幕間:【鳳雛】の激動人生<俗界編・上>
◇◆◇ ポタラ宮 紅宮 吉祥八僧 宝傘上師 ◇◆◇
南無阿弥陀仏。
私はポタラ宮の誇る百八上師の一人にして、吉祥八僧の一人、宝傘上師でございます。
このポタラ宮は西蔵の仏学を修める宗教的な領域にして、政治的な執務に当てられる宮殿にございます。
この地の王である大宝法王は、俗世を統治する『世俗王』と仏学の最高指導者として権威を発揮する『祭司王』としての二つの顔を持ち合わせているのです。
かつての時代、我らの西蔵の仏学は元の国において国教となり、その勢威は天にまで達したとも伝わっておりますが、今は昔の話。
元の時代より後の時代に存在したニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派などの各宗派も、この俗界が仙界と繋がりを持ったことで消滅し、仙界からの正しき教えへと統一されました。
これはポタラ宮内部に限ったことではなく、元来教えを異としていた中原の仏学との融和も為され、この俗界の仏学は仙界の正しき教えへの統一が行われたのでございます。
仏学融和より既に五百年。
我らはこれからも仏学を修め、武学を磨き、衆生を救い、外敵を打ち倒し、仏陀の境地を目指し生きていくのでございます。
◇◆◇
「南無阿弥陀仏。鳳凰の異象が発生したと伺いました。鳳凰は如来転生の兆し。ここより北の地に神丹の気配もいたします。おそらく薬師如来の御降臨と存じます」
ある日のことでございます。
仙界にある金蝉寺より使者様が参られました。
常ならば使者として来られるのは御一人なのですが、今回は五人ほど降りて参られました。容易ならぬことが出来したと感じておりましたが、まさか如来の転生とは……。
「おお、なんと……、如来の御降臨、真にお目出度く存じまする。このような慶事に立ち会えましたこと、この俗界全ての仏教徒を代表し深く感謝申し上げまする」
返事を為されたのは今代の大宝法王様でございます。
王に相応しからざる物言いではございますが、相手が仙界からの貴賓ともなれば、いかに法王様とてご無礼を働くわけには参りません。まして使者様方の中に、先代の法王様がいらっしゃるのですから尚更です。
「良きかな良きかな。此度の降界にて愚僧に任された務めは如来の転生体を仙界へ連れて帰ることにございます。期限は10年。皆様には是非ご助力願いたく」
「南無阿弥陀仏。我らポタラ宮一同、身命を賭してお力添えさせて頂きましょう。使者様に置かれましては、どうかお心安らかにあられますよう」
代表の使者様は丁寧な御言葉で話されておいでですが、ご先代様まで従える貴人であることに間違いはありません。
つまりその御言葉は要請ではなく命令であると申せましょう。どうして否やと申せましょう。
……しかし鳳凰の異象と申されましたか?
さらに北の地より感じられる気配とも。
ならばそれは、1年前に新疆の十万大山で発生したあの天変地異のことで間違いありません。
そして十万大山とはすなわち天魔神教……、魔教の領域です。
我らポタラ宮は天魔神教などの魔道勢力とは決して良い関係ではなく、敵対していると言っても過言ではございません。
故に転生体を探すにしろ、救出するにしろ、我らが彼の地においてあまり大袈裟に動くわけには参りませんし、そもそもあの異象を引き起こした存在を魔教が把握していない訳もございません。
転生体が既に囲われている可能性も無視できるものではないのです。
……容易ならぬこととなりました。
◇◆◇
南無阿弥陀仏。
使者様よりご下命を頂いた日より3年。
我らポタラ宮は、ようやくどこの誰とも分からなかったあの異象の主の正体を突き止めることに成功致しました。
3年の月日が経過したとは言え、如来の転生体の発見が叶いましたことは目出度い限り……と申せれば良いのですが、現実はそう甘くはございません。
新たな問題が発生し、まったくもって順調とは言い難い有様なのです。
異象の主の名は麻夢蝶。
天魔神教教祖である現天魔の姪にして、さらに先代教祖が最も可愛がっている孫娘でもあるのだそうでございます。
かように天魔と縁深き一門の息女となれば、その立場はあるいは天魔神教の姫とも称せましょう。……囲われている程度ではございませんでした。
当然ながら薬師如来の転生体が魔教の姫など許されるはずもございませんが。
何とかしてその御身体に傷をつけることなくお救いせねばならないのですが、その御方は縁あって後宮にて育てられ、天魔神教の内宮から外に出ることは無いとの事ですから溜まったものではございません。
