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A coffee

作者: 春花とおく

「ズィスイズ、ア、コーフィー」


茶藤が盆にのった珈琲を指して言った。


「This is a cup of coffee、だろ」


高校生、いや、中学生レベルの文法間違えを指摘される大学生とはいかがなものだろう。むしろ、そのような怠惰あってこその大学生だという意見もあるかもしれない。しかし僕らは既に三回生。ぼちぼち就職活動に精を出す時分である。さらに言えばこいつは英文科所属であるし、世界を股にかける商社マンになると豪語している。この英語力では、足が届くのはせいぜい大阪から四国までだ。玉ネギとかけるわけではないが、淡路島民にタマを蹴られてしまえばいい。


「これはコーヒーのカップルです?なんだよ、コーヒーのカップルって」


珈琲カップを机に置く。陶器のたてるカチャリという音が僕は好きだ。静かな喫茶店では特に。引く波の跡を眺めるかのような、深呼吸の後のような、音の余韻がもたらす平静が大好きだ。だから、場末の古びた喫茶店をバイト先に選んだ。けっして騒音の権化、静寂の世に破滅をもたらす悪の大魔王、つまり茶藤という男を召喚するためでは無い。


しかし、来てしまったものは仕方がない。かのノストラダムスも頑張って予言したろうから、茶藤あたりの来訪で手を打つにやぶさかではない。一九九九年、地球に降り立った悪の大魔王はすくすく成長し、僕という善人の平穏に終末をもたらすまでになりました。


「ほら、まあ座れって」


「いや、僕店員なんだけど。仕事中なんだけど」


「大丈夫だって。こんな辺鄙なところに来んの、俺くらいだって」


茶藤はそう言って珈琲を啜った。豊かな香りがこちらにまでやってきた。すっと、心が落ち着くのを感じる。


僕は珈琲が好きだ。あの琥珀を煮詰め続けたような色、そこからこんこんと湧く豊かな香り。苦み。何度も舐める度にそれは甘みにも似て、僕を籠絡する。それは、例えるなら人生だ。酸いも甘いも濃いも深いも、全ての味を含み噛み分けたかのような、一杯の、珈琲。それは一生の情動に似て。


「あ、あともう一人か」


だから、茶藤に珈琲は、ましてや喫茶店は、似合わない。彼もそれを知ってか知らずか、一緒にいても滅多と茶をシバくことはない。そんな奴が今日ここに来た理由は、何を隠そう僕にある。


迂闊だった。バイト先に気になる子がやってくる。決まった曜日の決まった時間、珈琲を脇に、読書に。そんな恋愛小説にありがちなことが現実に起こったとなれば、僕でも見に行く。今回は見られる側だった。逆に考えれば、僕は今、恋愛小説の主人公なのだ。


「ほら、声かけてみろよ。いつ来なくなるかわかんねえんだぜ」


その彼女は窓際の席に座り、小説に目を落としている。この喫茶店は本好きの店長が定年後に始めたものであり、彼秘蔵のコレクションで壁を作れる程の書が埃を被り、珈琲の香りを馴染ませている。彼女は、それを読み漁るためにここへ通うようになったのだろう。読書には最適の場であることは間違いない。この静けさ。古い紙と積もる埃の匂い。珈琲の香り。茶藤という存在を除いた全てが文学との出会いを演出している。


僕は、いわゆる深窓の令嬢が好きだ。控え目で、大人しく、慎ましく、そして出来れば本が好きで、望むらくは美人で、請い願わくば少々のエロスを備えた女性が大好きだ。


彼女は僕のささやかな嗜好の全てを満たしなお余りある魅力を持った女性である。座る席に、訪れる時間まで完璧だ。丁度この時間に指す陽の光は彼女の肌を照らし輝く。その眩しさたるや筆舌に尽くし難く、僕に皿を二枚とコップを一つ割らしめた程である。黒髪の引き込まれる様な魔力、吸い込まれそうになる妖艶な唇。それらは僕を捉えて離さない。引き込まれたいし吸い込まれたい。


声をかけようと思い、いきり立ったのも一度や二度のことではない。しかし、悲しいかな。心と身体が同期していない。膨大な読書体験は心の豊かさをもたらしたとはいえ、僕の場合ハードウェアがポンコツだったのが不運だった。メンテナンスを欠かしたつもりはないのだけれど。


しかしだ。残念無念また来年と、そう都合よくチャンスがあるものでは無い。悔しいが、その点に関しては茶藤を認めなければなるまい。彼女の読書ペースは速い。明日にも完全読破の記録を打ち立てるやも知れぬ。店長にコレクションを増やしてもらうことで、一応の延命措置は可能かもしれない。だが、また悲しいことに今、店長はVTuberとやらにお熱である。当面は期待出来ない。よって、僕が一皮剥けなければならない。


