婚約破棄はどうぞお好きに。ただし、新たな婚約者にはなりません。
**
「『君との婚約は破棄させていただく。私は真実の愛を見つけたのだ。そう、ルーシー・ベルトランとの間に!!』」
ミーティングルームから聞こえてきたのはやけに芝居がかった台詞。
通りすがったルーシーは、思わず足を止めた。
(いやいやいや、誰!?)
突然自分の名前が出たからには声の主を突き止めなければと、ルーシーはこっそり室内を覗き込んだ。
男子生徒が数人。中央で、金髪碧眼の青年が机に腰かけて笑っていた。
貴族とは思えないだらしなさにルーシーは眉根を寄せる。
(公爵令息のチャールス・マルシャン様と、その取り巻き? 会話をしたことすらないというのにどうして?)
「どうだい、皆。私の迫真の演技は」
「すばらしいです。これで伯爵家との婚約破棄は滞りなく進むことでしょう」
「あとはベルトランを適当な貴族に養女へ入れたら完璧ですね」
「伯爵家の地味女より、黄金の瞳を手に入れた方が遥かに有益だからな」
(そういう、こと)
ルーシーは内心で溜め息をつく。
彼女は平民でありながら特別枠で王立学院へ進学した。
理由は、平民らしい赤毛とは対照的な金色の瞳を持って産まれたからである。
金色の瞳は『風・水・土・火』の四属性をすべて操れる証であり、国を挙げて保護される。
実家には多額の支援金が払われた。
ルーシーは特待生として貴族しか通えない王立学院へ進学することになった。
そしてこの春、ルーシーは高等部を卒業する。
卒業先の進路は王立の魔法研究所だ。
「卒業式典が楽しみだ!」
(はぁ!? つまり黄金の瞳のために卒業式典で婚約破棄をするってこと!?)
思わず声を上げそうになったところで、背後から口元を塞がれた。
「盗み聞きはよくないな」
(げっ)
目線を上にやると、副担任のシャルルが立っていた。
「……!」
次の瞬間、ふたりは何かの準備室にいた。シャルルの魔法だ。
(美術、準備室?)
ルーシーは、絵の具のにおいと教材の雰囲気でなんとなく把握する。
そもそもシャルルが美術担当であり、根城にしていると耳にしたこともあった。
「ぷはっ」
解放されたルーシーはくるりと後ろを向き、シャルルを睨みつけた。
「先生っていつも突然現れますよね。というか、いきなり何をするんですか!」
「助けてあげたのにその言いぐさは何だい」
シャルルは不服そうにしつつも、へらへらと笑っている。
副担任のシャルルこそルーシーの天敵だった。
ルーシーはかなり小柄な女性なのに対して、シャルルは学内一の長身男性。
艶のある金髪と、淡いピンク色の瞳。
美丈夫、眉目秀麗。学内には公式ファンクラブが設立されている。
それだけではない。広い肩幅と厚い胸板、鍛え抜かれた筋肉はその方面のファンからも熱狂的な支持を得ている。
また、その気になれば騎士団の魔法部隊にも所属できる実力者。
そんな彼の正体は第五王子。ところが十八歳の成人の儀で、突然王族から降りることを宣言し、紆余曲折を経て現在は男爵位にある。
そんな彼をルーシーが天敵扱いしている理由は単純で、この一年間、やたらとちょっかいをかけられてきたからだった。
「あのまま乗り込んでいっても丸め込まれるのがオチだよ。知っているだろう、彼の特性魔法を」
「『魅了』……」
貴族は属性魔法どれかひとつが使える以外に、特性と呼ばれる固有の能力も持っている。
いくらルーシーでも勝てるとは思えなかった。
「まぁまぁ。そう落ち込まないの」
「許可なくひとの頭を撫でるのはやめてください」
「晴れ晴れしく卒業したいだろう? 僕にいい考えがあるんだ」
(チャールス様も、シャルル先生に見つかったことが運の尽きだったかも)
ほんのちょっとだけルーシーは同情したが、すぐにその感情は消え去った。
**
「じゃじゃーん! ということで味方を連れてきたよ」
「かはっ」
翌日。
美術準備室へと呼び出されたルーシーは、予想しなかった登場人物に膝から崩れ落ちそうになった。
(アデル・ラロンド様。マルシャン様の、婚約者!)
