モブ女よ、傍観できると思うな
「ハァ~……長かった……これでやっとわたしの平穏は確保されたわ」
そう呟いたのは、第二学年のハンナ・ナイセル侯爵令嬢。
ハーフアップに結い上げたダークブラウンの髪をお気に入りのバレッタで留め、指定の制服をほどよく改造して着こなしている。
貴族の生徒たちは、制服に自己流のアレンジを施すのが慣習だ。当然ハンナも周りから浮かないようにそれに倣っている。
顔立ちは可もなく不可もなく。親馬鹿の両親は可愛いと褒め称えているが、客観的に見たら有象無象に紛れる平凡な顔立ちであることは自覚している。
唯一、くりんと上向きの長くて多い睫毛は自慢できるところだろうか。
「感謝してもしきれないわね。さすがヒロイン。ヒロインさまさまですわぁ」
浮かれた声で独り言を続けるハンナ。
ハンナが座っているこのベンチは、誰にも見つかったことのない穴場にあるにも関わらず、中庭の様子が良く見える絶好のポジションだ。
ハンナはよくここに来ては彼らを観察していた。
ハンナの目線の先には、学園で一番目立つ存在である五人の生徒がいる。
そのうちの一人は、平民の出でありながら第一学年首席の頭脳を持つ女子生徒――ユーフェミアだ。
ハニーブラウンの艶やかな髪を緩く三つ編みにして、簡素な紐で括っている。制服は一切着崩していない真面目ちゃんそのものの格好であるのに、一際目立つのは彼女の美貌ゆえだ。
平民とは思えないほど白くてきめ細かい肌に、二重のぱっちりとしたアーモンド形の瞳。薄い唇は紅を差さなくても綺麗な桃色。おまけに鼻筋も通っていて、多少の好みの差はあれども彼女が美少女であることは純然たる事実だった。
ユーフェミアを取り囲むように陣取っているのは、王太子殿下、宰相子息、騎士団長子息、留学に来た隣国の王太子殿下の四人。
国の未来を背負って立つ地位にいる彼らは皆、彼女に恋情のこもった蕩けるような甘い視線を向け、熱心に口説き文句を紡いでいる。彼女からの愛を勝ち取ろうと、バチバチと火花を散らしながら。
ここまでくればもはやテンプレ。分かる方はとっくに分かっているだろう。
ユーフェミアは、主人公であるヒロイン。
王太子殿下ら四人は、攻略対象。
そしてハンナは、名も明らかにされないモブ。
そう、ここは前世が元日本人女性のハンナがプレイしていた乙女ゲームの世界なのである。
(うふふふふ。見事逆ハー達成ね、ヒロイン様。おかげでわたしが誰かしらの婚約者になるルートは完全回避! 気分は当然、最&高!!)
ハンナの家は侯爵位なので、王太子の婚約者候補に挙げられる位置にある。むしろ同世代唯一の公爵令嬢は、他国の王太子に嫁ぐことが決まっているため、婚約者候補筆頭は間違いなくハンナであった。侯爵家の令嬢は他にもいるにはいるが、些か齢が幼すぎて除外されてしまったのだ。
もし王太子でなくても、公爵家に次ぐ侯爵家であるハンナがその側近達と婚約させられる可能性が高い。というか、確実であった。
冗談じゃないのである。
ハンナは田舎でのんびり暮らすのが夢なのだから。
ならばどうすればいいか?
その答えがヒロインの逆ハーレムエンド。ぜぇ~んぶ彼女に投げてしまえ作戦である。
良心の呵責に苛まされることもなくはなかったが、我が身が一番可愛いので仕方がない。
ハンナはあらゆるイベントをヒロインに押しつけるにあたり、決して自分の足がつかぬよう、誰かが悪者にならないよう気をつけてここまで漕ぎ着けた。
(誰にも迷惑をかけないでここまでやれるなんて、良くやったわ。ハンナ、あなたは天才ね!)
勉強はギリギリもいいところなハンナだが、乙女ゲームに関しては(前世だったら)客観的にも高評価されるだろう膨大な知識があった。ストーリーも台詞もキャラクター設定も舞台設定も裏話も、何もかもを諳んじられるほどだ。
この作品の重度のオタクだった彼女は、貯金をはたく勢いで発売されたあらゆる関連コンテンツを買い漁り、全てのイベントにも参加した猛者であった。
その執念とも呼べる情熱で培った確かな知識を元に、ヒロイン逆ハーレムエンドを外野であるハンナが達成してみせたのだ。
シンプルにめちゃくちゃ凄いのだが、当然ながら自分以外に褒めてくれる人はいないので自画自賛するしかない。
(逃げ切った! 逃げ切ったったら逃げ切った~!)