「え、本気かよ」


真一文字に結ばれた僕の唇、そして揺るがぬ瞳に気圧されたのか、茶藤が初めて動揺を見せた。


意を決した。つかつかと窓際へと歩みを進める。彼女は読書に夢中で気付かない。すうと一度深く息を吸った。テーブルのカップが空であるのに気が付く。


「お客様、珈琲のおかわりはいかがですか」


すると、彼女は顔をあげて僕を見つめた。珈琲色の瞳にドキリとした。それは深く豊かな輝きをもって僕を見ていた。


「それって、タダですか?」


天の鳥もかくやと思わせる、儚さと美しさを伴った声は、僕に天啓を与えた。


「はい。いかがなされますか」


じゃあ、と言い再び本に目を落とす彼女を背に、ガッツポーズをする。茶藤の視線に畏敬の念がこもっていたことは疑いようもない。三百円の価値があった。


カウンターで珈琲を淹れてもらい、再び彼女の下へゆく。


「ホット珈琲でございます」


カチャリ。


「ありがとうございます」


薄桃色の唇が真っ白のカップを咥える。瞼が閉じられ、長いまつ毛が揺れる。何分にも思えるその一瞬に、小さく、ぎりぎり聞こえない程の声で言う。「こちらの、僕からです」


「あの、最近よく来ていますよね」


意を決した僕の第一声に、彼女は怪訝な顔をしつつ答えてくれた。


「あ、ええ。読書にぴったりだし、いっぱい本もあるし…」


珈琲が香る。


第一の関門を突破した喜びに内心うち震える。仮に、もし、万が一彼女との純粋正統なお付き合いが叶った暁には、これが初めての会話となるのだ。


「ですよね。実は、店長が読書家で、本を読みに来る喫茶店を作りたかったそうなんです」


「へえ。どうりで」


彼女が口にする度珈琲が香る。


「あ、それでなんですけど、お名前とか、伺っても」


「山村…山村、もみじ、です」


珈琲の香り。


なんという僥倖。名前まで素敵だ。もみじ。儚く、熱くかつ涼しい名前。話の流れとは何ら結びつかない''What's your name''に気付かない程に高揚している。「それで」って。店長は僕の恋愛成就のために店を作ったわけではあるまい。結果的にそうなるだけだ。


「あの、もし良かったら、僕と、その、お茶してくれませんか」


そんなザマだったから、その言葉は懸念したよりは抵抗なく出てきた。ただ、それが仇となった。


「いや……あなた、店員ですよね。仕事中ですよね」


迂闊だった。忘れていた。目先の一事に囚われ、すっかり自分の立場を失念していた。


「あ、いや、今とかじゃなくて…また、例えば明日でも」


取り繕うのは自分なのに、自分でどこか滑稽だと思う。主観的になりすぎて、逆に飛んで行った客観性が自分を馬鹿にしている感じだ。


「ああ、いや、すいません。ホントにすいません」


彼女は、整った眉をこれでもかと八の字にさせて言った。その声は天の慈悲にも似て、ある意味残酷だ。


断られた。いや、それより二度も謝られた。そのことに絶望に近い感情を憶える。なんというべきか。哀れんだのか。最早可哀相とすら思われたのか。なんと恥ずべき失態。しかし、それは僕の実態。いやもう、全くもってその通りです。


言葉の通り茫然自失となった。数秒前の自分を罵倒する気力すら残っていない。代わりに、ひしひしと茶藤への怒りが湧いてきて、それがやや活力となりつつある。


「あの」


茶藤の席に戻った際の第一声を考えていた時、彼女が言った。往生際の悪い僕は、たちどころに自我を取り戻す。教える連絡先はラインがいいか、ツイッターか、やはりインスタか。そんな阿呆みたいなことを考えていた僕は阿呆だ。


「コーヒーのおかわり、もう一杯頂いていいですか?」


カウンターに珈琲を注ぎに戻ると、耳にイヤホンを差したままの店長が言った。手にはスマートフォンを持っている。


「今日遊んでばっかだから、時給カットね」


僕は泣いた。


席に戻った僕を、茶藤は暖かく迎えてくれた。


「ほら、明日、ジュース奢ってやるから」





人生で初めて見知らぬ女性に声をかけ、そして完膚なきまでに打ちのめされた記念すべき日から一日。夜は眠れず、起きても羞恥に身をよじった。昼食のラーメンも喉を通らず、茶藤に焼豚を取られる始末だ。カラオケでいくら流行りの失恋ソングを歌っても、悲しいどころか滑稽みに襲われるばかり。どう考えたって僕の失恋は間抜けすぎる。良いとこ一発屋の芸人に歌われるレベルだ。


茶藤に奢ってもらった缶コーヒーを片手に二人で歩く。友を労うのならばラーメン代くらい出してもバチは当たらないだろうに。奴はそれどころかメインの具を奪っていった。そういう所が彼の悪い所であり、良い所でもあるのだが、焼豚を取るのは流石に許せない。とはいえ、時給プラス珈琲二杯の計千六百円の缶コーヒーと思えば直ぐに飲むのも惜しくなる。


今日は飲み明かそうと街へ出てきた。しかしまだ日は高く、時計は四時あたりを指す頃だ。人通りもまばらで、落ち着いた秋の雰囲気が漂う。寂しいとも言えなくはない。


如何にして時間を潰すかを思考していた。そうでもなければ記憶の釜の蓋が開いて、羞恥心ゆえの奇行非行に走りかねなかった。その時だった。


「オーウ」


隣の茶藤が奇声を発した。


「ゼァーイズ、ア、カップルオブコーフィー」


彼の指差す方にはカフェがあって、オープンテラスに若いカップルが座っていた。そして、その女性の方に見覚えが、いや、これは確信だ。その、珈琲カップを持ち、男性に幸福な笑みを向ける女性は、彼女──もみじさんだった。


衝動的に手に持った缶コーヒーを呷った。安いブラックコーヒーは味が薄いくせに酸っぱく、そして、ただただ苦い。


「This is a coffee」


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