重たい前髪、うねりのひどい銀髪。
少し陰鬱な藍色の瞳。
肌が弱いらしく、うっすらと赤みがさしている。
接点こそないものの、ルーシーはアデルの笑顔を見たことがない。
いつも俯いていて、貴族なのにおどおどしている。そんなイメージ。
「……アデル・ラロンドと申します」
ルーシーはスカートをつまみ、慌ててアデルの挨拶に応じた。
「ルーシー・ベルトランです。はじめまして!」
「この度はわたしくしの婚約者がよからぬことを考えているようで、心からお詫びいたします」
「アデル様、顔を上げてください!? そもそもアデル様に悪いところはひとつもありませんよ」
「ですが……」
ぱんっ、とシャルルがふたりの頭上で両手を叩く。
ルーシーは驚いて顔を上げた。
「はいはいそこまで。アデル嬢を呼んだのは謝罪をさせるためじゃないよ。チャールスの計画を暴いて、卒業式典を成功させる。僕らのすべきことはそれだけ」
「いつの間にチームみたいになっているんですか?」
「今からだよ。まずは侯爵家の三男、ロランに近づいて具体的な計画を聞き出すんだ」
教室でチャールスに賛同していた者のひとりだ。
おべっかを使うのが上手く、いつでもマルシャンの傍にいることで有名だった。
「……ですが、どうやって」
「それを考えるのは君たちさ」
「何で突然、授業みたいになってるんですか」
ルーシーの厭味に怯むことはなく、シャルルは笑っている。
口元に右手を遣って、ルーシーは考えを巡らせた。
(ロラン様は傍から見ていてもお調子者で、口が軽そうな印象がある。たしかにチャールス様の計画を知るには最適な緒だとは思うけど。何の接点もない平民で、かつ標的にされているわたしが近づくのは現実的じゃないよね)
「アデル様」
「は、はい。何でしょう」
いきなり話しかけられたアデルは怯えたように肩を震わせた。
「わたしは晴れ晴れとした気持ちで魔法学院を卒業したいです。アデル様は、どうですか?」
「えぇ、わたくしも、同じ想いです……」
「よかった! お願いします。わたしに、協力してください」
**
「へぇ。化けるもんだね」
「魔法は一切使ってませんよ」
まずルーシーは、アデルに化粧をほどこした。
ルーシーから手鏡を受け取ったアデルは不安げに視線をさまよわせる。
「これが……わたくしなのでしょうか」
花油の櫛で髪の毛を丁寧に梳かして、艶を出した。
白粉をはたき、眉や唇の薄い部分は筆や紅で描き足した。
襟元で結ぶリボンは下級生のペールグリーン。
「名付けて、下級生のふりをして近づこう大作戦です!」
「センス」
「ほっといてください」
ルーシーはシャルルを睨みつけた。
それから再びアデルに向き合う。
「庶民の化粧方法なのですが、肌質に合ったみたいでよかったです」
「白粉はいつも肌が荒れるので断っていたのですが、これはまったく痒くありません。うれしいです……」
「アデル様、泣いちゃだめです。白粉が取れちゃいます」
「そうですわね。ルーシーさん、ありがとうございます」
「おふっ」
アデルがふんわりと微笑み、ルーシーは胸を押さえながら両膝をついた。
シャルルが声をかける。
「どうしたの、ルーシー」
ばっ、とルーシーは勢いよく立ち上がって、アデルの両肩に手を置いた。
「アデル様! アデル様の笑顔は破壊力抜群です!!! 今わたしは射抜かれました!!!」
「えっ? えっ?」
「わたしがアデル様にとびきりの魔法をかけて差し上げます。あなたは、とてもすてきな方です!!」
