2020年5月
2020年 5月
深夜3時38分。
付けっぱなしのテレビは外国の街並みを路面電車に乗ったカメラから淡々と流している。きっとこの番組の後は、動物の癒し映像が流れて、そのあと「みんなの歌」を5分ほど流したあと、「おはよう日本」が始まるはずだ。
3分の1ほど飲んでまったく飲む気がしなくなってしまった缶ビールをほぼ無意識に口に含んで、そのまま飲み込めずにシンクに吐き出しに行く。
僕は、また眠れないでいた。
2ヶ月くらい前から、僕は食べれないし、感動できないし、ろくに眠れないでいる。7時に家に帰り、味のしないカップ麺とビールを飲んで、朝の5時過ぎまでリビングで横になってすごした。明るくなったら布団に入ってみて、30分くらいまどろんで、仕事に行く。社会人2年目になっていた僕は、この生活の対価として、月20万のお金を稼いでいた。
夜布団に入りながら眠りに落ちる時、このまま一生目覚めないで欲しいと願う人は、沢山いるんじゃないかと思う。少なくとも僕はそう思わない日はなかったし、職場でいびられている先輩も、そう願っているように感じられた。人はどんなに不完全であっても否応なしに大人にさせられていく。僕は23歳になる今年、身体に出る不具合を確認しながら、それを納得せざるを得ないでいた。
2キロほど軽くなった(それまでは52kgだった)とは思えないほど重たい身体をやっと思いで動かし、のろのろと立ち上がる。身体の奥で、ヴヴーンとデータを溜め込みすぎた重たいPCが立ち上がる音がしたような気がした。
キッチンに行き、換気扇の下にある最近煙草を吸うためだけに買ったバーチェアに腰掛ける。携帯用灰皿の蓋を開け、日付が変わってから10本は肺に収めたであろうウィンストンの5ミリにZippoで火をつける。今年に入ってから一段と本数が増えたのに、昔よりも全く美味しく感じない。最近では食事を食べることよりも丁寧になった一連の喫煙動作を、練度をあげるようにしてゆっくりと主流煙を肺に入れる。肺の隅々まで煙が充満したのを確かめ、副流煙を細く丁寧に吐き出す。肺を通って脳に届いたニコチンが思考を麻痺させ、数時間後に迫る仕事への恐怖を一時的に和らげてくれる。テレビからは「みんなの歌」の2曲目が、番組のタイムスケジュール通りに正しく放送されている。僕は煙草の火を消し、ほぼ義務のように、布団に入り目を瞑った。重たい低スペックのPCは、シャットダウンも容易ではない。
「気持ちよかった?」
5月中旬。リボンの装飾が施された下着を身につけながら沙由里が聞いた。軽く照れているような笑っているような満足気な表情は、彼氏が全く同じ感想を抱いていると信じて疑っていない。
「うん、良かったよ、すごく」
ほぼ条件反射のように返事をした後、あっ、と一瞬焦る。少し単調な口調になってしまったかもしれない。
「良かった。嬉しい。」
くしゃっと笑いながら話す沙由里を横目で確認し、彼女がセックスで満足してくれたことよりも、自分の心が見透かされなかったことに対して安堵する。iPhoneで時刻を確認すると、深夜の1時半を過ぎていた。そろそろテレビショッピングが放送され始める時間だな、とぼんやり考える。
「仕事、大丈夫なの?」
「まあ、なんとかね」
「看護師ってやっぱりきついんだね」
「どの仕事も、きっとそうだよ」
「有は、休んだ方がいいと思う」
「そうかも」
そう話しているうちにも、沙由里は僕の身体を再び愛撫し始める。ぼんやり眠くなっていた僕は、自分に喝をいれ、彼女の髪を撫でる。休んだほうがいいとは、一体どれを指しているのだろうと思ったが、きっと彼女は悪くない。いつだって余裕がある人間にしか素敵な恋愛は許されないのだと僕は思っていたし、辛い時に寄り添ってもらえるような技術も、僕は持ち合わせていなかった。心配する彼女に対して僕は何故か必死に大丈夫であることを演じていたし、事実彼女は全く健全に僕の身体を求め、僕から愛されることを求めた。僕は、恋愛に対して不誠実で、卑怯だった。
僕が眠りに落ちたのは、3回目のセックスを終えた朝の5時過ぎだった。13時に目覚め、午後からコンビニのバイトに行く彼女を近くの交差点まで送ったあと、彼女の働くコンビニとは違うコンビニでノンアルコールビールとおにぎりを買って自宅に帰った。時刻は14時近い。今日は16時から仕事でいつも機嫌の悪い先輩と一緒の勤務だから、何もやることがなくても15時半前には職場について、やる気満々の新人を演じなくてはならない。後30分したら風呂に入って、着替えて髪を整えたらもう15時を過ぎる。僕に許された自由時間は仕事の準備時間を除けば、14時から14時半までの30分だ。なんてことだ、日勤の昼休憩より短いぞ。
翌週、来月の勤務表が休憩室に貼り出された。「勤務交代は各自相談するように」と赤字で添えられている。来月から異動願いを出していた僕の名前の横に、当然のように来月の勤務が割り当てられていることに眩暈を覚える。なんで僕は来月もここにいることになっているんだ??
「なんで僕の勤務でているんですか」
表情を崩さないように、顔の筋肉に力を入れて課長に訪ねる。「僕、異動願い出したんですけど」
「ああ、ね、それね。あー、まだ他所の科への異動が決まらなくって。いつになるか、は、私もはっきり分からないんだけど、まあ、来年くらいになるかも。」
二年前に長く勤めた課長と入れ替わりで課長になった小太りで眼鏡をかけたこの女性は目線を合わせず手帳を開きながら歯切れ悪く話す。まだ今年も半分過ぎていないのに、何を言っているんだ、この人間は。
「来年、ですか」
来月から2021年にならないかな、と思いながら壁に掲示された「時間外労働をなくそう!」と題打たれた労働組合のポスターを、ぼんやりと眺めた。遠くで心電図モニターのアラームが鳴っている。
ほぼ実話です