ハンナは浮かれきっていた。
浮かれきってテンションだだ上がりで鼻歌なんて歌っていた。
「皆の者、祝杯をあげようぞ!」
謎口調で空想のジョッキを掲げるハンナ。
おまえ誰だよってか皆の者って誰だよというツッコミが入らなくても、気分が最高潮のハンナは気にしないし、そもそも求めていなかったのに。
「うん。祝杯をあげよう。君と私が結ばれる今日という素晴らしい日に」
こつん、と。
ハンナの空想ジョッキに応えるように、何かがハンナの拳に当てられる。
手だった。拳を作った男性の手。
「!?」
ハンナの喉がヒュッと鳴る。
「……………………だれこのいけめん……」
ハンナがアホ面を晒しながらやっと口に出来たのは、その一言だった。
現実世界では乙女ゲームの攻略対象なぞ関わりたくないが、本来ハンナは面食いである。
「ッ! 私のこと、かっこいいと思ってくれているの? 嬉しいな」
「……ぅぉ」
(変な声出た。変な声出ちゃったわ。え、誰? めちゃくちゃイケメンなんだけど。嘘でしょ攻略対象ばりのイケメンじゃないの。褒められて赤面するイケメンとか何のご褒美? ゲームクリアの報酬ですか???? ごちそうさまで――ん?)
イケメンのことで瞬時に頭がいっぱいになったハンナだったが、ふと我に返る。
「……あの。結ばれると仰いました……? その、わたしとあなたが……?」
大事なことなのでイケメンに尋ねてみるハンナ。
イケメンは目の保養だし愛でたいし尊くて拝みたいが、何だかあんまり良い予感がしない。
幻聴であれと願う。
「そうだよ。長かったよすごく。気持ちとしては百年くらい待った。あいつらが全員片付くまでハンナは恋をしないと言うから、ずっと我慢していたんだよ。まぁその間は誰ともどうにもなるつもりは無いという意味でもあったから、外堀は埋めやすかった」
「???」
今度は宇宙猫顔になるハンナである。
イケメンが言っていることが理解不能だ。一つも分からない。
「…………あいつら、とは……?」
フリーズしながらも何とかかんとか現状を把握しようと試みるハンナ。
ヒロイン逆ハーレムエンドを達成したハンナが自慢できるのは、物事を完遂させるまで諦めない雑草のごときド根性があることと、(自分のフラグを立てないための)危機察知能力を身につけたことだ。
そして、目下の注目ポイントは、後者が今バリバリに危険信号を出している点。
「ん? 王太子と、隣国の王太子様、宰相子息、騎士団長子息のことだよ」
「……」
ハンナの警戒レベルがぐんと引き上がる。
(ヤバイ。マジでヤバイわこれ。どれくらいヤバイかっていうとマジヤバイ。このイケメン、貴族令息どころか王太子殿下まで呼び捨てにしてるじゃないの!?)
こんなにイケメンなら、あの乙女ゲームの中にいてもおかしくない。しかし、ハンナの記憶には全く彼の存在は無い。ならば誰だというのか?
ハンナは現実世界の知識を掘り起こす。
頑張って掘り起こす。
ハンナはゲーム知識こそ馬鹿みたいにあるが、普通の勉強はイマイチな残念少女である。
田舎でのんびり暮らす夢を叶えるため、果てしなく面倒なことを死に物狂いでやり遂げた残念少女である。
そんなハンナだったが、幸か不幸か閃いてしまった。
王太子を呼び捨てにできる地位におり、生徒でもないのに学園内に立ち入れる人物なんて、限られている。
国王陛下の年の離れた実弟で、イケメンで優秀にも関わらず、何故かこれまで婚約者を置いたことがない変わり者と世間で言われているそのひと。
「――お、王弟殿下……?」
ハハッと乾いた笑いが漏れそうになる。
半ば諦めながらも、弾き出した答えよ外れてくれと祈る。
「――えらい。良く出来ました」
「ひぇ」
ハンナは王弟の微笑みと頭なでなでのダブルパンチを食らって、令嬢にあるまじき情けない声が出た。イケメンしゅごい。尊い。目が潰れそう。
「ハンナ」
イケメンから自分の名前が発せられるのは、こんなに破壊力があるものか――と、ハンナはうっとりと身を預けそうになるが、ぶんぶんと首を横に振り、正気に戻る。
(待て待て待て待て。ハンナ、気をしっかり保ちなさい! 正解したからってどういうことか結局分からないわよ。王弟殿下と面識なんて一切ありませんけどぉ!!?)