ルーシーが黄金の瞳を輝かせる。
勢いに呑まれてアデルは瞳を丸くした。それから、わずかながらもしっかりと頷いた。
「ありがとうございます。行ってまいります」
すっと立ち上がったアデルは背筋もしゃんと伸びていた。
「行ってらっしゃいませ!」
ルーシーも立ち上がってお辞儀する。
アデルは美術準備室から出て行った。
「やっぱり、君はすごいねぇ」
「どういう意味ですか」
「言葉通りだよ。さて、君はどうする?」
「『創造』します」
ルーシーは右手の手のひらを上に向けた。
ふわり、水色の小鳥が現れる。
ルーシーの魔法特性『創造』。
自分の体より小さなものを具現化することができるのだ。具現化時間はその大きさによって変わる。
小鳥くらいなら、今のルーシーの力だと半日は持つ。
「アデル様のもとへ行っておいで。ピンチになったら、助けてあげてちょうだい」
小鳥はぱたぱたと羽ばたき窓から出て行った。
「ところで先生はチャールス様の企みを暴いてどうするおつもりですか。王家とマルシャン家は懇意のはず。いくら先生が王家から出たとはいえ、こんなことするべきではないと思うのですが」
「うーん」
シャルルはわざとらしく両腕を組んだ。
「最初に言った通りだよ。卒業式典を私物化しようだなんて、他の善良な生徒にとっては迷惑千万だろう?」
(それだけじゃない気がするんだけど、絶対に教えてくれなさそう)
確実に何かを隠している。
そうは思うものの、これ以上の追及はルーシーには不可能だった。
「そんなことよりとっておきの紅茶があるんだけど飲まないかい? クッキーもあるよ」
「こっ、これは」
うさぎと星の絵が浮き出ている可愛らしい蓋。
シャルルが差し出してきた缶を見て、ルーシーは大声を上げた。
「どうして先生が下町で人気のクッキー缶を!?」
「だって君、好きだろう?」
「というか憧れです。まさか自分で並んで買われたってことは」
「並んだに決まってるだろう。紅茶、淹れるね。とびきりのを」
鼻歌混じりでシャルルは小さなキッチンに立つ。
ルーシーはその背中とクッキー缶を交互に見比べた。
毎月決まった日にしか販売しない有名店のクッキー缶は、堂々とした存在感を放っている。
(並んでまで買ったなんて、ほんとに? 立ってるだけで目立つ先生が?)
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
紅茶を出され、ルーシーは素直に受け取る。
ふわりと漂う瑞々しく華やかな香りに、表情がようやく綻んだ。
「いただきます」
さくり、ほろり。
口に入れた瞬間、ルーシーはうっとりと呟いた。
「……美味しい」
「うん。これは流行るのが分かる」
シャルルも満足げに頷いた。
ふとルーシーはシャルルの手元へ視線を遣った。
(流石は元王族。クッキーの食べ方ひとつとっても優雅)
「ん? 僕の顔に、何かついてる?」
「いえ、何も」
『……こんなきれいな子が下学年にいたなんて知らなかったなぁ!』
不意に声が響いた。
小鳥を通して会話が流れてきたのだ。
『卒業式典で気持ちを伝えるつもりでしたが、やはり、どうしてもがまんできなくて』
「へぇ。アデル嬢、意外と役者だね」
アデルは見事に下級生になりきって、ロランと会話を続けていた。
すっかり気を許したのかロランが言う。
『卒業式典はいいものが見られるよ』
『どういう意味でしょうか』