我らに生じた新たな問題とはまさにこの事にございます。
ようやく発見した薬師如来の転生体、しかしその俗世での御立場は後宮にて大切に育てられる魔教の姫。
これではいかに我らが如来の転生体であることを伝えその身を渡すように道理を説こうとも、交渉や説得を受け入れるはずもございません。
我らポタラ宮と金蝉寺の方針が、実力行使による救助へと固まるまで、そう長い時間はかかりませんでした。
◇◆◇
南無阿弥陀仏。
使者様より与えられた期限は10年間。
如来の転生体の発見に3年を費やしましたので残りは7年。
当然ながら救出を急ぐに超したことはないのですが、夢蝶様の御立場が御立場である以上、ご救出の際には天魔神教の中核戦力を相手にすることとなりましょう。決して侮れる相手ではございません。
残された7年の間に隙を見つけて計画を実行するというのが、我らの基本方針でございました。
この方針が変更されたのは3日前のことです。
天魔神教の信徒にとってはわざわざ口に出すまでもない常識であるらしいその情報は、我らの残り時間を奪い、方針の転換を促しました。
我らポタラ宮に仙界の仏門である金蝉寺との繋がりがごさいますように、天魔神教もまた仙界の魔教である太初神教との繋がりがございます。
我らの方針を転換させたその原因とは、特に優れた資質を持つ者は仙界の弟子として迎えられるという天魔神教と太初神教の両魔教の風習でございました。
当然ではございますが、薬師如来の転生体である夢蝶様には特別な資質があり、ご誕生の際に起こされた数多の雷劫と鳳凰の幻影という異象を思えば、その御身が仙界の弟子として引き立てられないはずがございません。
幼魔館に入る際の検査で資質を認められることで弟子として迎え入れられると言われているそうですが、検査するまでもないとされた逸材は、一定の年齢になればすぐに引き立てられるという噂話も存在しておりました。
その年齢こそが5歳なのでございます。
ポタラ宮に金蝉寺の使者様が降りて参られたのは、異象発生よりちょうど1年。
さらに夢蝶様の発見に費やした年月が3年。
つまり夢蝶様は今、齢4つ。
その御身が仙界へと移動されてしまえば、我らには手の出しようがございません。
我らに残された時間が1年を切っていることが判明したのです。
◇◆◇
南無阿弥陀仏。
我らに残された時間は既にあと半年となっております。
この半年間はなんの進展もなく、使者様のご機嫌は損なわれ、我らは焦りに駆られながらも機会を待っておりました。
これはそんなある日のことでございます。
御念仏を唱えながら御仏に祈りを捧げ、世俗の仕事を片付けながら如来のお救いするための計画を考えるという、いつもと同じ一日にとある急報が届けられたのです。
それは夢蝶様の仙界への、太初神教への御動座が正式に決まったというものでした。
これだけであれば我らにとってとても朗報とは言えない報告でございますが、それと同時に新疆・青海・甘粛という天魔神教の領域全土でこの慶事を祝う祭りが開催されているということも判明致しました。
さらに夢蝶様は祭りの主賓として、各地の天魔神教信徒達にその御姿をお見せすることになっており、今は新疆での巡行を終え、甘粛を回られているそうでございます。
……この機会を逃せばもはや為す術がございません。今この時こそ我らが如来をお救いする最後の機会となりましょう。
我らポタラ宮はこの好機を逃さぬべく動き始めました。
◇◆◇
……やはり狙うべきは青海でございましょう。
甘粛はこの西蔵からは離れすぎていて移動や調査を考慮すれば実質不可能。新疆は西蔵の隣で移動は難しくないのですが、彼の地は天魔神教のお膝元です。その厳重な警備を考慮するとこちらも難しいと言わざるを得ません。
しかし青海ならば、西蔵の隣に存在しするため移動・調査の負担が軽く、その上かつて正派の領域であったため新疆ほど天魔神教が根を深く張っていないのです。
現在判明している夢蝶様の道程は、新疆の各地でお披露目をした後に甘粛を北西から南東まで縦断し、青海を巡行して新疆に帰還するというものでございます。
現在は甘粛を巡られていらっしゃるとお聞きしておりますので、青海に到着するのはどれ程早くともあと1ヶ月は掛かりましょうし、その行程次第では2ヶ月、3ヶ月と遅くなることも十分に考えられましょう。
元々青海には天魔神教の動向を探るため、ポタラ宮の手の者が張り込んでございます。我らがその時を察知することはそう難しいことではございません。
……手詰まりに思えた状況に光明が見えて参りました。
これもすべては御仏のお導きによるものでございましょう。
南無阿弥陀仏。