しいだろうな、と思う。キリスト教芸術は、マリアとかキリストかとかいった形姿に、官能的なものと神的なものとを融合させる形式を見出す事ができた。

 

 それが可能になったのは、人というのが、人の外に、何か絶対的なものを見出していた為だが、同時その絶対的なものは、人間に理解できるような相対的なものでなければならない。

 

 これは完全に矛盾だが、キリストが神であり、また人であるという矛盾を背負った存在だと考えると納得がいく。この矛盾体としての構造は芸術家にとっても絶好の題材だった。

 

 しかし、現代では客観的なものは世界から放逐されている為に、それぞれの小我が自分を主張するだけとなっている。運良く売れっ子になれば神格化されるが、それには何の普遍性もない事は、今の世の中を見れば明らかだろう。

 

 最初に話を戻すと、私は芸術というものについてはそういう風に考えているので、自分の小さな我をいかに世界に認めさせるかという、そういう技術論はどうでもいいと思っている。そうではなく、この虚無の世界で一体自分は何に向かって生きる事が可能(不可能)なのか、を見極めたいと願っている。

 

 小手先の技術論よりも私はそちらの方が大切だと思う。ただこれは、これまで書いてきた文章からわかるように、私という小我には手に負えない問題かもしれない。しかし、こちらの問題をはっきりと究明しなければ、何を書こうが、表現しようが、どうにもならないだろう、と現状、私は考えている。



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