『チャールス様が婚約破棄をするんだ! そのとき、『魅了』の魔法を講堂内で一斉に発動する。今、そんな仕掛けをつくっているところさ』
『……へぇ?』
「……先生」
「なんだい?」
「ロラン様って、馬鹿ですか?」
「ぶっ。……まぁ、馬鹿なんだろうね」
「そんな笑わなくたって」
「ごめんごめん。前々から思ってたんだけど、君のまっすぐさには驚かされるよ」
ルーシーからの単刀直入な質問。
シャルルは笑いをこらえきれなくなったようで、涙目になるまで笑いつづけたのだった。
**
数日後。
ルーシーとアデルは、再びシャルルから呼び出されて、講堂の隅にいた。
「今の時間、チャールスたちは課外活動に出ているから戻ってくることはない。さて」
シャルルが壁に手をつく。
「アデルの話を受けて講堂を調べてみたところ、チャールスの『魅了』が発動するための仕掛けがいたるところに施されていた」
壁に触れた手のひらを返すようにねじると、まるで飴細工のようにオレンジ色の光が引っ張られて現れた。
「うわぁ」
ルーシーは顔をしかめる。
見ただけではまったく分からなかった。それを、シャルルはいとも簡単に見つけてみせたのだ。
「この仕掛けをすべて書き換える」
「シャルル先生。書き換えるというのは……?」
「魔法の発動条件は『ルーシー・ベルトラン』とチャールスが発声すること。すると講堂内で『魅了』が発動して、全員がチャールスの言うことを信じるようになる。それを、ルーシーの『創造』に置き換えるんだ」
「なるほど……? って、そんなことできるんですか?」
「できるさ。アデルの特性を聞いたことはあるだろう」
ルーシーはアデルを見た。
「『増幅』」
「はい」
「ふたりで協力して、講堂内の仕掛けすべてを見つけるんだ。その後の仕上げは、僕がやろう」
「とはいっても」
ルーシーは溜め息を吐き出したが、一方でアデルは拳をつくって奮い立った。
「がんばりましょう、ルーシーさん!」
「アデル様?!」
(めちゃくちゃやる気なんですけど!?)
「わたくし、このような性格なのでなかなかお友だちもできなくて……。卒業までひとりで過ごすのかと絶望していたのです。だから、今とても楽しくて」
アデルの暗かった表情は、明るいものに変わっていた。
「もしよかったら、今度我が家にもいらしてくださいませんか?」
「いいんですか? わたしみたいな平民が」
「身分なんて関係ありません。わたくしはお友だちとお茶会をしたいのです。……だめでしょうか」
「はうっ」
(アデル様の上目遣い、破壊力がすごい!)
「だめなんてことはありません。是非とも! 喜んで!」
ふたりは数時間かけて、すべての仕掛けを書き換えた。
(卒業間近にして、突然学院生活が楽しくなってきた気がする)
ルーシーも口にはしなかったものの、アデルと同じことを考えていた。
**
廊下を歩いていたルーシーは、ふと、先を行くチャールスを見つけて足を止める。
たまり場にしているらしいミーティングルームへ入っていくのが見えた。
「計画は順調だ! あの黄金の瞳が手に入ると思うとぞくぞくする」
すぐにチャールスの上機嫌な声が聞こえてきた。
「しかしそううまくいくものでしょうか」
「卒業式典では婚約さえできれば問題ない。その後逆らうようなことがあっても、こちらに主導権があるのだ。何なら目玉をくり抜いてしまってもいいしな」
ぞわり、とルーシーの背筋をいやなものが駆けていく。
「……誰かいるのか?」
誰かが立ちあがる音が聞こえた。
(しまった!)