「はぁ……百面相しているハンナも可愛い。どんなハンナも可愛い。愛してる。結婚式は盛大にしようね……」
「え!? は? け、けっこん?」
「うん。君のご両親にも、陛下にも許可はもらってあるよ。だから安心して。ところで、結婚式のドレスはどうしたい? ハンナはどんなドレスでも似合うと思うけど、一番可愛くなるものを選ぼうね」
「待て待て待て待て」
ハンナが敬語も令嬢っぽさもかなぐり捨て、イケメンにストップをかける。
何だかとんでもないことになっている。気のせいで済ませたいがそうも言っていられないほど事態は深刻な気がする。
「待たない。君は私のお嫁さんになるんだよ。何年待ったと思っているの? ちゅ」
「ッ!?」
王弟から流れるように口づけを落とされた。口に。
「お、お止めくださいっ! 王弟殿下!」
「……私の名前はジェラルドというんだよ、ハンナ。知らなかった?」
「……? え? いえ、存じております……」
さすがのハンナも、王族の名前くらいは知っている。不満そうな王弟の意図が分からず、ハンナはただただ彼をじいっと見つめてしまう。
「ッ。そんなに可愛い顔で見つめられたら我慢できないよ」
「はい? 何を……んっ」
再び唇にキスをされた。
(いやいやいやいや、何故何故何故何故?)
ハンナはざぁっと青ざめながら慌てて離れようとするが、いつの間にかがっちりホールドされていてビクともしない。
ジェラルドにとって、ハンナの抵抗など子猫がじゃれているくらいの力しかないらしい。意にも介さず、顔中にキスを降らす。
「ひゃ、止め、止めてください王弟殿下!」
「……ジェラルド」
「へ?」
「ちゃんと私の名前を呼んで?」
(王族相手に名前なんか呼べるわけないじゃないの~~~~!? こちとら身内でも婚約者でもない他人なのよ!? 何言ってんのかしらこのイケメン!?)
ハンナが脳内でおもっくそ否定的に叫んだのが分かったのか、ジェラルドはあからさまに音を立てながら首筋へもキスをする。そのまま唇を滑らすように移動させ、また新しい箇所へキスを落とす。
(ななな、なんでこんなこと平気で出来るの!? 恥ずかしくて頭が沸騰しそう……ってそうじゃない! さっぱり経緯は分からないけど、このままじゃ私のスローライフが確実に頓挫する。それは嫌よ。どれだけわたしが頑張ってきたと思ってるのよ!!)
ハンナは物心ついたときから、のんびり田舎暮らしを夢見て奔走してきたのだ。そう簡単に流されてたまるかと気合いを入れる。
「ほ、ほほ。まぁ。王弟殿下。そんな畏れ多いこと出来ませんわ。どうかお離し、んん、んんん~~~!!」
往生際が悪いとばかりに、ジェラルドはついに深く口づけてきた。
虚しくもハンナの意気込みは早々に折られそうである。
「ねぇハンナ。ジェラルドだよ。んちゅっ」
「はっ、は、うう、んん!」
「ハンナ、ほら、ジェラルド。言ってごらん? んっ」
「んぅ、は、言いますぅ! 言いますから止まってぇ!」
ジェラルドはキスの合間に質問と息継ぎをして手慣れた様子だが、全く経験の無いハンナはたまらず白旗を上げた。羞恥と(物理的な)苦しさで顔は赤いし息絶え絶えだし涙目である。
こんなことずっと続けられたら、心も身体も耐えられない。ならば、悔しいがさっさと言うことを聞いてしまった方が良い。ハンナはそう判断した。
「はぁ。はぁ。……ジェラルドさま?」
「!! ああハンナ、可愛すぎるっ!」
「んんん~~~~!!?」
(呼んだじゃない!? なんでッ!? 何で止めてくれないの~~~!!)
ハンナの悲鳴は全て、ジェラルドから与えられるたくさんのキスで音になることは無かった。
散々キスをされ、際どいところを撫でられ、触れられ、すっかり抵抗する気力も無くなるほどトロトロになったハンナが理解できたのは一つ。
(田舎暮らしの夢、完全に閉ざされたわね――……)
ハンナは知らなかった。
前世のハンナが亡くなったあと、彼女の愛した乙女ゲームで新規のダウンロードコンテンツが配信され、王弟が攻略対象として追加されたことを。
それに伴いストーリーも大幅に改変され、本来ならば逆ハーレムエンドの達成への道筋だった分岐が、王弟ルートへ繋がっていたことを。
ハンナが本来のシナリオの知識を元に暗躍した結果、攻略対象達もヒロインもそれぞれ愛する相手を見つけ、王弟の恋路を全力でバックアップしていたことを。
「……はぁー……助かったァ。あんなクソデカ感情受け止められないって。前世だったら執着ストーカーだよ。イケメン無罪とはいかない案件だよ。しかもいずれ確実にヤンデレにレベルアップするやつ。怖ぇ。怖ぇよ権力。いやぁ感謝してもしきれないね。ほんと、ハンナ・ナイセル侯爵令嬢さまさまですわぁ」
予想より多くの方に読んでいただいた嬉しさで、蛇足も投稿してみました。よろしければお暇潰しにどうぞ!