移動魔法を使えば痕跡が残る。
チャールスならそれがルーシーだと判ってしまう筈。
扉を開けて出てきたのはロランだった。
ルーシーはロランと目が合っている。冷や汗がルーシーの背中を伝った。
「誰もいませんよ」
(えっ)
ロランは、ルーシーを認識していない。
気づいたルーシーが顔を上に向けると、背後にシャルルが立っていた。
人差し指を自分の口元に当てている。しゃべっちゃだめだよ、と合図しているかのように。
(今まで考えたことなかったけど、先生の特性って何なんだろう)
元王族だからなのか、彼の特性は隠されている。
興味がなく遠ざけていたから考えたこともなかったが、明らかにこの状況は意図的に創り出されていた。
ロランが教室に戻っていくのを見届けて、ルーシーは息を吐き出す。
くらっ、とルーシーの視界が揺らいだ。
倒れそうになったとき、ふわりと体が宙に浮く。
ルーシーはシャルルに抱きかかえられていた。
「お、おろしてください」
「顔色が悪いよ。っていうか、軽いな。ちゃんと食べてる?」
(それは! あなたとわたしの! 体格差では!?)
普段ならツッコむところだったが、ルーシーは顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせるのが精いっぱいだった。
有無を言わさず、シャルルはルーシーを美術準備室へ連れて行った。
シャルルはルーシーをソファに寝かせた。
そして顔を近づけてきて、額をこつんと当てる。
「熱は?」
「~っ!」
(顔が近い。肌がきれい。睫毛が、長い)
間近で見るシャルルの迫力。ルーシーはおかしな結論を出すことにする。
(いけすかない! わたしは騙されないぞ!!)
ルーシーは両手で顔を覆った。
すると突然、先ほどのチャールスの言葉がぶわっと蘇る。蘇ってしまうと、吐き気がのぼってきた。
『何なら目玉をくり抜いてしまってもいいしな』
(わたしは人間扱いされていない。ただの魔力の塊だと、思われているんだ……)
ルーシーの様子に、シャルルが尋ねる。
「どうした?」
「言われたんです……。目玉をくり抜いてしまえ、って」
「そんなことはさせないさ」
静かで力強い断言は、ルーシーの心に染みた。
「なぜなら」
シャルルがそっとルーシーの手首を優しくつかんだ。
そのまま、手首を顔から離される。
「君には、僕がついているからね」
いつもの軽薄さはどこにもなかった。
真摯で、穏やかな微笑み。
そんなシャルルの後ろには、描きかけの大きな大きな油絵があった。
青空の下、一本の大木。
彼の瞳と同じ色の花が咲いている。
つぅ、とルーシーの瞳から涙が零れた。
「ルーシー?」
「……あの絵、先生が描いたんですか?」
シャルルが後ろを向く。表情は、見えない。
「そうだよ」
――サクラっていうんだ。
**
「淡いピンク色をした、一重咲きの花?」
「そうなんです。枝を埋め尽くすように咲き誇っている……」
ルーシーはアデルの家を訪れていた。
ガラス張りの温室。穏やかに花が咲く空間での、アフタヌーンティー。
「わたくしも見たことはありませんが、聞いたことはあります。王城の中庭に咲いているんだそうです。なんでも、建国当初から存在しているのだとか」
「王城」
(王城にしか咲いていないなら、絶対に見ることはできないよね)
「王族を降りられても、心残りがあるのかもしれませんわね。その花の木に」
「何にも執着なさそうに見えますけどね、あのひと……」
きょとん、とアデルがルーシーを見つめる。
「前々から思っていたのですが。ルーシーさんはシャルル先生がお嫌いなのかしら?」
「はいっ?」
「ファンクラブに入っていらっしゃらないのでしょう」
「それは、アデル様もですよね」
「わたくしはああいうきらびやかなものがどうも苦手でして」
ルーシーは立ち上がって、鞄から取り出した缶を掲げた。
「先生のことはどうでもいいです! 楽しい話をしましょう! お約束の白粉をお持ちしました!!」
「まぁ」
下町にしか売っていない白粉。
アデルの瞳が輝く。
「ありがとうございます。これで、わたくしもお化粧を楽しめますわ」
両手でアデルは缶を受け取ると、ふぅ、と息を吐き出した。
「ロラン様は存在しない下級生を探し回っていると耳にしました。人間というのは、こうも見た目で態度を変えられるものなのですね」
見た目でアデルを拒否するチャールス。
見た目でアデルを探しているロラン。
ルーシーとは別の意味で迷惑を被っているのがアデルなのだ。
「伯爵家に生まれた身として、家のために結婚することが最大の務めだと信じてきました。しかし今回の件でそれは必ずしも正しくないのだと悟りました。わたくしは婚約破棄を成功させて、きちんと自らと家の将来のことを考えようと思います」
アデルは缶をテーブルの上に置いた。
そして、ルーシーの両手を取る。
「チャールス様の企みを打ち砕きましょうね。わたくしたちなら、大丈夫」
**
カフェテリアの入り口で、ルーシーはげんなりした表情を隠せなかった。
中央で女子生徒に囲まれていたのはシャルル。
いかにも貴族令嬢といった見た目の女子生徒たちがさえずるように話しかけている。
「是非とも卒業前に美術準備室でお茶会を開きたいのですわ」
(うわぁ。たしかあの方はファンクラブ会長と、有力者たち。こんなところで堂々と)
ひらひらとシャルルが手を振る。
「美術準備室でお茶会? 無理無理。絵の具のにおいで充満していて、君たちが楽しむことなんてできないよ」
「でしたらお茶会でなくてもかまいませんわ。卒業までに入ってみたいと、前々から申し上げているではないですか」
「そうです、そうです。先生が過ごした空間を見てみたいという願いを叶えてくださいませんか」
「だめなものはだめ」
(待って)
耳に届いた会話に、思わずルーシーは持っていた鞄を落としそうになった。
(美術準備室、入ってるんですけど!?)
しかも、三回。内一回はアデルもいたが。
そんなアデルの言葉が不意に蘇る。
『ルーシーさんはシャルル先生がお嫌いなのかしら』
(嫌いじゃ……なくなってる)
気づいた途端、心臓の鼓動が早鐘を打っていた。
(今、わたし。特別扱いされていることがうれしいって思ってる?)
それはつまり……。
しかし次の瞬間、ルーシーの心は冷水を浴びせかけられたように凍った。
「この春で先生も学院からいなくなってしまうのに」
(え? どういう、こと?)
ルーシーは顔を上げてシャルルの方を見た。
これまで興味がなかったため、知らなかったのだ。
彼のことを、何ひとつ。
(あぁ、そうか。最後に参加する卒業式だから、変なトラブルを起こしたくなかったのか……)
それ以上の会話を聞きたくなかった。
ルーシーは空腹を我慢して、カフェテリアから出て行った。
**
ルーシーもルーシーで忙しかったため、シャルルと顔を合わせることはなかった。
そしてあっという間に卒業式典、当日。
最後の学院長挨拶まで無事に終わった、そのときだった。
「お集まりの皆々様に、聞いていただきたい話がある!」
突然、チャールスが登壇した。
(来た!)
ルーシーとアデルは顔を見合わせた。
ばくばくとルーシーの心臓の鼓動が早鐘を打ち、口のなかが渇きを訴える。
(大丈夫。わたしにはアデル様もついている)
己へそう言い聞かせて、ルーシーは深呼吸した。
そして壇上を見上げる。
「私、チャールス・マルシャンはアデル・ラロンドとの婚約を破棄する」
講堂内がざわつき、視線は一気にアデルへと集中する。
ルーシー以外が一歩引いたことで、アデルの周りにはルーシー以外いなくなった。
「君との婚約は破棄させていただく。私は真実の愛を見つけたのだ」
チャールスがルーシーを見て、にやりと口元を歪ませた。
「そう。ルーシー・ベルトランとの間に!!」
――ぶわぁっ。
ルーシーの名前をひきがねに、発動したのは……ルーシーの『創造』。
現れたのはサクラの花びらだった。
まるで雨のように雪のように、花びらが降り、舞う。
踊るように、次々と。
卒業生たちを、祝福するように……。
それはアデルの『増幅』による効果だった。
本物を見たことがなくても、その花の美しさに歓声が上がる。
幻の花を掴もうと、生徒たちは次々と手を伸ばす。
今やチャールスに注目している者はいない。
どちらからともなく、ルーシーとアデルは手を握った。
「その婚約破棄、喜んでお受けいたしますわ、チャールス様。ですが」
「わたし、ルーシー・ベルトランはチャールス様との間になんら関係を持ってはおりません。よって、新たな婚約は無効とさせていただきます!」
「……え?」
状況を飲み込めないチャールスが、間抜けな表情になった。
『伯爵家の地味女より、黄金の瞳を手に入れた方が遥かに有益だからな』
講堂内に響き渡る音声。
そして、チャールスへ近づいて行くのは、シャルル。
「チャールス・マルシャン。君の幼稚な悪だくみは既に露見している。他人の心を操ろうとした罪を認めなさい」
「なっ……!」
チャールスの顔が茹で上がったように赤く染まる。
唇が、わなわなと震えていた。
「君たちには然るべき進路を用意させてもらうよ」
シャルルはぞっとするような笑みを浮かべて、チャールスに近づくと肩を叩いた。
チャールスが弱々しく膝をつく。真っ赤だった顔は、真っ青に変わっていた。
こうして一連の婚約破棄は、ほとんどの人々の記憶に残らぬまま幕を閉じたのだった。
**
「サクラ、きれいだったよ。僕がずっと見たかった光景だった」
「それは、どうも」
式典後。ルーシーは美術準備室に呼び出されていた。
ソファに座って満足げにするシャルルに、立ったままのルーシー。
「あれ? 婚約破棄計画が成功したのに、不満そうだね?」
「そんなことはありません、ですが……」
躊躇ったものの、ルーシーは言葉を続けた。
「先生もこの学院を去るんですか? どうして言ってくれなかったんですか」
シャルルはきょとん、とした表情になる。
それからくつくつと笑いだした。
「どうして笑ってるんですか」
「君、僕のことがほんとうに興味なかったんだね」
「うっ」
的を射た指摘にルーシーが怯むも、シャルルは意に介さない。
「春から僕も魔法研究所の所員だ。君と同じ」
「えっ!?」
「この計画は必ず成功させなければいけなかったのは事実だよ。だって、僕は君と一緒に研究をしたかったから」
ぺたん、とルーシーは床に座り込んだ。
するとシャルルも座って目線を合わせてくる。
「信じられないなら、君にだけ教えてあげよう」
シャルルが手のひらを己の顔に翳して、離した瞬間。
彼の瞳は艶やかな黄金に変わっていた。
「……!」
「僕の特性は『認知』だ。本来なら瞳は黄金だけど、サクラの色に見えるようにしてある。それから、君といるときは周りに気づかれないように特性を発動させている。だからファンクラブの子たちに絡まれることもなかっただろう?」
「言われてみれば……。ということは、講堂の仕上げもですか」
「ご名答。勘のいい人間は好きだよ。というか」
すっ、とシャルルはルーシーへ手を差し伸べた。
「僕は君のことが好きだ。卒業おめでとう。今夜のダンス、一緒に踊ってくれないか」
たっぷりの沈黙のあと、ルーシーはその手を取る。
「……はい。喜んで」
この後。
何故だかルーシーにはサイズがぴったりの新しいドレスを用意されていた。周到さに文句を言ったルーシーだったが、最終的にはそのドレスを着てダンスパーティーへ出席し、話題をさらった。
また、ルーシーは伯爵家へ養女として迎え入れられ、アデルの義妹となった。
平民ではなくなったことでシャルルとの婚約もとんとん拍子に進むのだが、外堀を埋めるなとルーシーが怒ったのはまた別のお話。
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